22:1御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、22:2都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。22:3のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、22:4御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。22:5夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
22:6彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。22:7見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。22:8これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、22:9彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。
22:10またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。22:11不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。22:12「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。22:13わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。22:14いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。22:15犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
22:16わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。22:17御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。22:18この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。22:19また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。22:20これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。22:21主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。
ヨハネの黙示録二十二章は、聖書の最後の一章であるが、そのポイントは何でしょうか?第七節によって、見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである。そして、22:12「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。22:20これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
二十二章の中に、全部三回も述べた:わたしは、すぐに来る、と記載される言葉は、千九百年前の言葉だった。今は既に西暦2010年になって、主は;わたしは、すぐに来ると言われたが、なぜ千九百年も延びた?おかしくないかと思うでしょう?
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兄弟達よ、人間にとって、千百年の期間が非常に長い時期であったが、神にとって僅かな1日〜2日の期間しかなかった。
例えば、恋人と遠く離れて暮らすが、後2日で、戻って来るという電話が有った。この2日が長いか短いかと感じるでしょう?昔、私は主にお聞きした事が有るが、主よ、三回もすぐに来ると言われたがでも歴代の教会も二千年の期間も待たされたが、なぜまだきていないのでしょう?私にとって、幸いである。なぜかというと、聖書の教えによって、主イエスが来る跡ぎれはますますはっきりしていて、既にドアまで来ている。第七節見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである。
ヨハネの黙示録と言う内容は、主イエスの再来について預言される内容であると言ってもいいほどである。そして各教会に説教をしに行く時に、必ずヨハネの黙示録を述べ伝える。この時代には、ヨハネの黙示録が大いに密接な関係が有ります。この世代の人は、自身に意外な事故がなければ、ヨハネの黙示録によって、述べた最後の大災難を体験するだろうと思います。その外に極僅かな聖徒が生きながら引き上げられる。
兄弟達よ、主は必ず早くくる。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである。ヨハネの二十二章まで読むと、多くの疑問も解けて、最後に関する永世の説明も殆ど説明しきれた。唯一つ特別なことがあるが、新しい天と新しい地まで来たら、どう言われる?
22:14いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。22:15犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
何をいうでしょう?犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。新しい天と新しい地には、この様な悪行を行う奴がいるだろうか?又、都の外に居る?どんな意味をする?
実に前で述べた事が有ります。永世に入ると、死がないが、勿論この犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者もいる筈がない。答えは、彼らは、昼も夜も関わらずに、火の池に投げ込まれて、苦しみを受ける人である。
イザヤ書66:22「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
神はすべての人とは、血の気に属する人である。永世で血の気の人に属しても、死ぬことがないと教えて下さった。しかし救いを得られる人が、霊に属するが、
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ですので、ヨハネの黙示録二十二章15節による都の外とは、火の池を指すのである。その時になると、都の外に一つの火の池博物館があって、上は一重のあつぼったくガラスで起き上りを遮って、下はすぐ不滅の火がかしこ煮えていることで、人々はそれを『ガラスの海』と呼ぶ。ヨハネの黙示録第四章と十五章では、『ガラスの海』を述べる事が有る。その火の池を一重ガラスで起き上りに被せて、透き通るガラスに囲われる火の池のしかばねを見取れるようになる。
貴方はその内にその中にいますか?イエスを信じて、洗礼を受けてから、永遠の火の池に陥る事が有りません。新しい天と新しい地の時に、火の池にクリスチャンがいるわけが有りません。しかしミレリアム(千年の国)の時に火の池にクリスチャンがいるが、千年後が放されてこられることになるが、悪の不信を持つ人であれば、永遠に火の池にいる。聖書の黙示さえ覚えられない人であれば、恐らく火の池に陥るだろう。しかし永遠に火の池に陥る不信の悪を持つ人であれば、昼も夜も関わらずに、永遠に火の池に焼かれながら、虫に噛まれるであろう。
22:14いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
自分の着物を洗う者たちとは、どんな人を指すのでしょうか?勝利を得るものであろうか?救いを受けられるひとであろう?.ここでは、救いを受ける方物を指すのである。
21:7勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
ヨハネの黙示録21:27しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
「はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」とは,救いを受け入れる人を意味するのである。二十二章14節 によって、救いを受け入れる人が、その中に決してはいれる。汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う私達は、主の御血によって、罪が洗われて、許された。元々、自分の行いによって、義となれないのである。純白で、汚れのない麻布の衣を着るとは、聖徒が行う義とみなされ、自分の着物を洗う者たちより、更に偉くなり、救いを受けるだけではなく、努力して、神に仕えて、勝利を得られたのである。
二十二章十四節には、新しい天と新しい地の時に、はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけで、即ち救いを得られるものである。
22:1御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
ヨハネは言われた;聖の都の中には、神と小羊との御座から水晶のように輝いているいのちの水の川が流れてくる。
オストラリアのリスボンシーテイで、非常に綺麗なみやこであって、最も特別な所は、都の中央に一つの川が有って、国内国外の観光客に関わらずに、皆がそこへ見物をしに行きたい。
新しい天と新しい地の時に聖の都の中には、「いのちの水の川」があって、しかも神と小羊との御座から出てくる。
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コリント人への第一の手紙3:16あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。
コリント人への第一の手紙6:19あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。6:20あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、私達は、もはや自分自身のものではないのである。しっかり聖霊の宮を大事にしなければならない。しかしその内に、新しい天と新しい地の時に我々は聖の都と成り、聖都の中には、聖所がなくなる。
ヨハネの黙示録21:22わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
神と小羊とがその聖所なのである。此処で言われた;御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。実に、私達は今もこの聖の都のように、私達の体の中に、水晶のように輝いているいのちの水の川が流れて、水晶のように輝いている。
「いのちの水の川」とは、御霊を意味し、神は聖の父であり、小羊は聖の子であり、水の流れは、御霊である。まだ救いを受け入れていない時に、私達の中にいのちの川が、流れていないが、この世の風俗に従い、惑わされても、ちっとも、自覚を持っていない。我々の中に明るさがありません。
しかし救いを受け入れてから、現世で、小羊を信ずる人であれば、小さな聖所となり、私達の中に、神と小羊の御座から、いのちの川が流れてくる。水晶のように輝いているので、私達の心にある一切の隠れ罪を表させる。その日まで、私達は新婦と成れる時に、聖の都新エルサレムとなる時に、私達の霊の中に流れるいのちの川がある大きな川となって、聖の都の中にある。
永世に中では、最も重要なものは「即ちmいのちの川である」。兄弟達よ、現世の人々は、全部渇いて、それぞれのだれ一人であっても永久に渇かない水に飲めるように、探索している。しかし、人は、この世で、見つかる水が幾ら飲んでも渇きが止まらない水である。
人の一生には、二つの問題があって、一つは、渇き、もう一つは、飢餓である。お金持ちになればなるほど、更に渇き、金の儲けを止める事をしらないのである。人間が、幼い時から、渇き始め、いくら飲んでも渇きます。又、いくら食べても、餓える。需要に満足 しても、又必要である。しかし将来新しい天と新しい地に入れば。水晶のように輝いているいのちの水の川
を飲めば、永遠にかわかないであろう。
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人間の欲望には、限界がありません。欲張りとは、偽りでもある。お金が有れば、もっと稼ぎたいと思い、幾らあっても満足できません。この世代には、飢餓のじだいであって、主イエスは、お昼で、サマリヤ婦人に出会って、何を言われたでしょうか?
ヨハネによる福音書4:13イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。4:14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
主は与える水とは、いのちの水である。水晶のように輝いているいのちの水の川とは、何でしょうか?いのちの渇きは人間の三つ目の問題で、二つ目の問題が即ち、将来には展望がなく、どっちへ向かえば、正しいかと知らないのです。この世で、父から、社会が」暗いと聞き、母親から、もっと勉強するように、言われ;等など。殆ど、正しいと言える言葉が有りません。この世に最も大きな特徴は、人間が暗闇に生きる事である。永世の時には、今と二つ大きなちがいがある。
第一;人は、永世の中で、永遠に渇く事がない。今の世に生きる人は、朝8時頃から、仕事の為に出かけるか?絶えずに、色んなことを追い求めるので、非常に渇く、絶えずに飲まなければならない。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
第二;今の世の人々は、どんな道を歩くべきか?知らない。この暗闇の中で、常に探らなければならない。
しかし、永世に入れば、いのちの川があって、その水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、水晶のように輝いているため、生命の方向をはっきり映せるので、進む道が間違いなく選択できるでしょう。この世で、
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大企業の社長になれば、満足できて、渇かない大統領となって、再び渇かないと自認する人がいるかもしれないが、いいえそんな事が有りません。永遠に渇かないいのちの川は神と小羊との御座から出るしかないのである。
聖書のことばによると、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る;
ヤコブの手紙1:17あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
クリスチャンとしては、、生きて行くすべての事が、聖の父から、賜って下さると、認識しなければならない。貴方のボスは、先生や教育係長や社長ではなく、神である事を認識すべきである。貴方を養っているのは神である。
小羊と神の御座から出るいのちの川のあとに、何か有りますか?
ヨハネの黙示録22::2都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
「その実は毎月みのり」とは、いのちの木には、もし一年に一度しか実りしなければ、一年に十一ヶ月の内に、実を食べる事が出来ないではないか?しかしいのちの川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
いのちの水はとても綺麗で、前では、水晶のように耀いているようにと形容され、その後。いのちの両側に、いのちの樹があり、新エルサレムがどれほど美しいであろう。透き通った鏡のようで、今の地球のみやこでも比べるものにならない。又いのちの樹は十二種の実を結び、その実は毎月みのり、大きくて美味しいだろう。
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十二種の実を結ぶとは、多いか少ないか?貴方には一度十二種類以上の果物を食べた事が有りますか?一度、十二種類の果物を言いだすのも大変難しいだろう。しかし貴方はシーズン毎に、各シーズンの果物が食べられますか?永世では、この様な遺憾がありません。「十二とは、完全の意義をいみするので、十二種類以上の果物を指すことで、だから将来のものは十分に満足に完全なものであり十分に満足です。一つは、質の完全で;十二種類の果物であり、もう一つは時間の完全で;十二ヶ月は毎月にあることを意味する。
永世では、今とは異なる。今の様に、フカヒレスープが高いので、食えないし、買いたいものも買えないこともない。
よく言えば、今でも毎月に果物を結んでいると思います。昔 福音を述べ伝えに出かけたが、ある大きなマンションの中のロビで、行った。出入りする人が多かったので、好い場所ではないとおもったが、兄弟姉妹は集まって、聖歌を歌い始めると、まさか多くの人々が集まってきて、本当に容易いことではない。歌が旨いと言うことではなく、御霊が大いに働いている。いのちの川は、小羊と神の御座から流れてくる。水晶のように耀いているだけではなく、我々に実が結べるようにさせて下さるのです。御霊の水は、流すとすぐでも身を結ぶ事が出来るし、更に毎月には、実を結ぶ。
いのちの実は、キリストであって、私達のいのちの川である。永世では、神は人間にとって、恵みの神である。現世にある罪のある人が想像もできないことである。神に仕えて、神に親しくする人であれば、御霊と共にいる時の楽しさが感じさせられる。人はどんな環境下に置かれても、御霊と共にいれば、計り知れない喜びがしみじみ感じる。
私には、このような経験がある。昔 教会から小さなグループを立ち上げようと責任者に指名された。会員は一人もいないので、会合の時が近づいて、友人と暫く教会に来なかった兄弟姉妹に電話を入れて誘った。仕事が忙しく、電話をするのも時間がかかるが、招待客に電話をかける時に、心に溢れる喜びが流れてくるだけではなく。数日が続いた。例えば、首相を当選しても、その喜びもほんの五分ですむでしょう。しかし御霊と共にいる喜びが非常に長く持ち、非常に奇妙なことである。
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それからある回伝道会で、音楽会において、非常に重みのある兄弟を招聘し、伝道会で、讃美歌を歌って頂いた。一週間後、再会する時に、私に非常に喜ぶ心境で、先週の伝道会で讃美歌を歌った事の喜びを語っていた。はっきり言えば、彼は常にステージに登る人であるが、伝道会で奇妙な恵みを歌ったが、音楽の業界から見れば、歌とは言えないけれど、一週間も過ぎてしまって、彼は依然として喜んでいて、正に子供のようである。私は非常におかしいと思ったが、この先生が、若い時期から、舞台に上っていつも多くの拍手を受けられたが、しかも舞台の下にある観衆は、すべてその道の専門で、舞台が終えれば、採点評価を行うのです。しかしあの様な舞台でも大きな喜びが得られなかった。かえって、音楽舞台以外の伝道会で、一首の奇妙な恵みを歌っただけで、想像もつかない喜びが溢れてくる。
兄弟達;神と人が共に居る時、あの喜びと満足が人間の想像することではない。と言う事によって、ヨハネの黙示録二十二章1節~2節まで、教えて下さったのは、神は私達のいのちの樹の実であって、もっと詳しく言えば、神は私達の満足で、喜びである。
現世で、何かあっても、何もなくても、この満足と喜びがあれば、人生においても、落ち着くであろう。
1970年代のハリウッドの女優のマリンリンモンロは美貌があるが、普通の美貌ではなく、有名があるが、誰でも有名になりたい、更に財が有って、お金持ちを夢見する人が多いだろう。事業もかなり成功していて、人気があって、なぜ自殺したのでしょうか?彼女は自殺したその夜に何を考えたでしょうか?自殺するとは、容易いことではないが、貴方であれば、どうなる?世の中で自殺した有名人が大勢に居た。
もし貴方はマリンリンモンロには、お金や美貌があるが、脳みそがないと言えば、では、ヘミングウェは如何なものであろう?彼は二十世紀の大文豪で、ノベル賞を得られた成功者だったが、自殺する傾向がはっきりしていた。何回も自殺を図ったが、死に損なった。彼の家族はすべて自殺のできるものを彼の周りから、さらわれたが、残ったのは、たった1本の長い猟銃だった。長いから、自殺しようとしてもできないし、銃弾も残さずに取っていた。ある日ヘミングウェさんは家族と共に遠足に出て行って、車が途中で止めて、皆が買い物に行ってしまったが、残される彼は、丁度止まった所に武器を販売するみせがあり、入って銃弾を購入した。店主も彼をヘミングウェだと分かって、慕った気持ちを打ち明けて、又買った十数冊の本をヘミングウェさんにサインしてもらった。しかし、ちっとも彼の心には自殺念頭が消えていなかった。
家に戻ってから、猟銃に銃弾を入れて、自分の口に猟銃を突っ込んで、ぱんと自殺した。此処から見えて、自殺する決心がいかに強いだろう。原因を探ってみると、幾ら成功しても、満足ができないことや人生には意味がないと思うからである。
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神は私達に与えられる人生目標には、まだ達成していない為、生きる目的の一つの原因であって、登る階段が残される。しかしある日、階段の最上段まで上り詰めたら、を眺めると、いのちの中に持つすべてのものや事は空の空だと思います。
神は人の状態を知り、特にヨハネの黙示録二十二章の1節から2節によって、この問題を解決できるようになる。聖書によると、神はいのちの川で、いのちの樹の実であり、永世で、私達は神と多くの喜びが分かち合えられる。兄弟達;神は我々のマナであって、神がいます為に、満足ができ、喜びが得られる。これらの事も現世で、お金があっても買えないものである。多くのお金持ちの有名な企業家は、楽しく暮らしていないのです。
2節の下にあるその木の葉は諸国民をいやす;
ヨハネの黙示録20:14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれたことを経過したら、二十一章の新しい天と新しい地に入られる。この言葉は、千年の期の時でも死が有って、千年の期が過ぎたら、死がなくなる。「それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた」。永世の時に、地上のもろもろの民が死ぬことがないのですが、依然として病気を患う。これも永世の時で、もろもろの民の命と救いを受け入れる我々と異なる所である。血の気に属する人であれば、依然として病気を患うが、霊に属する我々は、永遠に病気しない。
永世に入っても、庶民にはしがなくても、病気を患う事がある。彼らは、今と同じよに、働き、養い、子孫繁栄があるが、偶に小さな罪を犯せば、病気をさせられ、そして、いのちの木の葉を食わせて、「その木の葉は諸国民をいやす。」
現世で、人にはなぜ死が付きますか?聖書によって、死と病気は罪から起こるのです。
罪を犯したら、病気を患って、最後に死ぬことになる。
ローマ人への手紙5:12このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
コリント人への第一の手紙15:56死のとげは罪である。罪の力は律法である。15:57しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
上記の聖書は、病気と死を指して言われるのです。
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しかしこの庶民はいのちの木の実を食べられない。私達だけ、神の命を授かった人こそ、いのちの木の実を食べられる。しかも永遠に病気や痛みがなくなる。現世に置いて、受けたすべての苦しみに対し、神に感謝しなければならない。現世で、病気や苦痛の経験がなければ、永世に入って、庶民から苦しいと言われても、ぴんとこないからである。今の経験があって、将来、王となられる時に、苦痛の意味を理解できる。
ヨハネの黙示録22:3のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、22:4御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
ここで、教えて下さった;「のろわるべきものは、もはや何ひとつない」。現世の人が怒りの下や、のろわるの中に生きていて、人生の道が凸凹で、非常に怖い。永世に入ってから「のろわるべきものは、もはや何ひとつない」。
又「神と小羊との御座は都の中にあり」と言われるが;今我々の家に神と小羊との御座はありますか?我々の心に神と小羊との御座が有りますか?分からないと言えば、ない事に等しいのです。人間には人を交わす為に、常に嘘が付くので、貴方の心に神と小羊との御座はありません。
我々には、常に理不尽の事に出会う事が有るが、この世界には正しい裁きが有りますか?善玉は全部煮え湯を飲ませられて、奸物は全部調子が良い。貴方の仕事の中に神と小羊との御座はあります?見つからないかな?神の御座は恵みの座で、正しい裁きや恵みがある。
しかし我々はこの世で、正しい裁きや恵みが見つかりますか?一旦家を出ると、人と人の間に、非常に苛酷で、例えば、好くしてくれる人であれば、大半には必ず別に目的があると思われる。今の世では、神と小羊との御座は見つけるわけが有りません。神の家には、見つかるかもしれないが、でも神の家にもヤマイヌとオオカミと虎と豹にはたくさんおり、多くの偽クリスチャンが混ぜている。
この世界で、最も大きな問題には、正しい裁きがないだけではなく、強暴に満ちに満ちる。全世界には、神と小羊の御座がない。その原因は神の権勢が完全に地上に到達していない。今はもろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者の悪の霊によって、支配される;
エペソ人への手紙6:12わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
この世で、懸命に好き人間として、働いても、ちっとも記念されそうもないー人生は元々そうである。
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「神と小羊との御座は都の中にあり」と言われるが;今我々の心に一体神と小羊との御座はありますか?殆どの時、自我中心で神と小羊との御座はありません。神と小羊との御座は都の中にあるが、我々の中に御座がない。
イエス・キリストはベツレヘムに生まれた時、御座の上に生まれたのですか?いいえ;馬の小屋である。我々は救いを受けた時、我々の心に主イエスの分量がどれ位あるでしょう?恐らく、馬小屋よりよいでしょう。しかし、救いを受けてから暫くがたつと、教会に来なくなり、主イエスをトイレの横に移してしまい、根本的に関わらなくなる。私を含め
主イエスは私の心に御座があると確定できない。常にちょっとだけで、偶に自分で物事を決めてしまう。よく見掛けた誰かのリビングに一枚の額がかけられ、「キリストは私の家の主である」と書かれた。それをみると、ふと笑った。兄弟達よ;主はどこにいますか?馬小屋ですか?トイレの横ですか?又リビングの壁に有るのですか?貴方の生活の中で、主イエスは最高位をしめていますか?
この聖書は、「神と小羊との御座は都の中にあり」と言われたが、しかし私達の心に、御座がない。当時のベツレヘムと同じである。自分の心に、御座が有るかないか?とよく反省すれば、もし主イエスは、我々の顧問だけ留まって、有事こそお祈り、無事の時、倉庫にしまっといたら、それでは、御座は貴方の心に有りません。
実に言うと、殆どの時間で、主イエスはただ我々の家政婦のような存在でしかなかった。お祈りが答えて下さらなければ、あっという間に主を離れてしまう。テストの時に、主の力を借りたい一心であるが、必ず忘れてはいけないのは、神は正しいさ裁きで、かつ真実であり、免許しなければ、落ちることも当然であろう。
イザヤ書29:13主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。
前では、「水晶のように耀いている」というが、我々は本当に常に自分を反省するひつようがある。自分の心に御座があるこそ、神の力が臨む。
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「その僕たちは彼を礼拝し、」神の僕は皆神に仕える。兄弟達;人に仕えた方が好いか?神に仕えた方が好いでしょうか?経理の秘書や社長の秘書に成りたいですか?勿論誰の影響力が大きい方が好いではないか?勿論神に仕えたら最高であろう。
今の私達は誰に仕えているでしょう?神ですか?いいえそうではないが、仕えているのが地上の物である。そういうものは必ず滅ぶものとなる。滅ぶべきの人は、貴方を管理し、正しい裁きがないだけではなく、憐れみもない。数十年もあっという間に過ぎてしまい、振り返って見れば、悪夢のようになり空の空である。
目が覚ましたら、苦労し、忙しい日々と自覚し、正しい裁きもなく、憐れみもない。正しい裁きとは、公正で、歪みのないことであって、もらうべき人であれば、くれてやる。憐れみとは、もらうべきではなくても、幾ら努力が足りなくても、欠点が有り、許してやろうともらうべきではないものをくれてやる。
この世に正しい裁きと憐れみがあるはずない。今の世界の光景は、何でしょうか?第一;渇く中に生きる。何かあっても渇く事を解決できない。美貌や、地位や財冨や事業があっても満足がありません。渇く事を解決できない。第二;飢餓である;
アモス書8:11主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。
上記の聖書によると、この世界はいかにもおかしいと思いませんか?パンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。この世界には、パンあっても飢饉であり、水が飲めるが、渇き続ける。それに暗い世界であって、水晶のように輝くものではなく、すべての事や人の考えが見えないし、つかめないのです。だから企業は人を募集する時、面接を行って、応募に来られる人を見抜けるように、適当の人が見つかりたいと思っているからである。しかし面接が受かっても、一旦入社して、高い給料を払っても、仕事の内容に相応する能力を必ず持つとは限りません。
先日、ある友人が弊社に訪ねてきたが、弟が中国にある台湾企業に務めていた。その会社の社長は、ある上場企業から一人の専業経理をスカウトし、仕事をお任せしたが、結果として、会社をめちゃくちゃにされて、グループ会社を含め全部潰れてしまった。あのような人でも専業と言えるかしら、多くの経営者がこうして人を募集してきたが、水晶のように輝けなかったので、人を見抜けられなかった。今の世では、正にそうだった。
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例えば、女性は、結婚相手を探すのも面白いことではないか?大学時代に、有る美人のスクールメートがいて、多くの男性から追求されていたが、どっちを選んでいいのか?迷いました。台湾では、女性の結婚相手を捜しについて、一つの笑い話があり、「東でも西でも捜し、やっと北を見つけた」。このスクールメートが正にそうだった。結果として、やっと結婚相手が決まったが、後になって、その中に最低の結婚相手だとわかった。要するに見抜けできなかったことで、人生には、諷刺の連続で、生命とは、見抜けることができないだけではなく、他人の事が更に判断しにくい。この世界に置いても、人生にも渇き、飢餓、暗闇、呪い、疾病などが付きまとい、それに正しい裁きや憐れみがないのである。
しかし永世では、こう言う事がすべて過ぎ去る事になる。神と小羊との御座は都の中にあるので、、その僕たちは神と小羊を礼拝する。
神には憐れみがあるけれど、なぜこのような極重い苦労を我々の身体に加えるのですか?この極重い苦労は、永世に入ってから、なくなるが、現世では、神は人間をこの極重い苦労の中に陥って試練を受けさせる。我々の事を例にすると;苦労して、中学校を卒業したので、これからもう高校に行かなくて宜しいとそう言う両親がいますか?勿論いない筈だと思う。人生には学歴が必要である為、苦労して高校や大学に入らなければならない。又習得専業知識や学問によって、自分の能力を伸ばすようにし、更に飛躍的な成長を遂げる為である。
神は人間をこの極重い苦労の中に陥って試練を受けさせる。その目的は何でしょうか?神は父親のように、子供の将来の為に、試練をさせるしかなかった。しかし永世に入って、すべて異なるが、現世で、神に仕えることも難しいことではない。神につかえれば、主のくびきは負いやすく、主の荷は軽いからであることを体験する事が出来る。
マタイによる福音書11:29わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
実に言えば、大部分の事は、神によって、行うので、重要なのが、神に合わせれば宜しいかと思います。神は三段跳びをすれば、我々は拍手をすればよい。これ位でも出来ないわけがないでしょう?神は三段跳びを終えてから、我々は賛美をすればよいとのことである。永世で、神を賛美するだけで、其のほかにやる必要がない。
現世で、神と共に働くとは、すべての苦労も神によって、担いで下さるのです。
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学生時代の時、毎回お食事の前に、感謝のお祈りをすれば、異邦人のスクールメートにからかわれる;飯は貴方の父親が稼いでくれたのに、なぜ神に感謝するの?自分のお父さんに感謝すべきではないか?社会に入って、仕事を初めて、多くの新しい友人に出会って、よく言われたのは;なぜクリスチャンが食事する前に感謝の祈りをしなければならないでしょうか?自分の力で、稼いだ金なのに。
ある日、そばを作って食べようとし、お祈りをしようと思った時、浮かんできた一つの言葉が有って、「このそばを稼いだのは自分だったものではないか?」なぜ神に感謝する必要があるでしょうと自分に言い聞かせたのだ。ただちに有る声が出てきて、「では貴方の考えは如何ですか?」と神は私に勘定を聞いていた。そろばんを出せ;まず飯を食う為に、米は成長する必要が有るが、どうやって生える?種だけで?それとも水をいれるだけで大丈夫?又耕す者が有れば、いいか?地上がなければいけないでしょう?それに日光や空気の他に、雨でもひつようであろう、多くても少なくてもだめだが、適切な雨量ではいとだめです。それでは、人間は何を行ったのですか?神は続いて言われた;貴方には苦労があるが、でも一体何を行ったのですか?米を成長させて、飯にすることができる技が出来るでしょうか?いくら学問が広くても種を創造できる?土や水をも創造出来る筈もないだろう?神は雨を降らせなければ、誰でもしようとしても出来ない。神は強い日差しをシャットアウトして下さらなければ、貴方には、出来る者が有りますか?苦労した事が一つだけ、種を土の中に入れるだけではないか?これだけで、人間が傲慢できるでしょうか?私は先ほど作ったそばを見て、99%は神によって出来たもので、私には只1%しかできなかった。即ち種を土の中に入れただけである。入れてから、引き続きのみわざがすべて神によるもので;風、日光、雨、暫く立つと、野草を抜いてやって、日光を浴びて、神は再び雨が降って、再びそれにひなたぼっこして、やっとゆっくりと長く稲になって、稲は長くなって、私は刈取りに来て、アワを米になって、そこに入れる。そして自分に自分の労だと自我自評した。本当ですか?神は雨が降らせなければ、人間には何もできないのだ。
暫くの前に水が足りなかったではないか?もし一年も雨が降らなければ、大変だと分かるだろうが、今頃、少し不便だけと感じる。しかし牧師は毎朝お祈りを捧げるが;主よ、憐れんで下さって、雨を降って下さいと祈りをし続けた。神は十人の義人の為に、ソトマ都をお許しになったが、台湾にはどれ位義人がお祈りをしているでしょうか?そして神は台湾をお許しになって、人に水の制限の不便さをさせるだけよかろう、罰を軽くしようと雨を降らさせた。雨が降れば、貴方は何をしたか?人は少ししかできないが、でも又誇り高く言い始める。
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と言うことで、神に仕えやすいのです。一枚のテーブルでも99%は神のみわざであって、1%は私達だけやれば宜しい。しかし地上の王に仕えれば、くびきは負いにくく、荷は重いので、非常に厳しく管轄される。この世界ではそうである。しかし私達の神はそうではない。神のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。もし信仰があれば、心配など要らなく、すべて神に責任を持って下さる。神といっしょに将棋をする様で、神は碁石どこかを並べと言えば、従えば宜しいです。こんなに平易さを組み合わせることが出来る。
もう一度読みましょう;「神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し」。救いを得られてから、私達は全部神の僕であるが、神に仕えたでしょうか?最初この言葉を読んだ時、非常にナンセンスだと感じられたが、僕だから、仕えるのが当然であろう。しかし真実な生活の中にいる僕であれば、殆ど神に仕えない。では私達は、誰に仕えるのか?富みに仕える、懸命に私たちのための名や利や前途の為に頑張る。
ルカによる福音書16:13どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
私達は主イエスを信じてから、神はずっと家政婦の小屋に住んでいた。神に必要な時にお祈りをし、お祈りを聞いて助けてもらわなければならないと勝手に思い込む。留学したいのであれば、海外の学校を用意してくれ、結婚したいのであれば、相手が見つかってくれ、又給料を増やしたい時に、ボスの心を激動させるなど主イエスに限りなく願いを求めた。主イエスはあっという間に家政婦の小屋に三・四十年も住んでいた。勿論馬小屋より少しよいだし、日曜日も教会にきて、讃美歌を歌う。万が一に牧師の説教を聞いて、神に照らされたら、良心が不安となって、偶にも、主イエスを客室まで招待し、又すこし多めに献金する。しかし主イエスは客室に1・2日位しか座っていない内に、又家政婦の小屋に戻された。貴方は常に自我中心で、勝手に動く。
しかしこの聖書による;「神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し」。又22:4御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
多くの人は主を信じてから、なぜ主は私に話しをかけて下さらないでしょうか?まあ非常に簡単な説明で、その原因は、貴方にある。主イエスを家政婦の小屋に置きっぱなしで、どうやって主イエスと話が出来るのか?もし常に客室まで招待し、仕えて、主は自然に話しをかけて下さって、貴方は「御顔を仰ぎ見るのである。」
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ある救いを受けいれたばかりのクリスチャンは、ブラジルに居た時、常に兄弟達の証しや御霊からの黙示を聞いた。この兄弟は誠実な人で、なぜ神は常に貴方達に話をするか?私に話をして下さらないのですか?と問いだした。兄弟達は何を言おうと知らない為、ただ彼の肩を叩いて言われた;しっかり教会の行事に参加し、追い求め続ければ、その内に神から話をしてくれると励ました。
この兄弟は一匹大型の犬を飼ってあり、ある日、教会の集会が終え、戻ってから、飼った犬と遊んでいた。犬があちこち跳んでいて楽しんでいた。突然この兄弟の心にもう十分だと言う感覚があったが、気にせずに犬と遊び続けた。二回、三回もその声を聞いたが、相変わらず遊んでいた。四回目の声十分だと聞こえたが、一瞬の間に突然犬が跳び上って来て、彼を力強く噛んだ。非常に深刻で入院しなければならない。教会の兄弟達は病院まで見舞いに尋ねてきたが、この兄弟は、皆に向けて;見舞いに来なくても大丈夫ですよ、私は非常に喜んでいるので、やっと神から人に話をすることを体験された。以前、神から人にどうやって話をするかを知らなかったが、神は私の中に居て、一種の感覚を与えて下さると喜んで言われた。神は4回もこの兄弟に警告をしたが、彼はちっとも気にせずに、正に、主イエスの事を家政婦小屋にしまっといたのではないか?
警告したのに、聞かなかったので、主は黙り込んだのではないか?しかし犬に噛まれた彼であれば、大変な目にあわされたが、主を感謝します、咬まれても喜びが一杯で、今になってやっと神と人の話を知りました。
22:4御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
上記のことばによると、物凄いことであろう。永世で宇宙の最高指導者は神と小羊である。あの時の庶民は、億単位で計算するではなく、兆以上の計算単位で計る。又日に日によって、益々人が増えて行く。あのような膨大な神の国で、御使が私達の家政婦で、私達は永世の中で王となる。聖書による御使いがお見えになる時に、白い服を着て、強い御使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。このような輝く御使いは、私達の為に動いてくれる。
兄弟達;神の子供として、どれ位栄光であろう。
ヘブル人への手紙2:5いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。
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今の世界は、御使いによって、管轄される。その中に、サタンは黒闇の御使いを率いて一部を管理される。その外に光の御使いによって、管轄する。ですので、我々は、彼らをもろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者と呼ばれる。
御使いは元々この世界を管理する僕である。御使いは神の僕である。なぜ今の世界は御使いによって管理されるのでしょうか?子供がまだ小さいのだから。子供は小さい時に、執事は息子を管理することができる。しかし息子がおとなになってから、執事は権利を子供にひきわたさなければならないのを意味する。きたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。これは、ヨハネの黙示録二十二章に述べる永遠の世界である。神はこの新しい天と新しい地を私と貴方に管理させられる。
あの時の人口はどれほど巨大でしょう?しかも我々は神の子供であるだけではなく、御顔を仰ぎ見るのである。私達の額には、御名がしるされている。永世では、死がない。多くても病気を患うだけである。昨日悪口を言ったので、今日は歯が痛くなった。早めに聖の都に行って、受付番号を貰って、一枚のいのちの葉を飲めば、よくなるでしょう。
あのような世代では、額には、御名がしるされているというのは、、もろもろの民の間に歩けば、想像もつかないほど非常に高貴あろう。もし貴方は毎日一国の大統領に会う事が出来れば、周りの人が、どんな思いをするでしょう。
聖書によって、「御顔を仰ぎ見るのである。」「彼らの額には、御名がしるされている。」あの時、御顔を仰ぎ見ることができる人がどれ位いるだろう?聖の都新エルサレムに入る事も出来なければ、御顔を仰ぎ見ることができないでしょう。そして、御顔を仰ぎ見るだけではなく、「彼らの額には、御名がしるされている。」もし貴方は銀行へ小切手の現金化をしに行けば、その裏には、ある大企業の社長の名前が書かれれば、銀行側は例えば50億でも、必ず現金化にしてくれる。しかしもし、神と小羊の仲間が額に御名がしるされていれば、物凄いでしょう。
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神と小羊の仲間が額に御名がしるされる;これはどれほど栄光に耀くであろう。
人は、常にこの世界の事に取られ過ぎて、神の為に少しの時間も使いたくない。神の為に重い足をあげようとしない。なぜかというと、自分の利益にならないと思うから。私は企業界に長く居て、多くの経営者を見て来たのですが、本当に大企業の社長となると、一人ぼっちの様な寂しさで、毎日会社の商品の売り上げに没頭する以外しかない。しかし売上が悪い時に、誰にももう旨く行かないと言えないだろう。自分の心はそう思っていても、口外出来ないのです。会社はもうだめだと部下に知られてら、有能の社員がささっと転職するだろう、そして残される不器用の社員しかいないので、益々会社の状態が悪くなる。
しかし格好をつけるこれらの経営者であれば、心の中に満ちているのは、焦り、暗い、怖い、心配等、会社の顧問に会えば、少し慰めを得られるが、役に立つか経たないのか?本人しか知らないだろう。偶に企業界の様々の事にコミカルのように見えるが、こういう体験あってこそ、聖書の言うことをもっと理解しやすくなる。
聖書にあるいのちの川、いのちの木をのべているが、退屈だと思う人がいるだろうが、永世で飲む水だと勝手に思うであろう。
人生では、本当に探し続け、求め続け、欲望を止める事がない。つづいて、ひっそりしていて、次は悲惨が貴方を待っている。
大人だけではなく、子供も同様に、ウルトラマンのおもちやが欲しくて、親に追い求め続けてくれて、永遠に満足する気が有りません。
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貴方は幼い子供であるかそれともこの世界のサタンに惑わされた?なぜ永遠の世界の輝きを感じないでしょうか?とてつもなく栄光に輝くのです。それに今のような四年間で一度に改選することでもありません。永遠にかわることがない。貴方達は、教会に聖書を勉強に来られて、教会としては、神のいのちを貴方たちに伝え延べ、尊い王と祭司の職務を鍛える。積極的な方面では、日々神に会える特権と永遠に変わらぬ栄光を貴方達に加えつける。消極的では、あの不滅の火と死ぬ事のない虫の中と夜も昼も関わらず硫?の火からあなた達を救い出してくださる。
福音を述べ伝えるとは;一人を火の池から救い出せれば、最も大きな福と言えよう。すべて救いを得られる者が神によって、定める栄光の権勢の境に入る事になる。人の霊魂を救い機会を与えてくださる神のご期待に頑張らなければならないのです。
22:5夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
幼い時に、常に何故夜間があって、夜中に起きて、トイレに行くのに、夜中だから誰か伴なってくれないと怖いと疑問を持ったが、永世に入れば、夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。実にいうと、夜は災いである。当事のエジプトの法王はイスラエル人をエジプトから出さない
出エジプト記10:21主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。10:22モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。10:23三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。
そのくらやみは、さわれるほどである。人々は自分の指さえも見ることができず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし 永世になると、夜はもはやない。あかりも太陽のひかりも、いらない主なる神が彼を照らし。そして彼らは世世限りなく支配する。
大統選挙に参加する候補者をよく見ていただければ、連任ができても八年で引退しなければならないそれにして羨ましがられる。昔の皇帝であれば、歴史上多くても六十年で、死んでしまうでしょう。だから万歳万歳と呼ばれていても、万歳になる事がありえない。
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兄弟達よ;例え万歳になっても過ぎる事になるが、そうではないか?まもなく七千年目に入るが、引き続き数十万年や数十億年の長い歳月がどうやって過ごすでしょうか?それだけではなく、永遠です。王として永遠になる。今の話を聞いても、羨ましくないだろうが、不信のためにある。貴方は信じてますか?私達の信ずることによっても、依然不信を持つ貴方である。聖書の言葉の通りに;
コリント人への手紙8:2もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
もし我々は信ずれば、上記の聖書を読んだ今、羨ましい表情が浮かぶだろう。もし買った株が上がれば、すぐでも嬉しい表情が浮かぶだろう。
なぜクリスチャンとして、易者の運命判断を受ける必要がない?しても無意味で、貴方の運命が特に決まっていた。クリスチャンは現世で、学校で勉強するように、その学習の目的は卒業してから、王となる。しかも永遠に王と成れるので、神の戒めに逆らって、易者の運命判断を受けるべきではない。また、学校の試験の点数なら、それほど大事ではないですが、大事なことは、卒業してから、何をやろうとしているのだ。既に正真正銘のクリスチャンとしての結果が分かれば、細かいことなんかこだわり過ぎる必要ない。
22:4御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
上記の「彼らとは」救いを得るものであるか?或いは、勝利を得るものであるか?下記の聖書の言葉を参考すれば、分かる:    
ヨハネの黙示録21:27しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけと言うのは、救いをを得られる人を指すのである。二十二章4節の「御顔を仰ぎ見るのである」とは、救いを受けられる人であれば、すべて、聖の都新エルサレムに入れて、先に目にするのは、二十二章1節にある;
22:1御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
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次は2節の言われる;都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
三番目は何ですか?のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、その僕たちとは、全部を意味するのである。
そして4節では、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。二十二章1節から4節までの言葉は、二十一章27節にある言葉と同様な意味を述べるのです。「はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」彼らは、聖の都新エルサレムにはいれて、一切の栄光と豊富を得られる。
では、こうして見ると、5説による、主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配するというのは、救いを得られる者も入っている。要するに王ともなれるのです。聖書の中に、ここだけ、明確に述べてあるが、別の所にこの様に明確に述べてなかった。
上記の事をご理解できれば、いかがでしょか?神は言われる言葉であれば、必ず成るのですので、本当に物凄いことであろう。それから、死もなく、悲しみも、叫びも、呪いも痛みもないだけではなく、多くの喜びと幸せなどもある、そして、宇宙最高な神である主の名は、貴方の額に記され、王となって、永遠にある。今の世の中の王を見ると、僅か数年しかないが、我々は、永遠に王となれる。正に月とすっぽんである。
22:6彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。
神は私達の不信を知るので、また、私達に繰り返し言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。又言われた;預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。
ヨーロッパ同盟は既に一つの国家となって、そして、敵キリストの出現を待つのみで、一旦現れたら、最後の一週もあっという間に来る。ハドマゲドン戦争が終えたら、今の世界の終焉を迎える事になる。
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あの時の貴方はおいくつになる?例えば:10年後が主の再来となれば、世界の終焉となって、貴方はおいくつになるでしょか?その時、一流大学に入った人でも何か誇れるものが有るでしょうか?仕事をする最中の方にも恐らく上場企業の株をまだお持ちであろう。ですので、誰か様が言われた;主よ、なぜそんなに早く来られるか?人生はまだこれからではないか?しかし歴代の聖徒らは、主の再来を待ちきれないほど待ったが、私達は、福のある現世の人が主の再来を目にすることも可能ですし、肉体の死を経なくても、見えるかもしれないし、もっと若い方であれば、各種の疾病を体験しなくても、主に会えられるのも素晴らしいではないか?主の早くの再来を望んでいない人であれば、恐らく、本当のクリスチャンではないだろう。彼の望みは地上にあり、天にあるものではない。
ペテロの第二の手紙3:8愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。3:9ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。偶に思ったことだが、私は主に従って、既に三十年以上を超えたが、心の準備も随分にして来られたが、敵キリストの出現も近付いてきたので、恐らく主に仕える日が後いくつでもないのではないか?御霊は心配することがない;神は主イエス・キリストを世界の為に宇宙世界を創造する前に既に容易したが、主イエスは地上に来て、ただ三年半の間に伝道をしてきた。貴方は何年を伝道したいと思うでしょうか?と言う事によって、兄弟達よ、せっかちをしても意味がない。主に時間が有って、その時になると、すべての事がなるのです。
「預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。」
これは、「すぐにも起るべきこと」であって、もしかしたら、主の再来に首を長くして待ってきたと思うかもしれないが、主は一旦臨むと、千年は一日のようであると分かるだろう。これは、「すぐにも起るべきこと」である。
これも現実世界のことと同じように、教えて下さる;例えば、この会社は、期待できそう、間もなく株の上場になるので、上場前、人ごとどれ位株を買い込んで、上場後、幾ら値上げられるだろうと見る。兄弟達;これは「すぐにも起るべきこと」である。あなたの手に持つのは、どんなものがご存じでしょか?その上にある印は会長はヤーゥエイであり、社長は主イエスであって、副社長は御霊であり、株の構成成分が金で出来るもである。しかし貴方はそれを見極める事が出来ない。ご存じでしょうかな?神の発行する株は将来にどれ位値上がるだろう。むかしある会社に会社の副CEOを任された時に、常に会社の連中に会社の株を持って、必ずお金持ちとなるだろうと福音を述べた。ある人、今でも私の隣人である当時の部下がいる;彼は研究所から卒業してから、私は彼をぬてきしてきて、ずっと私はあの会社を離れた時だった。
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その時の彼は、既にマネジャンまでのぼった。一旦私はあの会社を辞めてから、副CEOの位置が空いていたので、競争の末に彼は副CEOとなって、すっとあの会社を離れる時までいた。彼は会社を辞めた時に手に持った会社の株が大凡台湾ドル一億元が有って、その時の歳が39歳だった。株を持っていても売らなければ、何もならない。
その後、彼は非常に感謝してくれた。なぜかというと、持った株を売った方がよいと私にお薦められて、その通りに高い時期に株を売って、利益を得られたのです。もし遅れて売れば、その価値が減って、三、四倍の差がつくでしょう。その時に全会社の高級幹部らが私の言う事に耳を傾けるのは、彼一人しかいなかった。売らなかった古い会社連中らが、彼に聞いた;なぜそんなに適当な売りの時期が分かるだろうと、呉様からお薦められていなかったでしょうかと反問されて、皆が絶句した。
私は彼らにも適当な時期に株を売れと勧めたが、耳を傾けてくれなかった。株を持っても稀なことではないが、いつ売るか大事なんです。神の国の株は値下げることが有るでしょうか?今の内に書いといたら、安く買えるでしょう。
御使はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。兄弟達よ、貴方は信ずるでしょうか?又 言われた;預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。
私達は、すべて神の僕であり、先ほど読んだ神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝しであって、私は派遣された神の使者であり、皆に法人説明会を開き、信ずるかどうか?もし信ずれば、必ずもっと大きな代価を払って、頑張るのだ。これから、真面目に聖徒の使命を果たすべきではないか?さもなければ、永世に入って、悔しい思いがする。
お金が幾らあっても、将来の事が買えるものではないが、聖書の教えによって、将来に起こる事を事前に教えて下さるのです。永遠に王となるのです。
22:7見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
主は必ずすぐに来る。神の株が上場する日が近づいているので、私達は一生にかけて頑張るのがその日の来るためである。
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先ほどあの会社の株の事を正確に言ったので、神の国の株も同様に正確に当たる。それとも必ず当たる。地上にある株であれば、神の承諾がないのに、聖書には神の承諾が付きである。今年は西暦2010年であるが、イエス・キリストの年号であって、それでも、どのぐらいの以前の世代から知らないが、主は既に王となっていた。
ダニエル書:44それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。
上記の言葉によって、即ち神の国であること;ダニエルはこの言葉をしたのが、2600年前でした。PC,時計、車など、使用されるのが、主イエスの年号であって、神の仰せになれば、すべてが成就される。モーセが3600年前に名にを言われたのですか?
詩篇;90:10われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
この3600年前後で、医学技術の進化がどれ位進んだでしょうか?この長い歳月の中で、人類が絶えずに長生きの為に膨大な資金と優秀な人材を投入してきたが、目指す寿命が百歳や二百歳まで生きられるであおるが、しかし人類が幾ら頑張っても、平均寿命が七十歳や八十歳までしか伸びられないのではないか?やはり神は言われたとおりになるのではないか?「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。」
人類は、作った多くの医学研究センタがあっても、神の言葉を変更できるでしょうか?いいえ出来ない。神はいえば、必ず成るのです。
神は言われた;わたしは、すぐに来る。神の言われたすべての事が必ず成る。貴方達の中にまだ若い方もいるが、諺の万金があっても正確な預言が買えないことを知らないのですが、将来、聖書の預言が事実になる日が来れば、万金と言わずに500億アメリカドルでも買えない。ブルゲイツ様は500億ドルを持っていて、約台湾の外貨貯金の半分に当たるが、彼であれば、永世に入っても今と同じようにお金を持ちたいであろう。しかし今のビルゲイツであっても、神の国で、王となる私達に負けるのです。
マタイによる福音書11:11あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
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多くの人は学校のテストの事を夢見ていた。一問題でもできないので、後程すぐ目覚めることを驚かされ、あれは私たちの悪夢です。
まだ勉強中の若者に皆がこのような体験をするので、苦だと思わないでほしい。しかし地上にある多くの事は只面影であって、これは、どんなことを実際的に意味するでしょうか?世間のすべてが只面影であり、ただ基督はあれであり実際である。
コロサイ人への手紙2:17これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。
あの面影の背後には、実際にどのテストを指すでしょうか?はっきり言えば、神の裁きを受けるこそ、正真正銘のテストである。すべての人はこのテストを受けなければならない。父、歯は、子供ら、家政婦までも受けざるを得ない。テストの内容は一旦出ると、何でしょうかな?聖書のマラキ書の次に何ですか?聖書の章数は何章ですか?正確に答える自身が有りますか?長い間、クリスチャンとなってから、教会の長老にも成ったのに、なぜ覚えられないのでしょうか?今日は兄弟達にこれこそ必ず成就されることであると伝えなければならない。
聖書によって、これは、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。しかし貴方はヨハネの黙示録と言うのは、書き終わってから、既に1900年余りが有って、1900年あまりとは、神からいうと、只二日だけである。神は私たちをこの末世に並べて、私たちに最後に何分かまだ突進可能にさせて下さる。我々はヨハネの黙示録を勉強するのも、兄弟達に最後の頑張りをご協力できるように、そして、神の裁きに合格できるようにさせたい。
今日は多くの人がこれを認識しないかもしれないが、一人のクリスチャンが、町を通り掛かっても、誰でも将来の身分である彼を知るわけがない?毎朝貴方は教会の集会に来られて、即ち宇宙の最高な神の前に来られて、お座りになって、説教を受ける。主イエスは言われた;その良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
ルカによる福音書0:39この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。10:40ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。10:41主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。10:42しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
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貴方の人生の中にどんなことでも、神の言葉を聞くよりも大事な事が有りません。それは、一つだけを取り去ってはならないものである。試験に万膳の準備をする方法は、試験問題を出す人を調べ出すのです。誰か分かれば、あの先生の授業を選べばよかろう。なぜかいうと、彼は、試験問題を教えてもらえるからである。そして、間違いなく試験に合格になる。多くの大学卒業生は、なぜ研究所に入れたのも、大学四年の時の先生は、研究院の院長であるため、試験問題もすべて院長の得意なもの技であって、彼の先生にも成れば、必ず順調に研究院に入れる。
将来、最後の裁きは誰の裁きを受けるでしょうか?主イエスである。では、今日は受ける授業内容が即ち主イエスの試験教材であり、神の言である。今、神はここで教えて下さって、これこそ、すぐにも起るべきことである。起こるできこととすぐにも起こることとは、どこか相違するでしょうか?すぐにも起こるとは、あっという間に主は来るを意味するのである。
22:6彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。22:7見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
此処で、言われた;「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。」我々はマタイによる福音書にある大使命を読んだことが有って、神の言は信ずべきであり、尚まことであると知った。引き続き;「預言者たちのたましいの神なる主」は、神なる主は、今日の授業者であ、神である主は、預言者たちのたましいの神なる主である。神である主は、「すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。」
ある知り合いの兄弟がいて、国際的に有名な儀器会社に勤め、肩書きがマーネジャンである。ある日、会社の掲示板に営業力のある幹部を募集する掲示を公告された。当時の私は、PC上場会社のマケーテイングの世界担当責任者であるため、専業能力が群を抜いていた。
この兄弟は、応募する為、私の所にやってきた。臨時勉強するというのです。私はいっちょう半日位の時間をかけて、教えてやった。結果としては、彼が受かった。そして人生も変わった。
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一つの会社の中に地位を擁するなど、経験によるものでしょうか?それとも、面接の時に、専業や経験があると認められなければならない。それでは。その内に神の前で、何を認めて下さるとお考えであろうか?又なにによって、万物の相続者をお受けするのでしょうか?
ヘブル人への手紙1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
学校の学長の職を受け入れるのは、経験と経歴によって、選抜を通過したことです。体格や顔を見ることではない。そして私達は将来神の国で、万物の相続者を受けるのに、神の言によるもので、神は神の言であり、神は御子を万物の相続者と定めたのである。
会社内のことで、経歴によって、昇進させられ、大学の入学試験が点数によって、どういう学校にはいるが、では、神の国に入るのは、神の言によって、序列を並べる。要するに聖書に対する理解と暗記がどれほど分かったのでしょうか?特に若い人にとって、幼い時から、神の言を覚えられれば、暗い所に光が照らすように、正確の人生観や神の恵みが絶えずについてくる。しかし、すぐにも起るべきことを今まで誰かこの様な事を話して下さったのでしょうか?そしてこれに直面しなければいけない問題なのです。
神の裁きを受ける時に、貴方は博士の学位を取ったからにも関わらずに、大事なのが、聖書の事を知っているかどうかT言う事です。必ず、聖書を知らなくても構わないと思わない方がよさそうです。かえって、とてつもなく厳しいです。例えば;ゼガリヤ書の次に何でしょうか?ヨエル書の次にアモス書であることを分かれば、重要ではないか?
では、ユダはタマルによる誰か生んだ?パレスはエスロンの父、ダビデはウリヤの妻による誰か生んだ?またサルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによる誰を生んだ?これもその内にテストを受けることになるのです。しかし聖書についてのテストは、知識問題以外に、実行問題がある。知っていても実行しないと意味がない。例えば十分の一の献金を知っていても、献金をしたかどうか?知っていても実行しなければ、合格できないのです。実行問題が少なくとも60%をしめるであろう。特に知っていても実行しなければ、更に厳しい罰を受ける。聖書にある一つとても厳しい言葉をしてある。
ヤコブの手紙3:1わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。
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神はどうやって説教する人をさばくのですか?第一;聖書の教えの通りに実行するかどうか?第二;聖書の教えの通りに正しい教えをおこなったかどうか?純粋の神の真理を述べ伝えているかどうか?を裁きます。多くの伝道者が自分の意のままに言うが、神の話しをつたえていなかった。特に人の喜びを打ち取りたいので、主の悦納に気にしなくなる。神の言を伝えるのに、一の口に合うようなメッセージしかできなかった。
神の真理を聞いて、相手が嬉しいかどうか別に気にする必要がないと思うが、信じれば、守っていけば、神の国に入れるが、信じていなければ、火の池に入る。一旦火の池に入れたら、神の真理はまことであると分かるからである。
ある会社の経営者は常に自分の秘書にこのままで宜しいか?と問うが、秘書はいつも同じような回答で、社長が宜しいと思えばよろしいではないか?我々には意見がないのです。この経営者は非常に感深く、誰でも本音を言ってもらえなかった。しかし伝道者としては、真な言葉を述べ伝えなければならない。なぜかというと、これは「すぐにも起こるべき事である。」
「彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。」
預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。これはまったく偽りなし、歪むことのない事実で、すぐにもおこるできことです。主はすぐにもきます。
韓国には一人の牧師のメッセージによると、彼の教会の中に一人のお金持ちの長老がいるが、教会の為にしっかり務めを果たさなかった。何年後の経済金融暴風の中に、彼の金が消えてしまった。兄弟達よ一生の時間があっという間に過ぎてしまうので、何もかも空の空となる。このことを伝えた牧師様が既に七十歳を超え、十二、三歳から主に従って、あっという間に六十年も過ぎてしまった。
兄弟達;上記の話しを気にしなくてもいいと思わないでください、依然として、わが道へ行くと色んな自己の計画を立て、神の戒めに従わない。主はすぐにも来ます。
22:7見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
神は必ず貴方をテストする。第一認識、第二;守る。
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実行問題は60%を占めるので、必ず神の言を怠慢しない方がよさそうです。裁かれる時にお分かるだろう。合格できなければ、罰は、火の池を受けるしかありません。
引き続き8節をよみましょう;
22:8これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、
上記のことについて、御使より教えて下さったが、この前にヨハネが聞いたこともみたこともなかった。そして、ヨハネは非常に感無量になり、御使の足もとにひれ伏して拝そうとする;
22:9彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。
毎度、9節の聖書を読んだ時に、常に繰り返し考えるが、神の国に入ってから僕となるって、どういうことでしょうか?
首相となって、閣僚のスタッフを選び、適当な人材を設置する。これらのスタッフが首相の僕であると言っても過言ではない。
会社の経営会議を行う時にも、社長以下の各部署の幹部が揃えて、これらの幹部らが社長が選んだ僕である。
しかし神の国にはいって、神のスタッフとなれるとは、易しいことではないと言えば、さすがにそうである。私達は神によって、選び出され、王となるのであるが、王と成れば、王となる風格と資格がなければならない。もし神の言を認識できなければ、どうしてしくじることではないか?
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と言う事によって、御使いや人に拝みをするべきではない。カートリック教では、マリヤを拝み以外に、多くの聖の使徒達を作り上げ、信者にそれらの偶像を拝ませる。これがまったく聖書の教えに違反するのである。御使をおがむべきだけではなく、更に人を拝まない。では、誰かの有名な牧師や有名な神父を崇められますか?誰か兄弟姉妹の上に登れますか?あしあれば、それはニコライ宗の教訓と言える。兄弟の頭の上に誰一人も登るできではない
これらのことを見聞きしたヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、御使は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。
もし私は聖書勉強の為に皆様をご指導すると、そして、私を拝むとすれば、私には災いが来る。貴方達は聞いているが、見ていたが、はっきり見えると理解するとは限らない。兄弟達よ、必ずあの人は聖書をよく理解し、神の幻を見たからといって、彼は凄いから、彼を拝むとはやってはいけない事です。「同じ僕仲間である」、同じ身分である。私達は基督の身体であるので、身体の感覚によって、行うべきで、行うすべての事が兄弟姉妹の悦納を得られれば、よろしいですが、その先に神の戒めに依らなければならない。
22:10またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
ヨハネの黙示録の預言について、封じてはならない。この言葉は非常に重要であるが、今まで、多くの人がヨハネの黙示録を読んでも理解できないと思っていたので、読まない事にした。しかし、この言葉によって、御使はヨハネに言った;「この書の預言の言葉を封じてはならない。」要するにヨハネの黙示録は開かれる本であり、閉じるほんではない。開かれる本である以上、読めば、理解できるはずになるではないか?聖書には、二つの重大な預言書があり、ダニエル書とヨハネの黙示録である。ヨハネの黙示録は、開かれる書であり、ダニエル書は閉じる書である。
ダニエル書1212:4ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。
ダニエル書によると、終わりの日になれば、多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。この前では、ダニエル書が、閉じる書でした。なぜかと言うと;国家の変化や世界歴史流れがダニエル書に書かれて有る。神の計画の奥義と暗号は。預言の中にあるので、人間として、事前に知るわけが出来ないし、知らせて下さることもできない。
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しかしヨハネの黙示録は開かれる書である。そして、ダニエル書を読んでも理解できるので、これが何を意味するでしょうか?世界が終わりの日まで来ていると示すのです。我々はもしヨハネの黙示録の預言を人々に伝えなければ、神に恨みを買ってしまうことになる。「時が近づいているからである」とは、ヨハネの黙示録を閉じてはいけないことを意味するので、我々の家族や、親戚や友達にまもなく主が来る事をお知らせなければならない。そうしなければ、我々の罪が重い。
兄弟達よ ヨハネの黙示録が難しい書ではない。開かれる書である。難しい考えを持つのが、サタンから与えられるかんがえである。
22:11不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
かくなるうえは、私たちは福音を伝えることは何をするのですか?たとえばあなたの同期生は試験の時に不正行為をして、あなたは班長として、彼が不正行為をすることが不可だと告げれば、彼が相変わらず、わがままで不正行為を行っても、犯した罪が自分に関係なくなる。裁きを受ける時に文句を言っても、仕方がない。聞いた事が有ったが、直さなかったのである。不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
神の言が出れば、分からせて下さる;現世はどうなるか?永世も同じである。この聖書の言葉によって、私の会社経営に非常に大きな助けがあった。言い換えれば、豚であれば、場所が替えても豚であるので、新しく従業員を採用する試用期間は非常に重要で、必ず細かく観察する必要がある。もし 彼は不義な者であれば、相変わらず不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
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これは、非常に奥行きが深いので、神の言を理解出来る人であれば、そのまま理解し、出来ない人であれば、永遠に理解できない。しかし一人のクリスチャンとして、仕事、家庭、人間関係、教会生活などを通じて、何もかも神の許しがなければ、私達に臨むことが出来ない。
ローマ人への手紙8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
文句を言っても役に立たない。損するのは自分だけとなる。創造するのも神であり、予定するのも神である。神からの霊明を賜って下さらなければ、貴方が何もかもできないことを再度認識しなければならない。神の恵みによって、思う事を存分に成功に持っていかれる。常に神の言を勉強しない人であれば、何年が立っていても、只真理を認識できないクリスチャンとなる。そして、貴方に毎回、聖書の言葉を教える時に、いつも集中力がないので、いまさら教えてくださいと言えば、間に合うかな?
マタイによる福音書25:9すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
教会から説教のテープをきこうとしたが、まだ聞き終えていない内に黒闇と火の池に投げ込まれてしまい、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。又あの時、
イザヤ書66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
このような所に居れば、大変だと分かっていても、間に合わない。
22:12「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
主は再来の時に、裁きの主であり、恵みを施す主ではなくなるので、主はすぐにも来れば、好いか悪いか?もし今日の午後でも来れば、貴方が怖れいないでしょうか?二十何年のクリスチャンとなった時に、主が来たと夢見た。当時に全身に冷や汗だった。なぜ目覚めることを驚かすか?自分のため、準備することが全然なくて、少しでも主の目に触れかねる。私は世界の交りにどれだけ陥たか?主は来れば、どうすればよいか?全く準備の時間がなくなるのではないか?主の再来には、多くの人にとって、悪夢だと思い、少なくても、私にとってそうである。皆がもう準備が出来たかどうかを知らないが、有る人は自然に任せ、万物には、定時があると言いますが、間違いないかもしれないけれど、好い定時もあり悪い定時もある、貴方には、どっちでしょうか?問題なのは、主は私達のことをいつの定時にして下さると誰でも知らないのです。主の再来の時に、すべてのテストの終結と言え、皆さんもう準備が出来てますか?
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マタイによる福音書28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
それでは、賞と罰が誰の手にあるのですか?兄弟達よ、賞と罰の権威は神の御手にある。ちょっと想像して見て見ましょう;もし御使によって、火の池に貴方を投げ込むとしたら、あの火と硫黄との池に投げ込まれた貴方の身体に囲いのが、サソリムカデと数え切れないほどの虫、貴方の上や下にも虫が溢れ、咬まれた貴方のには、痒くてたまりません。しかしどっちでもしぬことがないし、毎日同じ苦しみを繰り返される。
映画の虫の多い映像を想像してください;スープの中に多くの目玉が入る蓋をあけると、多くの観衆があの映像にびっくりと驚かさせられた。しかし火の池の中に虫など数え切れないほど詰まっているだけではなく、投げ込まれたら、いくら叫んでも助けてくれるひともいないし、出る事も出来ない。
22:12「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
貴方の両親は貴方の不正の行為を見たら、しつけることをしないだろうか?いいえ総ではないです。神はいわれた;それぞれのしわざに応じて報いよう。
現世では主イエスを信じていない人であれば、火の池に投げ込まれ、永遠の裁きを受けるkとに成る。
22:13わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
神は初めであり、終りである。―神は万物を創造する道である。何時ごろから始まったのですか?いつまでこの真理が終わるんですか?神は永遠に終わる事がありません。
ヘブル人への手紙7:3彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。
要するにキリストは全てである。
わたしはアルパであり、オメガである。ギリシャ語の第一字母はアルパであり、最後の文字はオメガである。すべての言は道であり、キリストにある。「最初の者であり、最後の者である」。キリストはめであり、終りである。キリストは永遠であるので、時間、空間、すべての意義がキリストにある。キリストは全てであって、全ての中にキリストがある。
コロサイ人への手紙3:11そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
貴方は食べているフルーツが甘いが、主の恵は更に深甘い。主は初穂である。
コリント人への第一の手紙15:20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
天地万物のすべてはキリストである。我々は今見えているすべてのものが影だけですので、完全に体会出来るはずがない。空間や時間、初めから最後まで、キリストは全てである。
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22:14いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
ヨハネの黙示録21:27しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
小羊のいのちの書に名をしるされている者だけが聖の都新エルサレムに入れるが、血の気の庶民は入る事が出来ない。また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
それでは、都の外に何かある?
22:15犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
イザヤ書66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
イザヤ書66:22「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。
「子孫」とは、血の気のある人を示すので、新月ごとに、安息日ごとに、すべての人は主の前に来て礼拝する。礼拝が終わると;
イザヤ書66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
永世に入ると、庶民は礼拝が終われば、ガラスの海に行って、火の池にいる人々のしかばねを見る。
ヨハネの黙示録22:16わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。
マタイによる福音書1:1アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。
聖書の中には、多処にわたって、主イエスはダビデから出ると予言した。
エレミヤ書23:5主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
サムエル記下7:12あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。7:13彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。
上記の聖書の言葉は、神からダビデに約束したことである。「彼はわたしの名のために家を建てる」とは、ソロモン王によって、聖の宮を建てるというが、更に主イエスの甦りによって、主の体で、聖の宮を建てることを指すように見える。「わたしは長くその国の位を堅くしよう」とは、ソロモンには関係なく、主イエスをさすのである。
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ヨハネの黙示録22:17御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
神は言われた;「いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」。兄弟達よ、賞を賜りと罰を下すことも神の正しい裁きによるもので、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。しかし貴方は聖書を本棚におくだけで、ちっとも読まない。どうやって、神之奥義を認識できるのでしょうか?又どうやって、神のいのちの水を受け取るのです?
22:18この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。22:19また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。
神は誰かによって、聖書の内容を書き加えれば、この書に書かれている災害を加えられる。
ある教会で、書き加えた聖書を使用される。聖書の文法をメチャメチャに書き直したが、ただヨハネの黙示録に少しも書き加えることがなかった。なぜかといえば、神は言われた:「の書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。」
22:20これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。22:21主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。
「これらのことをあかしするかた」とは、主イエスである。兄弟達よ、主イエスは、私達の保証人であり、ここにも、もう一度「「しかり、わたしはすぐに来る」と主は仰せになる。そして、下に「主イエスよ、きたりませ」と言われた。
ちょっと検討させていただきます;私達のお祈りの内容が恐らく次のように:主よ、早く来ないで下さい、私にもっと人生を体験させてください;すくなくとも、アメリカのラスベガスにいって、遊んでから、また、ハワイの日光を浴びる事が出来るように、又、アフリカに探検に行かせて、仕事には、病院の係長となって、銀行には置く以上の貯金があるほかに、高級車を保有できるようにさせてから、またきてください。これはに貴方のお祈りだったかもしれない。
願わくは、神よ憐れんでくださって、私の目を覚ませるように残される時間がすこししかないので、もっと主に仕えるように頑張らせてください。更に御霊にしたがって、アメン、主イエスよ、「主イエスよ、きたりませ」。
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