結語:
兄弟達;実にいうと、神は、ヨハネの黙示録にあるポイントが、「しかり、わたしはすぐに来る」と言われることである。現世にあるすべての栄光や誇りには、何一つでもなく、主の再来の時になると、空の空と化してしまう。しかし現世には、本物って何でしょうか?一旦肉体生命が尽きれば、本当だとなるでしょう。
神のまえでは、一体どれ位努力されたのでしょうか?神の国では、尊い祭司となれるだろうか?将来のうちゅうにて、最も偉大な職業は、神に仕えることである。もうIBM社に務めることではなくなり、その時にコンピューターが存在されない。」なぜかというと、人間の頭は、コンピューターより早く、人間の能力が非常に強くなるであろう。
コンピューターのプログラムを書く時に、一つの問題にぶつかった事が有る。カメラで、カメラにある資料をコンピューターにいれてから、ハードデイスクで、比べ合わせて、どうやって、コンピューターは、人が座るか?を解明できるのだ。解明判断ができれば、初めて人口知能が揃える。
1980年代にあるアメリカレガン大統領のボディカードがいて、レガン大統領は、暗殺される時に、この警備がレガンの前に跳び込んで、拳銃の弾を喰らった。その後、命には支障がないが、歩く時に、真正面から、歩いてくる人を右や左へ避けるのを知らなかった。大脳の働きが壊れてしまったからである。
コンピューターは人が座るか立つか?判断区別さえできない。人の脳には、元々非常に複雑の計算があるが、今この機能は神によって施錠した。創世記をよく見て、神はアダムに何をやらせるのですか?
創世記2:15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
先ず、神はアダムにエデンの園を耕させ、これを守らせられた。エデンの園には、どれ位の大きさでしょうか?また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。2:11その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、 2:12その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。2:13第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。 2:14第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。 その長さ、各、二、三千キロメートルもある。
では、エデンの園の大きさがお分かるでしょう。しかし、今の貴方にこれを耕させ、これを守らせられる事がか不可能であろう。しかしアダムには、そんなことをやって、管理するのが可能だったが、なぜそんなに力持つでしょう?
創世記1:28神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
神はアダムに与えられる命令は、空中に飛ぶ鳥と地上に様々の動物も含めた。もし鷹に降りてこいと命令しても鷹が、命令に従わない場合、アダムの管理は空中に飛ぶ鳥を管理する事が可能でしょうか?勿論、鷹が命令に従わなければ、アダムも簡単に飛んで行って、鷹を捕まる事が出来る。捕まって、一ピンタを与えれば、今後も必ず逆らえないである。
その外に海の中にある魚をも管理する;鯨が海のどれ深い所に潜るだろう、又地上にいる生き物も管理する;ラィオン、虎、像など、パフアロの群がれが衝いてくるに出会えば、どうする?アダムには何か能力があるでしょうか?恐らく、指1本で、一頭のパフアロを抑えられるであろう。
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だから、魂に属する人の場合、非常に力持ちで、善悪の果物を食べたので、墜落した。魂が施錠され、そして、霊が死んでしまった。勿論霊の力は、魂より大きいのです。そして、魂の能力が施錠されて、霊がしんで、我々は、肉体の人に属する事になる。創世記は第三章で、英語の聖書が人を「flesh」と呼び、「soul」と言わなくなる。そして、人の「spirit」―霊が消えてしまった。
「flesh」の肉体能力は非常に小さく、限られている。多くの人がヨガや霊通いなどをきたえるのも、魂の力をひっぱりだしたいと思うからである。魂の力を鍛えるのが非常に魔に入りやすい。その原因は、人が墜落し、魂の中に邪霊がある。
では、私達は救いを受けた人には、現世で何を鍛えるべきであろう?私達は霊のある人であり、魂に属する人より、次元が高い。アダムの位格は御魂です;ヘブル語は生命を三つの文字によって、表現する。一つ目は肉体的生命、二つ目は魂の生命、魂の生命と言い、三つ目は霊の生命である。
霊の生命は、どなたですか?
コリント人への第一の手紙15:45聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
「最後のアダムは命を与える霊となった」霊の生命とは、神自分である。
創世記2:7主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
生きた者となったとは、ヘブル語によると、霊のある生き物となる。神は命の息をその鼻に吹きいれられたが、そこで人は霊のある生きた者となった。ところで、その霊とは、神のような霊ではなく、アダムは霊のある生き魂となった。彼の身元が魂にある。当時のアダムの魂の力が非常に大きくて、生命を魂に主要である。もし彼は、霊の中にあれば、善悪の実をを食べる事がなく、死ぬこともなかったであろう。
当時に、エデンの園にあるいのちの木は神の霊であり、結果として、人がいのちの木の実をたべなかったが、かえって、善悪の木の実を選んだので、罪を犯してしまい、魂のいのちの力をロックされた。
現世で、主イエス・キリストの救いを受けられたことによって、私達の罪が許されることになる。
エペソ人への手紙2:13ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。2:14キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、2:15数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、2:16十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。
更にガラテヤ人への手紙を読みましょう;
ガラテヤ人への手紙3:13キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。3:14それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。
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この霊は神自分である為、私達を霊のある人と呼ぶ。この故に、人はひとたび助かって、神の霊を賜って下さるため、最高な次元の霊の格にある私達となり、魂の最中に有るものではなくなる。
創世記:21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
当時に、神はアダムを深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造ったことによって、何を意味するでしょうか?この聖書の言葉を読んだ時に、なぜ又別の土で、女を作らないか?と私達は思うでしょう。神はアダムを深く眠らせるのは、基督の死を示すのである。又アダムのあばら骨の一つを取って、女を作ったとは私達はすべて基督から出てくることを意味するのである。私達は救いを受け入れてから、基督から、賜って下さる御霊であるというのです。
ペテロの第一の手紙2:2今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。2:3あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。
ヘブル人への手紙5:13すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。5:14しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。
では、霊は霊の乳と堅い食物を飲む必要があるが、この食ものの持ち主は何方ですか?
ヨハネによる福音書6:63人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
この言葉は、即ち、下記の聖書を見ましょう;
ヨハネによる福音書1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2この言は初めに神と共にあった。
この言は、即ち、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は基督である。
新しく生まれるのは、基督であり、食う飲むも基督で、私達は、これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉で、ヨハネによる福音書でにある「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
ヨハネによる福音書6:53イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。6:54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
ある人は、怖いぞ食人族となってしまうではないか?と言うかもしれないが、そう言ったいみではない。人の子の肉を食べ、また、その血を飲む意味は、主の言を食べると飲むことを指すのである。主の言とは、主自身であって、即ち主の言葉は霊であり、また命である。
今私達は神の言を読むことによって、我々の霊を鍛える事である。霊の次元の高さは、想像もできないほどであるので、努力して、神の言を鍛える必要があります。それにエペソ人への手紙にある神は教会に賜って下さる恵みについて、
エペソ人への手紙4:11そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。4:12それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
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こうすると、神は私達の身の上に下記の言葉のように
エペソ人への手紙4:13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
兄弟達よ、神はある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだー教会を建てさせ、そして、各種の困難を発って、経験をさせて下さる。
伝道の書1:13わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。
それでは、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事かから、何を得られるか?
伝道の書3:11神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」とは、生命を人の心に伝送するのである。神は人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事を体験させ、福音を信ずることであれば、御霊が貴方の心に賜ることになる。それに聖書を読み、預言者や教師及び牧師の聖書指導を受け、そして、御霊が環境に合わせて運行を行い、神のなされることは皆その時にかなって美しい。
ローマ人への手紙8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
「万事を益となるようにして下さること」とは、生命を得させることを指すのである。だから主イエスは;
ヨハネによる福音書10:10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
ということによって、霊を鍛える自体が現世にて、もっとも重要なことである。しかし貴方は、霊を鍛えようとするが、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている悪霊が許さないこよによって、邪魔が入って来る。
エペソ人への手紙2:2かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
この様な戦いは貴方の心にある、御霊と邪霊の戦いとなり、絶えずに、聖書を基によって、神に従いながら、御霊の声に傾けるこそ、是か非かを分別できる。
イザヤ書30:20たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。30:21また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。
ヘブル人への手紙4:12というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
御霊の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。神の言こそ、私達の力となる。熟読してください。
上記の聖書を読むと、霊・魂は元々独立され、別々の部分を指すのですが、現世では、私達の中に密接に連合され、霊魂を一つだと感違った。なぜかと言うと、それは、邪霊が長い間の活動によって、 既にくっ付いてしまい、離れ難くなり、邪霊が、貴方の心にて、
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変な働きをし、貴方を救いの道から、離れさせ、火の池に投げ込まれるようにさせたいと思うからである。そして人間は常に自分の意思でやることを決めると思いがちで、まさか邪霊に惑わされることを知らないだろう。
しかし、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。神の言や悪魔の惑わしが区別できる。しかし鍛える必要が有る。
神の言や悪魔の惑わしを区別できるまで来れば、貴方の霊の次元の境が、ローマ人への手紙八章6節の言われたとおりに;
ローマ人への手紙8:6肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
では、霊の生命を鍛える時に、常にぶつかった大きな問題は、何ですか?十分の一の献金である。神は十分の一の献金が必要と言われたが、悪魔は貴方に与える理由が幾つにもある。収入が少ない、生活費が足りない、献金すれば、足りなくなる。上記のような理由を持つ人間が多いであろう。貴方は真中に立ち、一方が神の戒めであり、もう一方は、悪魔が自分で使いなさいと善悪の最中に立たれる貴方はどうなんでしょうか?
創世記にあるへびは女のエバに言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。3:2女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、3:3ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。3:4へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。3:5それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
貴方は、両方から話を聞いて、誰の話に耳を傾けるのか?もし 肉への思いは強ければ、死であるが、善悪の実を食べたエバであるが、人類が数千年之苦痛と苦難の続きとなり、肉の思いは死である為だ。この死とは、永遠に死となるのです。
ですので、霊・魂の戦いの時に、ローマ人への手紙によって、教えて下さったのが、霊の思いによって、戒めに従って、十分の一を奉げるべきである。
ローマ人への手紙8:6肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
霊のある生活は子の通りになる。クリスチャンとしての生活はこのまま突き進んでいけば、一つについでに一つの環境が発って、神への依頼が持続されれば、神様は偉大な神である事に気が付き、客観的な認識から、主観的な経歴に買われ、より神を認識する事になる。と言う事によって、福音を受け入れてから、御霊が賜って下さって、只スタートを切る段階に過ぎないので、本当にこれから自分の霊を絶えずに鍛えて、そして、スーパエネルギを天から降りてきて、貴方の身体に御霊の力を賜るのです。このスーパエネルギとは、即ち聖書である。新旧約聖書、すべて66巻、1189章に上る。
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聖書を読むと言うと、聖書にあるすべての故事を理解できたら、神の言の中に入りこむことになる。そして、諸種類の智慧や聡明―神の言が心に豊富に暗記できる。御霊が運行し、神の言が直ちに出てきて、悪魔に勝つ。
貴方は、心が弱い時に肉に思いにするが、強い時に、霊の思いになる。しかし 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
このような鍛えを繰り返しながら、霊の生命が間違いなく成長するであろう。
エペソ人への手紙4:13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
ピリピ人への手紙1:21わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
その日、神の懐に寝てしまえば、貴方もパウロのよう、恥じないように言える;
テモテヘの第二の手紙4:7わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
振り返って見ると悔いが残らない。貴方は一生にかけて、霊の鍛えをしたのだから。創造者の生命を得られる為に、鍛え続けて、更に豊かに得るため、努力したのである。我々は、悔いが残らない。他人はお金の為に務めるが、私達は、生命を得られる為に努力した。しかし兄弟は、
マタイによる福音書6:24だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
一人には、ただ一人の主人に兼ね仕える事が出来ない。貴方の主はお金であるが、基督である?お金に仕える人の結果は殆どいい結果がない。大部分の人にとって、自身が使うより他人が使った方が多いだろう。ある企業家は、毎日のお昼食は、ラーメンだけで、十分だと、なぜか?血圧や血糖値の数字に関わるからである。食べ過ぎると、死に早くなるであろう。我々は、お金持ちの友人を見れば、稼いだお金を誰の為に使ったか?どうか、見極めれば、殆ど他人の為に使われたのではないか?お金ばかりを追い求めるばかり、空の空と言えよう。
このようなことを理解でき、私は主イエス・キリストを信じてから、三十数年になって、主を認識できてからの初日から、毎日朝のお祈り会を参加し、1週の間に二十数回の集会に参加し、また各種の艱難の中で、試練を鍛え、主に一心托生を学習するように頑張りました。聖書をよんで、聖書を見て、聖書を話す。
今になって、各種の社会団体や大小企業は大金をつかって、私を講演会に招きする時に、一年前にセッテイングしなければならない。そして、私の頭を縦に振ることをお願いするしかない。しかしもし兄弟からの電話があれば、内の教会で、神の言葉を説教するように招いて下されば、私は出来るだけ、実の周りのことを押してしまって、あちこちにいって、神の言葉を述べ伝える。何のためにあるでしょうか?鍛える為であると思う。
しかしまだ、パウロのように言えないですが、
テモテヘの第二の手紙4:7わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
私の人生の中に、確実に絶えずに、戦いに出会え、多くの失敗にも遭遇したが、鍛えをし続けて、放棄したことがないし、冷たくなることもありえない、更に後退したこともありません.
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私もこの世界を愛するが、いくら世界を愛すると言っても、神は私に理解が出来るようにさせて下さって、
ローマ人への手紙8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
神は見つからせて、ポルシエの車を買ってから、重荷となり、運転する時間がなくて、バッテリが切れてしまったと悔しくてたまりません。本当に世界の美しい物も空の空といっても過言ではない。兄弟達よ;世界を愛してもだいした事ではない。できるだけ色んな体験をしても好いのですが、忘れてはならないのは、神の言葉を豊富に覚えて、心に深く刻んでおかなければならない;
詩篇1:2このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
昼も夜も主のおきてを喜べば、御霊の運行に加えれば、貴方は自然に光って来て、神の言を体験し、暮らしのあかしを擁することになり、信じている神は真の神であると発見できるのです。
私は主イエスを真に信じています。学生時代から、完全に主を頼りにして、歩いて来られたのです。当時の私立大学に入って、4年間の学費の支払いがどうやって支払ったか?今でも思い出せない。神は私が無事に大学卒業が出来るように見守って下さったのです。この様に、極度の貧乏から主に従ってきて、ある日、主基督の豊富に出合わさせられた。豊富を体験すると、更に大きな試練に出合え、即ち十分の一の献金である。
兄弟達よ;お金は私達のものではなく、適当な場所にお金を使う智慧があるように、常に主にお祈りする必要が有ります。ルカ福音書十六章を参考にするように、智慧のあるお金の管理者と成れる。
私達は、すべての体験中で、多くの失敗に出会う事が有るが、真に神を頼りに信ずれば、ダビデ王の言葉を体験する事が出来る;
詩篇119:105あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
この光は常にこの道が正しいと教えて下さる;
イザヤ書30:20たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。30:21また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。
非常に奇妙であるが、霊を鍛えれば、神の生命を得ていると言う意味である。宇宙において、すべての被造物が消えるできであるが、例え永世にある庶民は、もし死亡が存在していれば、彼らは依然として、過ぎ去ることになるだろう。つきましては私達は神の生命を得ている人は、私たちがさらに死ぬことができないと言う。私たちは霊を着て得続き、霊が豊かになる、或る日勝利を得て君の尊の祭司となられるよう努力する。
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勝利を得る者には、智慧が必要である。現世の困難は、貴方の智慧と判断を鍛えるためである。ある日;
ピリピ人への手紙1:21わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
勝利を得る者は王となって、これは、物凄い王である、ジンギスカンやアレキクサン王よりも凄いので、到底王としての生命が足りなければならない。現世で、この霊を鍛えなければならない。世界で、いくら重要な名所や古跡や人物などと比べたら、一時期において、その重要性が有るかもしれないが、一旦時代が変わると、価値性が変わってしまう。しかし聖書と言う神の言は、永遠に変わりなし、重要である。ただ聖書を熟読できれば、現世で最も大事なことを忘れないでほしい。地上の哲学思想、政治理念は、常に時代の変化により変わって、価値観も盛衰に変化しつつである。もし貴方の一生は、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたら、貴方の一生は終わりである。
エペソ人への手紙2:2かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
私の場合は、常に聖書を読んでいる。生活や仕事に置いて、役に立ってもらえるのは、聖書のみで、その外に、あんまりないと思います。神の言を認識できることより大事なことがありません。牧師は常に聖書を読みなさいと叫んでいる。主はすぐにも来るのである。
ヨハネの黙示録22:7見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
22:12「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
主は来て、報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。この言葉は救いを受け入れる人に話したのです。神の家の人を裁くことを指すのである。必ずしもクリスチャンとなってから、罪が許されたと思って、物事に勝手に行う。そんなにしたら、ある日、主が来て、報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
22:20これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
上記の聖書では、二人の話をさすのであるが、一人は、これらのことをあかしするかたが仰せになる。これは、主イエスである。
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もう半分は、アァメン、主イエスよ、きたりませとは、使徒ヨハネは言われたのです。ヨハネは言われた言葉のように、私達も言えるでしょうか?もし今にも来れば、恐らく、皆が火の池にいれられるではないか? 兄弟達よ;貴方の中に光と油が有りますか?先ほど鍛えると言ったが、それは、すべて中の光と油を鍛えることを指すのである。クリスチャンとなってから、いつも油を鍛えるー聖書を読むこと。聖書を読んだと言っても、只材料が得て、次に各種類の環境下で、霊の鋭さを磨く必要が有る。それも、困難の環境下に置かれる自分が、万物には益が有るというふうに、すべての困難が臨むと、鍛えられ続けて、貴方の光に油が切れ目がないようにさせるのです。
ヨハネによる福音書3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
この永遠の命とは、ただ生きるだけではなく、イエスを信じることによって、得られる永遠の命が、神の永遠の生命であり、霊に属するいのちで、永遠に生きて、血の気に属する人より生命の次元が更に高い。主イエスを信じ、得られた永遠の命は、永遠に生き、身分が高い。永世の中の庶民は、永遠の命が有るが、血の気に属するので、神の生命がない。
イザヤ書66:22「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。」新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
永世の庶民は、彼らの安息日に二つのれいはいがある。一つは
イザヤ書66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
第一の礼拝は謹んで神に礼拝することで、第二の礼拝は、出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る、何を見るのか?
ヨハネの黙示録22:15犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
犬ども、まじないをする者とは、変なわびしさの鬼を拝みなど、変な行いをするもの。次に姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者。また偽りを好みかつこれを行う者。偽りを好みとは、嘘をつくりことで、実際に存在されていないものを作り出し、例えば。モルモン教、一貫道、自分さえ嘘だと分かっていても、嘘を作る。
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では、嘘付きとは、自分のものではなくても、自分の者だと言うのです。このような人であれば、すべて火の池行きになる。
聖書はどうやって火の池を言うのですか?
イザヤ書66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
聖書によって、神は永世の中に新エルサレムにいますので、庶民は、新エルサレムにて、神を拝む。では、彼らは出てー即ちエルサレムから出て、都の外にいって、そこで、犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。「わたしにそむいた人々のしかばねを見る。」
そのうじは死なず、その火は消えることがないとは、火の池の様子だと説明し、即ち第二次の死と言うのです。
ヨハネの黙示録20:14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
第一次の死は、人の息が止まったら、あっという間に、死んで、感覚もなくなるが。第二次の死は、人の霊魂が永遠にある状態の中に置かれ、世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
ヨハネの黙示録20:10そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
そのうじは死なず、その火は消えることがない。なぜ「そのうじは死なず、その火は消えることがない」を付け加える?もし虫が死ぬことが出来れば、主にそむいた人々のしかばねによって、打ち殺されるのではないか?そうなると、すこしでも楽になるだろうが、しかし、火も永遠にきえることがない。
どれ位の虫がいるだろう?聖書によって、サタンが火の池に投げ込まれる時に、うじはあなたの下に敷かれ、みみずはあなたをおおっていると形容される。あれは、貴方の家のふとんのように厚いのです。
想像して見て下さい;ムカデがあるか?サソリがないのか?ゴキブリがあるか?あのゴキブリがあなたの体に這うことを恐れるか?自白を敵にさせるため、ある一種の残酷な刑罰があり、ある籠に様々の虫がおいて、人を裸にし、あの籠の中に入れれば、間もなく、自白をさせる事が出来る。何しろ、白状しなければ、全身が虫に噛まれて死んでしまうのです。火の池に居ると同じであり、各種の虫が貴方を噛み、噛まれたら、痒くて、痛いが、最も我慢できないのは、痒いのである。
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小さな毛の虫に体が這われることがあれば、分かると思いますが、あの痒さがたまらないし、腫れることもあって、氷で、当てれば、痒さがすぐ止まるが、火で、焼くと痒くてたまりません。火の池に居て、最も苦痛のは、痒さであり、数万度以上の高温で焼かれると、暑くて、痒いし、痛いので、永遠に火の池に居る光景を想像すればどうでしょか?
各種類の虫によって、這われて、横にならざるを得ない時に、うじはあなたの下に敷かれ、みみずはあなたをおおっているとは、人間が死んでから、肉体が腐れ、うじが生まれる。普通肉体が腐れても恐らく、数匹のうじやみみずしか見えないが、火の池では、想像もつかない厚みのうじとみみずが重なって貴方を囲いであろう。兄弟達よ、頑張って、勝利を得られるように神様の恵みを見捨てないように、
ヨハネの黙示録2:11耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。
兄弟達よ、聖書にあるヨハネの黙示録は初めから最後まで、すべては神様の預言であり、神の言われる言葉毎に、必ず成就される
ヨハネの黙示録22:18この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。22:19また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
聖書には、人間の歴史上に置いて、多くの食い合わない所が有ると思われたが、なぜ直されて事がなかった?主な原因は、上記の言葉を明記されたので、誰でも手加減をする勇気がなかった。何しろ、神様は仰せになったのである。皆もかわるように、聖書を述べ伝えるのがイスラエル人であるので、聖書はイスラエルの歴史と言う人もいるが、いいえ、これは事実ではないのです。もし聖書はイスラエル人の歴史であれば、聖書の中にイスラエル人を描く内容を好く読めば、みっともないイスラエル人だったことが書かないはずのではないか?人間の歴史に置いて、自分の国家の歴史をきろくするに当たって、すべて、偉大な先祖と光栄の跡を描くでしょう。しかし聖書の中にあるイスラエル人を見ていたらそうではなかった。
ヨハネの黙示録による預言される災いが恐れ入るものである。第七の鉢による一タラントの重さほどの大きな雹のことをみると、どれ位怖いであろう;
ヨハネの黙示録16:21また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降ってきた。人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。その災害が、非常に大きかったからである。
もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
と言う事によって、歴代にわたっても権勢のある人でも、王でも、文学者でも、誰でも聖書に勝手に手加減ができない。
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ヨハネの黙示録の二十章で、ミレリアム(千年の期間)を述べる。ミレリアム(千年の期間)は、基督が新婦を迎えることを指すのであって、新婦は聖なる都、新しいエルサレムである。
ミレリアム(千年の期間)とはアダムから今まで六千年の期間が過ぎ去ってから、第七千年―要するにこの丸々千年の事を基督の婚姻の宴、羊の婚姻である。ミレリアム(千年の間と呼ばれる。これは全宇宙では、行う盛大な婚姻の宴である。
2000年に入る前の1999年の事を思い出せば、世界の人々がミレリアム(千年の期間)を祭り上げて、全世界の至る所で、祝いをしていた。でもミレリアム(千年の期間)を理解できる人がすくなかった。ミレリアム(千年の期間)とは、基督と教会の婚姻を意味し、聖なる都、新しいエルサレムをすべての聖徒即ち新婦を指すのである。聖書によって、新婦は夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえた、夫はイエス・キリストである;
ヨハネの黙示録21:2また、が、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
人はなぜ生きるのか?人は地上で、生きる目的は一体何のためでしょうか?このような問題は誰でも触れる勇気うがなく、又知らないかもしれない。人間は非常に努力が出来て、毎日、仕事の為に土曜日曜になると、塾にITの勉強をして、人に遅れないように、頑張る。又夜間学校にかよって、何かライセンスを習得するために、努力する人にこんなに頑張って貴方の人生の目標はなんでしょうか?と聞くと、必ず答えられるとは限らない。
聖書は人生に対し、何を物語っていたのか?又人間の一生の運命は如何なものであろう。
創世記2:18また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。2:19そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。2:20それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。2:21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。2:24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。2:25人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
引き続き、エペソ人への手紙;
ペソ人への手紙5:31「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。5:32この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきであるとは、創世記とエペソ人への手紙の中に、同じように書かれていた。しかしエペソ人への手紙によって、この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
だから、先ほど教会は歴代の聖徒の連結と言い、即ち、ヨハネの黙示録二十一章にある夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえのことである。
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一体この世界では何か起こった?なぜ学校で辛い試験を受ける必要が有る?どうして、働かなければならない?そして、疲れてたまりません。また、体に病気が出来て、多くの重荷を負わなければならない。どんな本ですか?人生が生きる目的は何でしょうか?聖書のおしえによると、この奥義は大きい、それは、キリストと教会とをさしている。
ヨハネの黙示録まで、再度、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえと言われた。尚いわれた;イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。即ち、勝利を得る者は、千年の間に入って、王となる。彼らは、最後、聖の都新エルサレムとなって、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえた。
ヨハネの黙示録20:4また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
神様は創世記で、アダムを基督と示すのである。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。 更に詳しく読みましょう
創世記2:18また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
それで、神は彼のために、ふさわしい助け手を造ろうと言われたので、創世記二章19節と20節が省いても宜しいではないか?もし直接18節から、19、20節を省いて、21節まで飛ぶと、それに25節まで引き続き;「2:21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。2:24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。2:25人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」。このままでも宜しいでしょうか?しかし、神はなぜ19節20節を言われるのですか?
2:19そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。2:20それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
この19節と20節とは、前の18節と後の21節以降の言葉には関係なくつながることがないが、ヘブライ語と英語及び中国語聖書にも同じである。しかし、本当に関係ないのか?ヨハネの黙示録の22章
ヨハネの黙示録22:18この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。22:19また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
創世記の19節と20節を省いても、どうか、多くても、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたのはアダムだったことを知らないだけで、神は宇宙を創造するのに何か関係が有るのか?
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天と地を創造される神は詳しく言われました。
テモテヘの第二の手紙3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
神の言には無駄な言葉が有る筈はない。創世記2章19節20節のことのように、ここに書かれているのに、意味がないはずはない。もう一度を読みましょう;
2:19そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。2:20それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
兄弟達;それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。上記の意味は、本当にふさわしい配偶者が見つからなかった。
ヨハネによる福音書1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2この言は初めに神と共にあった。
1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言には、基督であり、基督はかみである。
「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
上記の言葉にアダムはすべての動物を自分にふさわしい助け手が見つからなかったとは、神自身のことを意味しているのです。これこそ、神は宇宙を作る動機である。神は一人の助け手を捜すのである。と言う事によって言われた;「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。ずっと新約聖書の
エペソ人への手紙まで、この奥義を述べ始めた。
エペソ人への手紙5:31「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。5:32この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
言い換えれば、神はアダムのお見合い大会の後、アダムの人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
上記の事によって、基督と教会の連結を示すのである。創世記二章18節〜25節にある言葉は、神はこの地上に助け手を捜す、長い間に捜したが、地上にあるすべての被創造物
うぃ見渡しても、相応しい物がいなかった。そして、そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。これは、イエス・キリストを十字架に釘付けられることを意味するのである。その後、主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。この時に、神は特別な言葉を言われた;「人から取ったあばら骨」。だから教会の最大な特色は、即ち教会がイエスキリストから生まれたのです。教会は基督から出てくると言うならば、キリストがまず十字架に釘につけなければならない。キリストは十字架に釘付けにされた時に、ある兵卒がやりでそのわきを突きさす;
ヨハネによる福音書19:34しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。
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主イエスは地上に居た時、言われた;
ヨハネによる福音書6:53イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。6:54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
そして、当時に主イエスに従った多くの人々は;
6:60弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
6:66それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
でも生きている人は、皆にわたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者と言う人がおられるであろうか?ところで、簡単に言えば、宇宙の中に一つの奥密があって、即ち神は助け手を捜しているが、この助け手には、神の生命が必要である。
そして神は宇宙を作り、長い間を経て、多くのクリスチャンをこの宇宙に置き、人生体験をさせ、神を認識できるように、その内に、主イエスを信ずる人々を一つの女―教会と連結され、この教会が夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえ、基督の助け手となる。
伝道の書3:1天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。3:2生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、3:3殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 3:4泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、3:5石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、3:6捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 3:7裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、3:8愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 3:9働く者はその労することにより、なんの益を得るか。3:10わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。3:11神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
伝道の書を書く人は、歴史に置いて、非常に有名なソロモン王である。ソロモン王は御霊によって感動させられ、伝道の書を書かれた。そして、上記の聖書のように、物事が予定されていることを教えて下さった。
人間の一生には、予定される正確さがあって、一枚の服でも、裂くに時があり、縫うに時があり。
主イエスは地上に居た時に、ソロモンによる伝道の書3章1〜11節の言葉に検証した。マタイによる福音書10:30またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
「数えられている」とは、希臘語によると、『番号を組まれる』と言う意味で、要するにnumberされたのです。神様は、私達の髪の毛を数えられているだけではなく、しかもどの毛もの先に長く、どの毛は先に陥って、全部あらかじめ宜しきを計算して、順序のものがある。
主イエスはさらに二羽のすずめの例を例えに挙げた;
マタイによる福音書10:29二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
言い換えれば、一羽の雀は、捕まられるかどうか?すべて予定される。天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。と言う事によって、聖書に置いて宇宙観とはどんなものでしょうか?
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ソロモンはここで、特別な言葉をききました ?「働く者はその労することにより、なんの益を得るか。」その意味は、もし天が下のすべての事すべてのわざには時が予定されていれば、やるとやらないと、差別がるか?
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、大学試験に合格にときがあり、落ちるにも時が有り、すべたのことが予定される事であれば、貴方も必ず、聞くだろう?「私はこんなに頑張る必要があるか?」伝道の書3章9節にある意味もこうすると、勉強してもやくにたたないであろう、そんな微々たるものさえ、時があるのに、道路にある小さい石を蹴るとしても、予定されている。
それでは、すべてが予め、予定されていたとしたら、ソロモンは聞きました;「3:9働く者はその労することにより、なんの益を得るか。」そして、引き続いて、言われた;
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」
「人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」とは、エペソ人への手紙による;
エペソ人への手紙5:31「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。5:32この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
なぜ神はヨハネの黙示録の二十二章で、言われた;
ヨハネの黙示録22:18この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。22:19また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
ここにあるもっとも大きな預言を言われていた;キリストは新婦を嫁に迎える。
神は人間を創造された。人々の人生に置くその意義も世界を作る前に既に予定済みである。神は一人の配偶者を見つかる。神はアダムのことを自分を示すように、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。神のアダムのように、宇宙で捜していたが、助け手が見つからなかった。
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかったとは、神は相応しい助け手が見つからなかったことを意味する。そして、1そこで主なる神は人を深く眠らせ、基督が釘につけられることを表すのである。アダムが眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから。同じ意味を説明すると;神の助け手は基督の身体より出てくて、神の新婦となれる。
そして、このまま進んできて、ヨハネの黙示録にこの新婦―即ち聖の都新エルサレムが現れた。ヨハネの黙示録二十章にある聖の都新エルサレムは、歴代にわたって、主の真理の為に、仕えて、忠実な人であり、主の戒めを守った人々で、これらの人々が基督の新婦となる。そして、ヨハネの黙示録二十二章になると、神は聖の都新エルサレムの栄光を細かく数え、私たちに見とりしているのは今ひとつ高貴である美しい新婦である。
ですので、人生はなぜ生きているか?簡単な答えは、神はこの地上にある新婦を得るためで、人々の身の上に各劇本を作り上げた。私達に人生にある泣き、喜び、抱擁、離別、ゲーム、金稼ぎ、金使い、部屋を建て...すべての事に時がある。
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神は人々にそれぞれの予定がなされて、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。貴方が泣き事、笑い事、引き裂かれ、逢い合わせ、悼み、慰めなどを経て、神は万物を創造する前に予定されることを体験してから、貴方は聞きますが、私の人生に置いて、働くことと労することには、なんの益を得るか。そして、神の答えは;「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
これらの事を経てこそ、基督の新婦となれる貴方である。
畑の中には、多くの物が有り、稲自身だけで、枝、葉っぱ、穂、稲の上にからにあって、田んぼの中にも多くの雑草がある。作に来て、農夫は先に刈り取って、軸が地上に、再びアワを叩き込んで行って、再びからを濾過してしまって、ただ稲がいちいち受け取って倉庫内に納める。余ったあれらの軸、葉っぱ、糠の?……すべては焼き捨てるであろう。
マタイによる福音書3:12また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
神は私達が、現世で、成長するすべての事を前もってアレンジして下さった。また誰かお聞きすると思うが、なぜ、有る人が救われない?答えは簡単で、救われない人であれば、救われないと予定されたのである。神の御観念には、宇宙創造する目的はこうである。
神はすべての新婦のそれぞれに神の生命を認識させ、貴方が救いを受け入れてから、神は貴方を各種の環境下に置き、神の信実と全能を経歴させられる。もし相変わらず試験の成績が好くないし、仕事が不安、疾病の困難など、救を受け入れてない人と全く変わらずに平安がないように見えるが、鋼鉄を炉端焼きに置かれ、炭も同じように苦痛をかんずるが、焼き終えて、炭が灰となって、鋼鉄が精錬された事によって、神の御手に役に立つ器となるので、ここに差がある。これら精錬された聖徒を集めれば、基督の新婦となる。
しかし又誰か聞くかもしれないが、もし言われた通りになれば、人間がなぜ死ぬのか?死んでいたら、どうやって基督の新婦となれるかしら?聖書によって、人間が死んだことを言わないで、休みになると言うのです。ある日、再度起き上がるのである。
又誰から聞かれるが、神は天と地を創造する六日の中に、鳥にはオスとメスがいて、獅子にはオスとメスがあり、すべての生きものにはそれぞれオスとメスがあるが、どうして人間を創造した時にアダムだけ作った?神は女を作るのにお忘れたのではないか?
実に、神は女を作るのにお忘れたのではないのである。神は男だけ作って、女を作らない事に決まっていた。そして、創世記の二章の通りに、男から女を引き出すように、創造したのです。もし創世記の第一章で、女と男を創造すれば、第二章の「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉と言う言葉がなくなり、そして、この言葉も言わなくなる; 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
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又、下記のエペソ書の言葉も成立出来なくなる。
エペソ人への手紙5:32この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。
そして伝道の書にある;「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」とも言わなくなる。
新約聖書が世間に出る前に、創世記二章にある神の言の意味を知らなかった。
コリント人への第二の手紙12:7そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。12:8このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。12:9ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
神はパウロの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないようのためであった。なぜかというと、この奥義はあんまり大きいすぎ、創世記二章にある意味は、アダムのことを基督と表すことも、パウロに黙示を与えられた。そして、神は言われた;それは、キリストと教会とをさしている。
兄弟達よ;必ず誤解をしないように、文字の通りに解釈すればよろしくはない。人は父母を離れてその妻と結ばれ、親孝行をする必要がなくなると誤解すべきではない。この聖書の言葉につき、神は一つの大きい奥義であって、それは、キリストと教会とをさしている。
私達は、ある会社に入ればこの会社の経営者が、社員に何を求めているのか?知らなければならない。同じように、宇宙の創造者は、私達に何を求めているかを知らなければならない。もしそを知らなければ、学歴が高くても、幾ら大富豪でも、長く生きられても、すべて無意義になります。
聖書は、神による創造された地上で、神が何をやろうとすることを言いだして、私達が神の計画を認識できるようにさせて下さる。そして、人々に一生の流れが神によって、予定されていた。
主イエスは地上で、多くの預言を言われました:
マルコによる福音書11:12翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。11:13そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。11:14そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
当時は、いちじくの季節でなかったからであるが、イエスはイエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。翌日になって、11:20朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
主イエスは、なぜあのいちじくが根元から枯れているのをご存じだったでしょうか?
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いちじくの木は聖書に中でイスラエルを表されるのである。イスラエルは主イエス・キリストを見捨ててから、二千年以来、イスラエルと言う民族が救われる事が出来なかった。いちじくの木が枯れてしまったからである。
マタイによる福音書24:32いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。24:33そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
主の言われた意味は、イスラエルが復国を見てから、主の再来が近づくことを意味する。「その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、イスラエルの甦りを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」
主イエスはなぜいちじくの木を例にしたのでしょうか?彼は、枯れていたいちじくの木を指して言われたのである。即ち既に滅んだイスラエルのことである。そして、枯れていたイスラエルには、その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、イスラエルが復国されたことを指すのである。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。そして、ご存じのように、世界の終焉が近づくのである。キリストはこの世界を裁きにお見えになる。神は報いをかかえてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
ヨハネの黙示録22:12「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
キリストはこの世界を裁いてから、ミレリアムを迎え入れ、新婦が生じ、即ち聖の都新エルサレムである。これこそ、神は宇宙を創造する源であり、私達がなぜ生きていられる目的である;基督の新婦となられる。
それで、お金が有るかないか?死ぬことになるし、学問がなるかないか同じように、死に直面する。しかし、死ではなく、休みである。
テサロニケ人への第一の手紙4:13兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。4:14わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。4:15わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。4:16すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、4:17それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
上記の聖書の言は、望みを持つ人々の為に、言われたのである。彼らの死とは、眠っているのをさすのである。望みを持たない外の人々のように、彼らが悲しむしか残らない。死の後、裁きを待つしかない、最終的に、永遠の苦しみの火の池に投げ込まれる。
聖書を好く読んでも、完全に理解できそうもないかもしれないが、しっかり詳しく読みを努力すれば、聖書の言うの内容前後が一貫しているように分かるはずである。そして、ヨハネの黙示録の二十二章となると、神は、宇宙での働きが完全に終了する。神は六千年の時間を使いました。
創世記に戻ると、神は六日で、天地えお創造され、七日目が安息日である。
ペテロの第二の手紙3:8愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。3:9ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
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「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」と言われたが、ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
言い換えれば、一日は千年のようであり、千年は一日のようであると言うのは、主の再来に密接な関係がある。神は言われた;「一日は千年のようであり、千年は一日のようであると言う時、神は、天と地を創造した時に戻って、安息日を含めて、七日間である。先ほど、「キリストと共に千年の間、支配したと言われるが、」千年の間とは、一日のことで、即ち七日目で、神にとっては、千年は一日のようである。
アダムからノアが生まれた時まで、1056年で、大洪水の年は、1656年で、引き続いて、アブラハムは2008年生まれで、ダビデ生まれは、3000年、基督生まれは、4000年であり、アダムから、基督生まれまで、4000になる。基督は生まれてから、西暦に入り、今まで、既に2000年が過ぎてしまった。合わせて6000年となった。そして、勝利を得る者は、「キリストと共に千年の間、支配すると言われるが」、即ち七千年―即ち安息日である。六日が働くが、七日目が休みになる。前の六千年の人類の世界では、部族戦争、国と国の戦争、人為災害、大自然災害が、交錯を繰り返し、七千年と成れば、やっと安息に入れる、ミレリアムとも言われる。ミレリアムとは、千年の間に置いても、休みのことで、即ち羊の婚姻の宴である。
ところで、異邦の民が本当にミレリアムの事を知るでしょうか?彼らは、西暦2000年をミレリアムと思うし、ミレリアムが只西暦2000年の一年しかないと思った。実は、ミレリアムとは千年の間を指すのである。しかし基督の再来においても、丁度ぴったりな事はないと言えるであろう。例にすれば、ノアの誕生は、西暦前3064年に生まれたが、アブラハムが、西暦前2008年が生まれたため、ぴったり丸々の年ではなかった。一日は千年のようでありから、考えれば、長短期間に置いても、ちょっとの差がなっても、おかしくはない。前では、言った事が有りますが、主イエスの再来について、いくつかポイントがある;第一:
マタイによる福音書24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
第二:基督が再来の前に、敵キリストが現れ、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。
テサロニケ人への第二の手紙2:3だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。2:4彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。
上記の言葉から、分かるのは、神の宮が既に再建された。要するに、主の再来にある三つ目のポイントは、滅びたイスラエルが甦り、国を再建され、神の宮も三回目再建される。神の御命令に従って、神の宮の再建には、幾つかの条件がある。先ず、イスラエル人による再建である。次に、神の宮においての祭りを行う際、レビ人でなければならない。更にアロンの子孫であれば、祭司となれる。と言う事によって、レビ人部族が数千年にわたって、存在しなければならないことによって、神の真実性がご存じになるであろう。いまでもアロンの子孫が存在している。これは非常に難しいことであろう。何しろ、イスラエルが既に2500年前に、亡国されたので、
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そして西暦1948年になってから、国が再建できた。即ちいちじくの木が「その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、イスラエルは2500年の間も滅びた。
私達は、前で、イスラエルは、必ず国が再建すると言いきったが、テサロニケ人への第二の手紙にある「不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。」を読むと、恐れ入った。言い換えれば、イスラエルの甦ったことによって、神の宮の再建時期が近付いている。
イスラエル人の国の再建について、歴史を熟知する人であれば、まったく不可能ではないか?と分かるはずである。2500年の間も滅んだので、まさか自分がイスラエル人である事を忘れはしないでしょうか?このような長いの間に、彼は、彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らして、『主はこう言われる、わたしはあなたがたをもろもろの民の中から集め、その散らされた国々から集めて、イスラエルの地をあなたがたに与える』と。
エゼキエル書11:16それゆえ、言え、『主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる』と。11:17それゆえ、言え、『主はこう言われる、わたしはあなたがたをもろもろの民の中から集め、その散らされた国々から集めて、イスラエルの地をあなたがたに与える』と。
これは、全く神様以外に人類が出来る仕業ではない。それで、1948年で、イスラエルは国が再建できた。聖の宮の旧住所が今の東エルサレムである。国が再建された当時から、イスラエル対アラビア諸国の戦争―中東戦争が、六回も行った。イスラエルは最後、東エルサレムを占領した。常識で言えば、イスラエルと言う国の再建は不可能な事であると言っても過言ではないが、まさか、2500年前の土地に国を再建されたとは、正に神しかできないみわざである。
世界のどこにも神の宮が再建できないと神の命令であるため、東エルサレムの地に再建するしかない。それにレビ人もいなければならない。その外に、神は聖の宮の再建にも用意されたのである。どうやって用意されるだろう。神の宮の建てが易しいことではない。最初の神の宮を作ったイスラエルはソロモン王時代のことで、当時のイスラエルが世界最強で、最もお金のある国であった。
歴代志上29:3なおわたしはわが神の宮に熱心なるがゆえに、聖なる家のために備えたすべての物に加えて、わたしの持っている金銀の財宝をわが神の宮にささげる。
即ち、ダビデは、オフルの金三千タラント、精銀七千タラントをそのもろもろの建物の壁をおおうためにささげる。イスラエルの部族のつかさたち、千人の長、百人の長および王の工事をつかさどる者たちは喜んでささげ物をした。こうして彼らは神の宮の務のために金五千タラント一万ダリク、銀一万タラント、青銅一万八千タラント、鉄十万タラントをささげた。
ダビデだけで、160トンの黄金に相当する金を奉げた。全国奉げた金をあわせると、540トンにものぼる。ですので、聖書の言葉によると、神の宮には、黄金を材料にして建てられたので、黄金のべっきで、はったものではなく、金のコンクリートで、塗りあげたのです。すべてのドアや神の宮の全部には、黄金で作りたてた。
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今の世界のどこの国は540トンの黄金がお持ちでしょうか?それでも一回のみの奉げる献金である。この前に、ダビデが既に多くの献金を奉げた。それから、ソロモン王は再び540トンの黄金を神の宮作りの為に用意された。それだけではない。すべての金、銀、、宝石等を集めて、神の宮を建てます。祭司の服まで金の糸で、刺繍された。
出エジプト記28:2またあなたの兄弟アロンのために聖なる衣服を作って、彼に栄えと麗しきをもたせなければならない。28:3あなたはすべて心に知恵ある者、すなわち、わたしが知恵の霊を満たした者たちに語って、アロンの衣服を作らせ、アロンを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。28:4彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。28:5彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を受け取らなければならない。28:6そして彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を用い、巧みなわざをもってエポデを作らなければならない。28:7これに二つの肩ひもを付け、その両端を、これに付けなければならない。28:8エポデの上で、これをつかねる帯は、同じきれでエポデの作りのように、金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で作らなければならない。28:9あなたは二つの縞めのうを取って、その上にイスラエルの子たちの名を刻まなければならない。28:10すなわち、その名六つを一つの石に、残りの名六つを他の石に、彼らの生れた順に刻まなければならない。28:11宝石に彫刻する人が印を彫刻するように、イスラエルの子たちの名をその二つの石に刻み、それを金の編細工にはめ、28:12この二つの石をエポデの肩ひもにつけて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。こうしてアロンは主の前でその両肩に彼らの名を負うて記念としなければならない。28:13あなたはまた金の編細工を作らなければならない。28:14そして二つの純金の鎖を、ひも細工にねじて作り、そのひもの鎖をかの編細工につけなければならない。
金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を受け取らなければならない。聖書にあるこの糸のよこには、虚線(....があって、ヒベライ語によると、金で、刺繍されてなったものを指すのであって、金糸ではない。聖なる衣服を金で、作られた衣服であったが、幸いに毎日それを着る必要がなかった。ところで、イスラエルは、今、神の宮を建てる力があるのか?答えは、ありません。しかし神は非常に奇妙なみわざを成した;即ち、全世界の人々に株の売買をさせたのである。アメリカのマンハトンにあるウォールストリート街の発展が目に見える大きな発展を成し遂げた。ウォールストリート証券市場はすべてユダヤ人の手に握られ、彼らが証券市場で、儲けた銭を全てイスラエルに差し戻される。こうすれば、神の宮を建てられる。
イスラエルは国を再建されるこの時期に、神の宮も再建されることになる時期と福音が地の果てまで述べられたことを考えると、そんなに偶然なことではない。イスラエルは亡国してから、2500年余りも超えて、そした、突然復国された。そして、三番目の偶然というのは、ヨーロッパ連合の出現であって、即ち七つの頭と十個の角の獣の現れである。このヨーロッパ連合から、敵キリストが出てくることがダニエル書は預言されてある。最後、神の宮の再建が完成し、敵キリストは、神の宮に入る。この三つの出来事に必要な空間、時間、人物が一つにならなければ、成り立たない事である。
2001年に、ヨーロッパ通貨が流通され始め、2010年の初頭に、ヨーロッパ主席が表舞台に出たので、あの七つの頭と十個の角の獣の現れが、もっと近づいたと言えるでしょう。何年以内に知らないが、イスラム連合と平和条約を結ぶかもしれない。こうなると、ダニエル書による七十週にある最後の一週が現れるであろう。
ダニエル書9:27彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。
「一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう」とは、多くの者と堅く契約結ぶことで、イスラエルとだけではない。『manypeople』というのは、多くの民族を指すのである。もしパチスナが同意しなければ、イスラエル人は、神の宮を再建する事が出来ないであろう。イスラエル側として、神の宮を作りながら、戦争を起こす事が出来ない。ミサイルが飛んで来れば、神の宮が壊されるのではないか。ということによって、敵キリストの出現によって、イスラエルと平和条約を結ぶだけではなく、ヨルダンやシリヤやエジプト、イラン等、アラビア諸国と平和条約を結ばなければならない。この条約を締結し終えると、イスラエルには、多くの黄金を設けたので、神のの宮の再建がなり遂げることになるであろう。
これは、 「一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう」と言われる。今のハイテック技術で、神の宮をたてるのに、短い時期で完成できる。そいて、祭りも始まって、レビ人が牛と羊を奉げ、アロンの子孫が祭司となって、イスラエル人は、神の宮で、神に祭りを奉げ、神を崇められる。
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此の頃、正常な人である敵キリストは、暗殺に出会って、死傷の傷を負ったので、一度死んだ、結局シーザニロの魂が、この正常な人である敵キリストの身体に付け込み、真正な敵キリストが現れた。即ち第八のものである。
ヨハネの黙示録17:11昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって、ついには滅びに至るものである。
第八のものが出てきて、多くの人と結んだかたく契約を廃棄し、即ち彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。好く計算してみると、終わりの一週が来る時期に、丁度、第七千年であり、即ち、主の再来前にある七年のことである。
終わりの一週とは、主が再来前の七年で、全世界には、戦争の煙に覆われ、神の罰がたえずにあの終わらない乱れの世界から、勝利を得る者が出てきて、基督の新婦となる。ミレリアムが終える時に、古い天と地が過ぎ去って、新しい天と新しい地を迎え入れ、神も神自身の新婦を得られる事になる。もし貴方には、音楽を知らなければ、どうやって神の国で、神を賛美するのでそうか?兄弟達よ;上記述べたことは、神によって、宇宙万物を創造した奥義である。
私達は、マタイによるの福音書にある大きな使命を読みましょう;
マタイによる福音書28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。28:17そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。しかしここで主イエスに会っても、疑問視をする人がいて、本当に弱い使徒のように見える。そして、主イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
すべての国民を弟子とするというすべての国民の中には、原住民が有りますか?アフリカに住んでいる人がいますか?南極と北極に住んでいる民がありますか?又危険な地方に住む人に向けて、福音を述べ伝える。でもこの言葉が出た時に、2千年前のことですので、当時の交通事情を考えるだけで、歩きや、馬に乗りや、凸凹の道で、馬乗りをしても大変だろう。世界には、五つの大陸と七つの海洋があって、万民に福音を述べ伝えるのは、さすが不可能であおる。
十一人の弟子たちに対し、疑う人がいても、主はある特別な命令をした:それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し。此処にある「あなたがたは行って、」と言う命令は、当時の交通状態と世界知識を創造するだけで、到底人間が言える言葉ではないのではないが。さすがにアフリカに行けば、言葉が通じますか?どれ位伝教師が福音を述べ伝える為に、暗い大陸に死んでしまっただろう。
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今には大勢の口コミ商法会社があって、誰か彼らの商品を世界の至る所まで伝えられるでしょうか?「すべての国民を弟子として」と言う事が出来れば、イエスしかできない。次に「父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」。引き続き、「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。主は言われた;見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。即ちこの世に最後の時と言う意味である。主はこの話しをしてから、既に二千年も過ぎました。それでは、主の意思はこの福音の伝え述べる;「すべての国民を弟子とさせて」、「父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し」。及び「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」
世界のどこの企業が永遠に二千年も経営できるだろうか?歴史において、どこかの帝国が数千年も世界を制覇続けられるだろう?でもこの話しが出たが、実現させる可能性が有るでしょうか?好く検証しましょう、実現したかどうか。今日、万民は主の弟子となった事が有りますか?もし私は、ここで、皆様にこれは一種の特別のみずで、貴方達が行って、すべての人にこの水を飲ませて、父と子と聖霊との名によって、、、、最後に、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのであると言った。皆様は私を病気だと思うであろう。しかし当時その場に十一人の使徒しか居なかったし、中にも疑う人もいたが、この聖書の言葉の通りに、非常に難しい事だが、達成できた。何しろこれは神様の言であり、能力がある。
この言葉は基督教の中に、大使命と呼ばれ、別の角から見れば、これは大きな神跡である。しかし人の目から見れば、全く達成のできない事を神が言われたので、ごく自然に達成が出来た。主イエスは神であるから。
マタイによる福音書28章の重点は28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
兄弟達よ主に天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。すべての民を弟子とさせる事によって、当然のように、天においても地においても、いっさいの権威が発動される。此処に座って、神の福音が聞けるのは、易しいものでしょうか?阻まれることがあるか?物凄くない邪魔がないのか?此処にきて、神の福音を聞きにくるのも、その背後にそれぞれの故事が有ります。誰かある兄弟達には、非常に理性的で、見解のある人ですが、常に残業で、遅くまでがんばっているが、教会に来るようにと誘われても、中々自分に争わなければならない。妻たちの繰り返した誘いによって、やっと1回ぐらい教会に来て、主にチャンスを与えたようである。此処に来る人々が、自分なりの故事があって、神の恵みを賜りまで、まだ随分遠い距離がいるが、
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神は今頃「すべての国民を弟子とさせることを成し遂げるのが、天と地の権勢がなければ、地の果てまで福音を述べ伝える事が出来ない。地上の四大帝国の王には、強大な軍隊があって、非常に大きな国土を管轄することができるが、福音を全世界に広げる事が全く不可能であるに間違いない。これも歴史に置いて、人類が有って以来、誰でも成し遂げたみわざがない。しかし今日は聞きたいのですが、なぜ主イエスは言えば、成るのですか?簡単な答えで、即ち主イエスは神であって、「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」
昔この聖書の言葉を読んだ時に、疑問を持つのですが、世の中に一人の大統領として、どれ位権威がある?大統領に勝手に会う事も出来ないほどであろう。もし大統領から貴方に誘いが入って、毎日の朝5時半に、彼の官邸まで、来て、雑談や集会をして、国家の奥密を分かち合えば、貴方であれば、喜んで行かれるでしょう。毎日朝の五時半でも苦にしないでいるし、大統領の側近の連中だから、大統領の意思を分かち合えるので、人々から尊敬を集めるであろう。
しかし本当にそうだったかしら、神の言が聞ける人であるこそ、最も輝くひとであろう。毎日、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた主の前に来られて、彼の言葉を勉強できて、彼の御心を理解でき、宇宙では、何を果たそうとすることを知ることによって、どれ位素晴らしいかご存じでしょうか。私達は本当に聖書の事を理解できたのか?次に主イエスは本当に主に天においても地においても、いっさいの権威を授けられたか?
マタイによる福音書28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。引き続き28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
それゆえに、あなたがたは行ってにある「それゆえに」上の一節「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられたことに引き続いて有ったのである。」主イエスはいっさいの権威を授けられたので、私達に人類が有って以来、やり遂げたことのないことをやれと私達に命じたのである。
主は私達に行ってやりなさいというのは、主の背後に「back-up」がある。天においても地においても、いっさいの権威には、「back-up」があるこそ、成り遂げられるのである。
神は戦いの為に軍隊を遣わした事が有りませんが、数多くの宣教士が自ら、感動させられ、志願で、神の福音の為に海を渡って、死んでも構わない決意で、主の為に仕えるのである。長男が死んでも、次男が引き続いて、次男がなくなり、三男が続いて、アフリカへ福音を述べに行かれた。これは、イギリスにある母親には、三人の男の子供がいたが、三人ともアフリカへ福音を述べる為に、殉道して死んだ。牧師は、彼女の家に行って、彼女が悲しんでいるのを見て、悲しまないで、将来の賜る恵みが大きいですよと慰めようとしたが、あの母親は、言われた:私が、子供が死んだ事によって、悲しんでいるではなく、泣いた原因には、四人目の子がいない事です。もし、いれば、相変わらず、アフリカへ行けと言います。あの牧師がその話しを聞いて、非常に感動させられ、文章にした。兄弟姉妹がその文章を読んで、非常に感動した。そして、有る兄弟が言った;私は彼女の四人目の子供として、アフリカへ行きましょう。その横に居た兄弟も手を挙げて四番目の子にしてくれといった、その横にまた、、、続いた。
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アフリカに福音を述べ伝え、受け入れられたのは、四番目の子供によるものである。一人が死んで、引き続き、死んでも、もう一人が死んでも、すべての宣教師が四番目の子であった。誰かこんなに広い心境をもつことができるだろう?子供が死んだ事によって、悲しんでいるではなく、泣いた原因には、四人目の子がいない事です。これは、天においても地においても、いっさいの権威である。
今日はアフリカに戦いをしに行って、パラシュートがあって、飛行機があって、大砲があって、タンク、機関銃がある……当然で戦いに勝って、勇敢とも言える。しかしアフリカへ福音を述べ伝える為、武器を持っていく事が出来るでしょうか?武士の刀を持つものが出来るか?タンクでいけるか?アフリカ人に命令を聞いてくれないと、貴方を踏みならすと言うものか?こんなに強暴で福音を述べ伝える事が有るものか?福音を述べ伝える方法は、命をもって、述べ伝える事によるものである。天においても地においても、いっさいの権威である。
「それゆえに、あなたがたは行って……」よく見れば、今すべての国民を主の弟子となられた。
私達は父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施したでしょうか?主のに命じておいたいっさいのことを守るように人々に教えたのか?この福音の述べ伝えについて、主は言われた:「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
要するに、世界の終わりまで、福音が述べ伝えられるのである。
空間で、地球の至る所まで、福音を伝えられ、時間は、世界の終わりまで続きます。どうやってこんなに難しい事を可能にしたのでしょうか?何しろ、主は神であり、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」聖書のどこにあるかと捜すまでもなく、聖書全部が神跡である。神は一旦仰せになると、必ず成るのです。
今は、この時代に立って、主イエスは二千年前に言われた言葉をみると、私達は恐らくそれが根本的に不可能なことではないかと不思議に思わないでしょうか?二千年以来、教会は福音を述べ伝える為に、どれ位四番目の子供の奉げによることを経歴したでしょうか?なぜ絶えずに居られる?一つの組織では、人への励ましを出す智慧が必要であろう>学校の試験を例にとれば、成績のランキングを通じて、人の努力を引き出すのである。会社に居れば、ボーナスや辞令で、人の仕事への情熱を引き出す。でも教会で、何によって、人を励ますでしょうか?誰か教えてもらえないかしら。人類社会にある組織であれば、激励が必要で、人を引き付ける手段がなければ、誰もついてこない。一つは名声で、もう一つは利益である。しかし、教会に来て、名声や利益の為に来ることではなく、神の生命を得させて下さって、引きつけてこられたのです。しかし多くの教会には、生命を得る事さえ知らないのに、一体どれ位人が分かるか?主イエスの教会は、生命を供給する場所を知るでしょうか?しかし兄弟達よ、まだ日門を持つ人がいる。
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教会は昔から今になっても非常に弱いものであったが、弱いと言っても、消えることもないだけではなく、福音が地の果てまで述べ伝えられた。想像して見て下さい;この様な信仰の光景下で、なぜ二千年も持続が出来たでしょう?地の果てまでのべつたえられたとは、その背後に何か動力がございませんか?学長となれば、給料があって、よい事務所があるので、毎日、出勤しますが、もし何もなければ、掃除うあ警備をしなければならない場合には、給料までもらえないとしたら、誰か出勤するだろう?
では、教会には何か有りますか?なにもないと言えよう。しかし貴方はなぜ来る?しかも早起きてこられる?何を死に来る?組織研究行為学を行う調査の人によれば、教会は何によって、地の果てまで福音を述べ伝えられるでしょうか?軍隊の場合、人を殺せば、官位がもらえるが、福音を述べ伝えるのは、何を得られる為に行う?神を認識でき、犠牲や奉げの為に教会に来られて、どうして、こんな事が出来る?それでも長世界の終わりまでく持続される。聖書はなぜ敢えてそんなに書ける?マタイによる福音書の二十八章18節による「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」
兄弟達よ;これは事実だと信じて下さい。今の全世界の教会は地の果てまでいきわたっていた。聖書により、書かれたのはすべて真実である。この聖書ヨハネの黙示録の勉強をしたから、既に分かるように、主である神は真の神であり、すべての預言が成り遂げる。
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