ヨハネの黙示録第21章1節〜27節
21:1わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。21:2また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。21:3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、21:4人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。21:5すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。21:6そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。21:7勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。21:8しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。21:9最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。21:10この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。21:11その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。21:12それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。21:13東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。21:14また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。21:15わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。21:16都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。21:17また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。21:18城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。21:19都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、21:20第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。21:21十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。21:22わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。21:23都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。21:24諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。21:25都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。 21:26人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。21:27しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
ヨハネの黙示録の二十一章と二十二章から、永世について黙示の内容を述べる。神の国度には、苦痛と死亡がありませんが、記載される所が僅かしかなかった。御霊が現世についての記載が多く、アダムとエバが堕ちる時から最後の一週、主イエスの再来に関する記載は聖書の99%を占める。
231
エデンの園の事にもいくつか紹介されたが、当時の人間が罪を犯していないので、簡単に述べればよい。創世記の第一章に関する年数が百年に達する。それにヨハネの黙示録の第二十一章と二十二章に関する内容は神の永遠の世界を述べる。
聖書を読んで、理解できたのは、神は私達に多くの艱難を経験させて頂いたが、自分の生命に豊富を満ちた。多くの挑戦に面したが、更に多い貴重な人生経験を獲得できた。
永世の世界に入ったら、挑戦がないので、勝利を得る経験がもらえないため、書く所がありません。すべてのことも順風万兆である。それは一つ完璧な世界と言えよう。しかし現世において、失敗や苦痛の体験をしたことがなければ、神からの恵みの大きさを理解するわけができないし、神の憐れみと慈愛の深さも認識できないであろう。
どうやってこの言葉を理解できる?21:4人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
もし、この世で、ちっとも艱難苦痛を体験したことがなければ、神から賜って下さる恵みの大きさを知らないでしょう?
ヨハネの黙示録を読んでから、先ずお聞きしたいですが、永世の時に神はどこにいますか?
21:3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
上記の聖書を読めば、永世では、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして。
この聖書の言葉の始まりから何を言うのですか?「御座から大きな声が叫ぶのを聞いた」。兄弟達;御座は宇宙において、最高な権力所在であり、御座で決めれば、必ず成る。御座から出て着る声は宇宙最大奥密の黙示で、誰も勝手に憶測や変更すべきではない。この声は「大きな声が叫んだ」。「御座から」出てきたのです。しかし全世界の教会がその声を聞いたでしょうか?誰か聞いた?今全世界の教会でも人が死んでから、天国に行くと思っているであろう。もしそうでしたら、「御座から大きな声が叫ぶのを聞いた」と言えるでしょうか?周りの兄弟姉妹に聴いて下さい?この言葉に対する認識があるかないか?確かめて下さい。
牧師でも伝道者でも分からない。特に神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、についても全く知らない。
初めから最後まで、神の計画が人と共に住みである。千年の国の時、神の御座は地上にいまし、永世でも神の御座は依然として、地上にいましである。
二番目の問題;永世に入ってから死亡が有りますか?
21:4人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
232
しかし千年の国で死亡がありませんか?
ヨハネの黙示録20:7千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。20:8そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。20:9彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
上記の聖書によると千年の国の後、もう一つ大きな戦いが有ります。では死はいつからなくなるでしょうか?
20:14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
サタンが千年の国の後、火の池に投げ込まれ、それに引き続き死も黄泉も火の池に投げ込まれた。これで、死が終焉を迎えることになる。
それでは、サタンは今どこにいますか?依然この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊。(エペソ人への手紙2;2)
主は再来の時、ミレリアムの始まり、サタンが底知らぬ穴に千年の閉じされるようになる。
ヨハネの黙示録20:1またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。20:2彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、20:3そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。
20:7千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。20:8そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。20:9彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。20:10そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
大災難が来る時に、暗闇の勢力が最も強いであろう。サタンの働きと敵キリストとの働きがあって、地上に盛んに運行する。又、一旦底知れぬ所に投げ込み、千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。しかし神はサタンの再犯罪を予知し、この時期にサタンを第二次の死の火の池に投げ込んで、永遠に出られる事が出来ない。
これらは聖書の中において、非常に重要な観念である。サタンが火の池に投げ込まれてから、死と黄門も火の池に投げ込み、地上には死がなくなる。先ほど千年の期間が終わってから、白い座はさばきを行う時に、死と黄門も火の池に投げ込み裁かれました。
死と黄門が非常に汚いもので、現世の力が権勢があるが、最終的に神はそれを裁いて、火の池に投げ込むことになる。
233
引き続き;ヨハネの黙示録の二十一章にある新婦が見えました。それはキリストの新婦で、「羊の妻」であり、即ち聖の都新エルサレムである。都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった(二千五百キロメートルであった)。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。御使いは人間と同じ様に高さい、御使いの寸法は人間の寸法であるが、御使いが霊であって、色んなかたちを変えられる。都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。直線二千五百キロメートルとは、中国全土の三分の二ぐらいの大きさで、これは永世にある聖都新エルサレムの面積である。
長さと幅と高さは、それぞれ二千五百キロメートルがあり、都の壁の高さは百四十四キュビトであった。1キュビト=45cmで、百四十四キュビトは約65メートルの高さがあって、非常に高い壁で、今の建物でいえば、約十五階の建物である。歴史を見渡しても稀である。でも都の壁は65メートルの高さがあるが、なぜ都全部の高さは二千五百キロメートルもあったのでしょうか?そうですが、都全部の高さは都の中に最も高い所を計算したのです。今全世界の中東にあるドパイ国家に建てられる地球最高な建物も162階建て、828メートルがあるが、高さ2500キロメートルの高さは人間の技術で建てられるものではない。ここで、貴方に聖書のの栄光をお見せするだけで、新しい天と新しい地には、こんなに大きな都があるが、それは天から降りてくるのです。
と言うことで、将来の新しい天と新しい地は、地球より遥かに大きいのです。今のエルサレムと将来の新エルサレムと比べて見て下さい。想像だけで、将来の神の国度はどれほど大きいであろう。今のエルサレムは只イスラエルの聖都だけである。
神の国度では、最高な統治者はかみであり、引き続きの統治階層が勝利を得る者であって、神とキリストの祭司であり、宇宙で最高な統治階層である。それに続き、救いえお得られた聖徒で、全部聖都新エルサレムの中に居る。聖書はどんな人間であれば、聖都新エルサレムに入れると言われたでしょうか?
ヨハネの黙示録21:27しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
というので、自分を過小評価しないように、主イエスを信じて阿、パプテスマをうけてから、将来の地位がどんなに偉いかと思いませんか?
234
では、聖徒から次の統治階層はイスラエルである。主イエス・キリストはオリブ山に降りる時、地上に生きるイスラエル人である。主イエス・キリストは敵キリストを消滅してから、イスラエル人が救われた。そして、貴方は誰ですか?と主に尋ねた。主は手にある釘付けの跡をイスラエル人にお見せして、イスラエル人がやっと主イエスは神の子であると信じた。それで、イスラエル人が悔い改めたが、神の生命を得られなかった。彼らは神の選民であって、神の国度で、もろもろの国の中にトップとして臨みます。
永世での宇宙統治階級は、次の通りに、最高な神と主イエスであり、次は勝利を得るもので、その次に、救いを得る者であり、勝利を得る者と救いを得る者とは神の生命が有ります。引き続き、地上のもろもろの国のトップであるイスラエルである。
私達は聖書で、永世にあるイスラエルについての説明を見て見ましょう。
ゼカリヤ書14:16エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
神は言われた;将来もろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
14:17地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。14:18エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。
イスラエルに上らない者の上には、雨が降らない。宇宙敬拝の中心はイスラエルであり、地上のもろもろの王がイスラエルを頼りにし、イスラエルは地上のもろもろのトップとなれ、超大国となる。イスラエルの都新エルサレムは、羊の新婦で、神の宮である。そして、御使いはそんな地位になるでしょうか?御使いは神の生命がないので、「使い」とは、僕を意味し、特別な存在で、イスラエルと神の子供の間に置かれる。
では、御使いは一体何の階級ですか?神の子供の僕である。新しい天と新しい地の前にある私達の世代と私達の前では、(即ち創世記前の世代)御使いが権勢を持つ宇宙の管理階層であるが、この御使いの統治階層は、摂政の王といえるが、子供だった私達がまだ子供でしたので、暫く御使いに管理が任される。子供が成長し、管理政権を成長した子らに引き渡し、御使いが元の僕の身元を回復し、家政婦のようです。
235
もろもろの国のトップイスラエルの次は、地上のもろもろの国の王であり、その次大臣ら、総督、県市長など、最後庶民まで続きます。今の我々は、神、勝利を得る者と救いを得る者の聖徒によって、黄金グループを形成されたが、その黄金グループの内にもう一つプナチナグループが有ります。即ち勝利を得るものの地位である。誰か黄金グループに入れればよかろうと言いましたが、まあ確かに悪くはないが、このプナチナグループに入らなければ、黄金グループに入る前に、火の池に千年も入れられるかもしれない。出てきたら、黄金グループに入れる。今主イエス・キリストを信ずるものであれば、生命冊に分がある。パプテスマを受ける時、牧師は貴方に聞きました;貴方は主イエス・キリストを信じますか?自分が罪人を認めますか?多くの人の前で、宣告します。そして、牧師はイエス・キリストの御名によって、貴方を聖の父、聖の子、聖霊の霊に洗礼し、神の家に入れてった。一旦洗礼すると、貴方を黄金グループに入ってしまった。
クリスチャンにとって、黄金グループに行きたくても行きたくなくても,いずれ行かなければならない。子供として、親の教えに耳を傾けなければならないが、間違いを犯すと、しつけを受けてから教えを守る必要が有ります。
プラチナグループに入れる子供であれば、おとなしい子供といえよう。しつける必要がなく、黄金グループにいる子供がおとなしくないので、火の池で、罰を受けなければならない。
お食事する時に、座って食べなさいと言われても、立って食べる性格を持つが、火の池に千年もいると、幾ら強がりの性格でもおとなしくなるであろう?摂氏一万度の高温で、日昼間に続き、夜も焼かれ千年も続くと、何もかもの執拗も飛んでしまう。それで、間違いなく黄金グループに入れる。
ヨハネの黙示録の主題にもどりましょう;新しい天と新しい地で、地上の列国の王がイスラエルの外側にある。その時に国連の様な組織があって、王のクラブと言い、すべての王が此処に集まることになる。地の諸族の王、毎年、王なる万軍の主を拝むために、新エルサレムにくる、諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
イエス・キリストを信して、永遠の命を授かると言う意味は何でしょうか?消極的に言えば、永遠の裁き火の池から離れる。積極的に言えば、神の生命を得られる。創造の神以外、神の国度で、最高の階級が、神とキリストの祭司であることです、
236
20:6この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
「神とキリストとの祭司となり」 「キリストと共に千年の間、支配する。」これだけかいただけなんですが、どんなに期待されると心は膨らんでいる。ということによって、永世にはいり、地上の列王が、プラチナグループから遠く離れて入れ、もろもろの国のトップイスラエルの国民にも劣るのです。どんな人が最も地位のないでしょうか?ビル内で、警備を担当する人であるが、しかしイスラエルの入国玄関入る際でも、警備の顔色をうかがう必要が有ります。他の地上のもろもろの王であっても、唯イスラエルの周辺に過ぎない小さい領袖だけです。
でも地上の王として、どうれぐらい国民を治めるでしょうか?永世にはいって、人間が永遠に不死身なので、子孫繁殖も続いて、今と同じ6000年の計算をすると、今2010年約68億人口がいるが、少なく見積もっても6000億となるでしょう?想像してください、今世界最多人口の国は中国の14億人であるが、今の世界には、約200け国があって、6000億人を200け国引けば、平均1け国が30億人口血もいる、想像するだけで、ぞっとするでしょう。その時の王が凄いだろう。
そして、永世で王と成れば、永遠に王として続くが、その時になると、貴方が持つ地位こそ、本当に貴方のものとなる。今の世界のように、今日はお金持ちでも明日になると、貧乏人となると言う事にならない。なぜ頑張らなければならないわけがご存じだったでしょうか?
ヨハネの黙示録1:3この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
昔上記の聖書の言葉を読んで、なぜこの預言の言葉を朗読する者は、さいわいだと言う意味を知らなかった。通常、これを聞いてその中に書かれていることを守る者たちとは幸いであると思った。でもこの預言の言葉を朗読する者は、さいわいであるーこれは何を語るでしょうか?兄弟達よヨハネの黙示録を読んだ人であれば、恐らく勝利を得る者となるであろう。しかしもし集中力がなくて、しっかり耳を傾けなければ、成らないだろう。
もし真面目にヨハネの黙示録を読んで、獣と言うことうを知れば、獣の印を押されれば永遠に穂の中に入れられれば、どうなる分かるはずなので、敢えて獣の印を受け入れられないでしょう。
237
大災難の中にクリスチャンとして、獣の印を押されなければ、必ず勝利を得るものとなる;
ヨハネの黙示録20:4また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
この 「また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。」これらの人と前の「また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり」すべて大災難の時に試練を受けて、合格できたと述べている。
勝利を得る者はプラチナグループの中にも異なりがある;大災難の前に、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるの外に、大災難に残されるクリスチャンは獣と獣の像にであうことになるが、ヨハネの黙示録をよんだことによって、神の戒めを忠実に守って、獣と獣の像を拝む事にならないであろう。
もし大災難の前に生きながら引き揚げれられれば、獣の像を拝む問題がなかろうが。どうした地上の試練には50分以上の追試標準が有るのでしょうか?この制度は聖書から述べてある。
と言うことで、これらの追試試練を受ける聖徒も、勝利を得る行列に入るのを許される。しかしいちいち延び延びを得るほど、やっと入ることができて、三年半の大災難の苦しみがかし物凄いし、とても凶暴なのです。今日はヨハネの黙示録を読んで、大災難の三年半の中に獣の出現が有るのを知り。もし獣の像を拝んだら、どうなるか知り尽くせば、絶対に拝む事がないであろう。勝利を得る者となれる。
こちらは重大なできごと中の重大なできごとです;だから男兄弟たちは、勝たなければいけなくて、勝利して、栄光を得る。以上の様に一つ一つずつ統合し、整理をすれば、神の永世にある全体青写真を理解できるようになるだろう。同時に神は「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、聖都新エルサレムに住みである。
ペテロの第一の手紙2:5この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
また:
エペソ人への手紙2:20またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。2:21このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、2:22そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。
聖書による、「あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ」御霊がその上に住みであるので、私達は霊なる神のすまいとなるのである。私達は聖都新エルサレムであり、羊の新婦である。
だから永世で聖都は神の住み所であって、神は聖都新エルサレムに住むことになる。
238
私達は常にマイホームを高く建って、VIEWが有った方がよいと言いますが、聖の都の高さは最高なところに二千五百キロメートルもあって、今の地上の建物中に、比べられる建物が有りません。
兄弟達、ちょっと位、あの時の栄光を想像してください。あれは永世の栄光である。ここで、福音を述べ伝える人を軽く見ないでください、早めに神を認識させたいと思い、これより重要な事があるわけがない。神を認識する以外に、すべて空のから、空の空である。
人にはお金があれば、福音を述べ伝えても中々信じてもらえないが、人間よ、ちょっとだけお金があれば、鼻が高く、傲慢になって、福音を述べ伝えても聞いてくれそうもなく、もしかしたら、軽く見られるかもしれない。ですので、人が失敗すれば、謙虚になって、福音を受け入れやすくなって、永遠の命を得られる。
それでは新しい天と新しい地は何時頃から始まるのでしょうか?千年の国が過ぎて、白い御座のさばきの後、新しい天と新しい地が始まる。
神の裁きを二つに分けれれ、一つは主イエスが再来の時に神家の裁きである。これは神の家の人を裁くことで、クリスチャンとユダヤ教徒への裁きで、異邦の民の裁きより千年も早い。失敗のクリスチャンは千年の間も火の池や暗闇に入れられ、勝利を得る聖徒が直接、神の国にある千年の国にはいることになる。又此処にある裁きについても、千年の国の前に地上に生きるもろもろの民である。あの大災難の時、迫害されるクリスチャンうを助ける羊が、永世にはいって、もろもろの国の庶民となる。獣の像やクリスチャンを迫害した山羊が火の池に投げ込まれ、永遠の苦痛の火の池に居ることになる。この部分の裁きの内容は、マタイによる福音書二十五章に記載されている。
もう一つの裁きが有ります。千年の期間が過ぎ、白い御座の裁きである。これは、千年前にある神の家の裁きの時に、勝利を得る者が出来なかったクリスチャン及び、不信の悪を持つ現世の異邦の民の為、この時、すべて死んだ人が火の池の中から出てきて、神の前で裁きを受ける。死人はそのしわざに応じ、このいのちの書に書かれていることにしたがって、さばかれた、このいのちの書に名がしるされていない者はみな、永遠の火の池に投げ込まれた。というので、イエスをしんずるか?しないか?月とすっぽんの差が有ります。
もっと詳しく説明すると、三年半の大災難の中で、引き上げられる勝利を得る者以外にも、現世で主イエスを信じてから、恵みの福音を受け入れた聖徒が、死んでから、陰府に行って、そこで寝て、主イエスの再来を待って、千年の国の前に行う裁きを受ける。
そして、現世で主イエスを新していないものであれば、死んでから、すぎでも黄門の火の池に入れられ、永遠に焼かれるようになる。
239
黄門の火の池のスケールは小さなもので、永世の火の池のスケールが大きいので、入れられれば、永遠の苦痛を受けることになる。イエス・キリストを信じていない人は、一旦肉体が死亡したら、すべて終わってしまい、唯火の池に入るしかなかった。その苦しみが永遠になる。人は死ぬと霊魂がすぐ捕まえられて、火の池に投げ込まれ、金持とラザロの証し;
ルカによる福音書16:22この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。16:23そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。16:24そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
このお金持ちがこの火炎の中で苦しみもだえています。主イエスは再来の時でも、火の池に苦痛を受けている。千年の期間が過ぎて、白い御座の裁きを受けて、火の海に永遠に火炎の中で苦しみもだえています
兄弟達;イエスを信じてから、勝利者や失敗者に関わらずに、現世で死んでから陰府に下る。主の再来を待って、すべて死んだクリスチャンや救いを受け入れるクリスチャンは陰府から出て裁きを受ける。勝利を得る者が、千年の国に入って、賞を賜ってくださって、永遠に王となるが、失敗者が暗闇や火の池に入れられ、そこで、歯を食いしばって、泣く。千年の期が過ぎ、白い御座の裁きで、すべて火の池に居る聖徒及び異邦の民が出てきて、神の前で裁きを受ける事になる。
火の池から出てくる聖徒と異邦の民の行いが好くないので、白い御座の裁きの時に、二冊の本を根拠にし、一冊は行為を記載する本で、もう一冊は生命冊である。いか誰にも裁きを受ける時に、自分の行為によって、義となる事が出来ない。御使いはさばきによって、刑を行い、罪人を火の池に入れるーしかしすべての人が罪人である。しかし火の池に投げ込まれる前に、生命冊の上に、この罪人の名前が有るかないかを調べられるが、もしあれば、救いを受け入れたので、御使いは彼を火の池の辺からすくいあがる。だから失敗のクリスチャンが千年の火の池を経て、神の国度に入る=聖の都新エルサレムである。
生命冊に名前の記載があれば、神の国度聖の都新エルサレムに入る。
21:27しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
では、地上の王が聖の都新エルサレムに入れますか?いいえ入れない、いのちの冊に彼の名前がなかったからである。
240
聖の都は聖徒及び救いを受ける者しか入れない。我々は常にどこに住んでますか?と聞かれる事が有ります。その都度に渋谷区、世田谷区と言えば、いい所ですねと慕われる。神の国度で、どこに住んでいますか?と聞かれて、聖の都と答えれば、更に慕われるであろう。非常に光栄に満ちることです。
早い内にクリスチャンとなれば、更に多くの事を体得する事が出来る。今の社会では、名刺交換がルールですが、大企業の名刺を出せば、羨ましいと思われるであろうが。永世の世界では我々の名刺の上に、聖の都新エルサレムがいんさつされて、相手がそれをみるとびっくりするでしょう、だって、地上の王さえ入る資格もない所です。
永世も地上の庶民は、即ち異邦の民が血の気に属するもので、永遠に子孫繁殖し、死ぬことがないので、人口が絶えず二成長するが、新エルサレムの中にある人口が増加する事がない。神の生命を得られる私達は、霊に属するので、死ぬことがないし、子供も産まない。
マタイによる福音書22:30復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
上記の聖書の言うように、聖書も
ローマ人への手紙11:25兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
異邦人が全部救われるに至る時まで;永世まで聖の都新エルサレムに住む人の数がきまっているし、増加する事がなく、減ることもないのです。永世の中に聖徒が死ぬことはないだけではなく、聖の都新エルサレムの外側にいる庶民も、新しい天と新しいちでも、死ぬことがない。だから毎年地上の人口増加の速度が速く、有る程度の大きな国となれば、又更に多くの国に分けられ、千国や万国となる。その時になると、聖の都新エルサレムは益々貴重となる。
過ぎたら間に合わなくなる。永世に入ると、常に庶民の惜しい声が聞こえそうになるだろう。もし当時、イエス・キリストを信じたら、よかったのに、なぜ信じていなかったと悔しみ言うのであろう。なぜ彼らはそんなに悔しみだったのですか?彼らは最後の一週の時に羊で、クリスチャンを助けたため、永世の庶民として、神の国度に入れた。彼らは主イエス・キリストの名前を聞いたことが有るが、信じなかった。御使いは永遠の福音を述べ伝える前に、主イエスの救いを受け入れなかった。
241
神は恐らく永世にある人類の祖先として、地上に数億人を残すであろう。この祖先達も常に自分のふがいなさを子孫らに、述べるでしょう;当時イエス・キリストを信じていなかったので、神の生命をえられなかった。もし信じていれば、今も聖の都にすめるであろう。永世の中で、一般の人類が悔しければ、火の海に投げ込まれる人であれば、もっと悔しいでしょう。
聖の都に居る人が如何なものでしょうか?勿論悔しい。真に神からの賜りものは、神と羊前の祭司である。神と羊の祭司とは、現世で何をイメージにすれば宜しいか?牧師は将来、神と羊の祭司を例えにし、すべて創造される物の中に最も貴いのである。聖の都新エルサレムの中にいるすべての人が救われるもので、言い換えれば、神の子であり、それでは、我々に奉仕するる僕は誰ですか?御使いである。
ヘブル人への手紙1:14御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。
21:1わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
新しい天と新しい地となると、海もなくなる。今の地球のには、70%の面積は海で、30%は陸地である。30%の間に平原がどれ位閉められる?台湾のような小さなのに、山は五分の四を占め、平原は只五分の一だけである。全世界の平原は約地球総面積の30%を占め、この30%の平原に半分が砂漠で、後の半分だけ人間の住める環境となるが、しかしこの中にある湿地、雨林、沼を引くと、10%に足らずに、大凡5%しかなく、この5%の土地に今約六十数億の人間が住んでいる。
聖の都新エルサレムが降りてきて、海もなくなり、全部の土地が住めるようになり、その時、どれ位人が住めるでしょう。21:4で言う;死もなく、人口が延々と続き繁殖されて、地球の人口が想像もつかないほど増える。
242
神は万物を創造してから、人間が地上で、大きな罪を犯したため、洪水で人間を沈めた。創世記六〜9章にあるノアの箱舟についての記載があり、ノア箱舟の中にまたすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。6:20すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。6:21また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。
その時、箱舟に残される生き物以外に神は想像した六つの生き物の中に魚類以外、鳥類、野獣類、這うものも、家畜類、人類もすべて死んでしまったが。聖書は一つ凄い言葉を述べた:すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。
創世記7:21地の上に動くすべて肉なるものは、鳥も家畜も獣も、地に群がるすべての這うものも、すべての人もみな滅びた。7:22すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。7:23地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。
神の言葉によって、すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。唯魚類だけ生き残った。魚類は鼻で、命の息をするではなく、鰓が呼吸する。
鳥の亀をご存じでしょうか?私は高い鳥の亀を飼った経験がある。数万円で買ったが、旨く飼えなくて、死なせた。鳥の亀って亀の一種類と思って、水に入れておけばよろうとおもったが、その動きを見ながら楽しんでいた。しかし鳥の亀が水の中に暫くすると、水の中から這って上がって、再度水の中に戻りましたが、繰り返しながら、最後、疲れきって死んでしまった。後になって分かったのだから、鳥の亀に呼吸が必要であった。と言うことで、ノアの箱舟の時に、鳥の亀や両生類動物で、全部死んだ。
創世記7:10こうして七日の後、洪水が地に起った。7:11それはノアの六百歳の二月十七日であって、その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、 7:12雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。7:13その同じ日に、ノアと、ノアの子セム、ハム、ヤペテと、ノアの妻と、その子らの三人の妻とは共に箱舟にはいった。7:14またすべての種類の獣も、すべての種類の家畜も、地のすべての種類の這うものも、すべての種類の鳥も、すべての翼あるものも、皆はいった。7:15すなわち命の息のあるすべての肉なるものが、二つずつノアのもとにきて、箱舟にはいった。7:16そのはいったものは、すべて肉なるものの雄と雌とであって、神が彼に命じられたようにはいった。そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。7:17洪水は四十日のあいだ地上にあった。水が増して箱舟を浮べたので、箱舟は地から高く上がった。7:18また水がみなぎり、地に増したので、箱舟は水のおもてに漂った。 7:19水はまた、ますます地にみなぎり、天の下の高い山々は皆おおわれた。7:20水はその上、さらに十五キュビトみなぎって、山々は全くおおわれた。
水の勢いが天の下の高い山々は皆おおわれた。水はその上、さらに十五キュビトみなぎって、山々は全くおおわれた。当時の水がヒマラヤ山の頂きを275cmも超え、すべて水面の上に上る能力のない生き物が全部死んだ。なわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。しかし神は大洪水の時に魚類だけ残された、なぜなら魚類が永世に入る寸前に海と一緒に消えてしまうのである。もしできれば、主に創造された魚類の為に、一つの水族館を造って下さるようにお願いしましょうか?永世の時に海がないので、魚類がない、今の内に魚を多めに食べて下さい、さもなければ、永世に入れば、魚がなくなる。でもその時に人間や動物が命のある生き物を食べる事がない。
イザヤ書65:21彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。65:22彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである。65:23彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。65:24彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。65:25おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。
243
ヨハネの黙示録21:2また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
聖なる都、新しいエルサレムとは、キリストの新婦である。
創世記2:20それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。2:21そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
神はアダムの為に一人の女を造った。そして人類の終わり頃のアダムーキリストは、彼の新婦がヨハネの黙示録に現れた。エバは教会のことを示し、アダムはキリストを示す。現世の七千年は羊の婚姻と言われ、千年の期の婚姻である。千年の期の婚姻が終わると、新婦は完璧に用意ができて、羊の妻となる。
神は人類の初めから、永世に入るまで、その創造の重点は何でしょうか?なぜ御使いを創造した?悪魔を創造した?又どうして地球を創造した?アダム、エバを創造した?善悪の知識の樹つくって、それを食わせた?すべての創造に置かれる目的はこの地上に新婦を得たいと思うからである。
神はこれらの創造過程の中に、旧の創造の中から、新しい創造を作り出し、自分の生命をこれらの人々に分ける=即ち主である神を信じ、受け入れたい人に神の自分の生命を分けるというのです。神の生命がなければ、神の新婦と成れるでしょうか?人間だって、一匹の猿を嫁にするわけがないのだから。と言う事によって、今は最も重要な事が神の生命を得られるのです。言い換えれば、神によるすべての創造につき、信じる人間に神は自分の生命を賜るのである。
人間は自分によって、生命を得られるわけがない。人間には罪が有って、罪の中にマイナスの生命を体得したため、神の生命こそ―プラスの生命となれる。もし人間が生まれてから、神の生命をすぐでも獲得が出来れば、錦出来るのは、光のあることだけになり、その反対の暗闇を知ることが出来なければ、宜しいでしょうか?学校の先生や家庭の両親は学生や自分の子供に光の事のみ教える、暗闇の事をおしえないでしょうか?これは騙し、あれは、邪悪の事などを教えないでしょうか?教えなければ善と悪の区別ができるでしょうか?
それで。神は人の生命に暗い道、苦痛、涙、病気、涙等を経させて、主イエスの様な模範を見習うことによって、従イエスのように成長させて下さる。そして、貧困、失敗、各種マイナスの試練、この試練の中から、貴方を救う。又人を通じて、福音を述べ伝えることによって、信じるかしなか?自由に選択できるように人間に自由の意思を与え、信ずるひとに神の生命を賜って下さる。
244
神の生命をえられるのは、即ちわたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
ヨハネによる福音書10:10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
私達は救いを受け入れて、洗礼もうけただけではなく、常に教会の集会を参加し、聖書の教えに耳を傾ける。そして、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
エペソ人への手紙4:13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
最後、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。
エペソ人への手紙2:22そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。
これも学校の勉強を同じように苦労しながら、各種の試練や困難をを経歴し、その中で人生の体験試練を受ける。さもなければ、永世にて、王となると、どうやって国を治める?又白と黒も経験していない人であれば、正確な判断も出来ないでしょう?
だから神は私達を各種の環境下において、勉強させて下さる
ローマ人への手紙8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
益となることを得られれば、王と成れる。さもなければどうやっておうとなる?羊の新婦もこのような体験を経て、こられるのです。聖書全部、なぜこんなにアレンジしなければいけないのですか?ヨハネの黙示録で、はっきり言われた;プラチナグループや、黄金グループのような地位に居る貴方だって、栄光に耀くのに、適材適所が必要である。
我々は先に二十一章の後ろにある二節の言葉を見て見ましょう+
21:24諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
21:26人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
「そこに」とは、誰ですか?私達の事である。「地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。」とは、何の意味ですか?例えば;あの時、地上の国は大きな祭典を行う為に、この祝いに、其の他の国家の元首と大臣と知事等を参加するように要請し、多くのVIP列席する中に
245
貴方も参加した。貴方の身分は神の子である為、救いを受けて、神の生命を授かった。
そして、すべてこの祭典に参加する人がお見えになる貴方を見て、立ちあがって迎える。貴方は着席するまで、この場にいるすべての人が座らなかった。
これこそ、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
兄弟達よ;これは貴方が信じている神である主です。ですので、聖書は言われた;貴方は御霊の中にある臨みは;
コリント人への第一の手紙2:9しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
特に祭司となりたい一心の望みは、いかにも計り知れない耀きである。兄弟達;救いを受け入れたため、祭司になれるとは限らない。もし真面目に聖書を読まないで、戒めを守らなく、ピンポンばかりを遊んでいたので、その日になると、悔しい思いをするでしょう?
永世で、祭司と成りたければ、現世で鍛えなければならない。現世で、救いの福音を述べ伝えられて、教会に仕えられれば、永世に入って、祭司になる可能性が有ります。現世で神に仕えなければ、永世で、神に仕えられるはずがない。
現世で神に仕えないで、マナや遊びやピアノや遊びに仕えるばかりで、永世で王となる可能性がありません。なぜなら現世にいる自分の時間を自我の為に使い、世界を一番と翰bが得られたのです。しかし時間を主に仕える人であれば、神の国度で、最高位の統治階層であって、祭司となるのが間違いないのです。
もし神から霊明を賜って下されば、ヨハネの黙示録の二十一章と二十二章の内容を見極めて、栄光とはどんなものでしょうか?
21:8しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
「第二の死」と言う言葉は、聖書に四回も言いました;ヨハネの黙示録二章11節、二十章6節・14節、二十一章8節である。
聖書による教えは、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。第一の死とは、肉体生命の息が止まったことを指す。ですので、我々は一つ間違い観念があるが、即ち、肉体の生命が死んでから、すべてが終わると感違った。第一の死の時の苦痛が僅かの時間だけだが、第二の死であれば、長くてたまらない。永遠に火の池に苦しみを受けるであろう。
21:27しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
上記の聖書によると、永世で誰か聖の都新エルサレムに入れるか?一目瞭然であろう。唯勝利を得るものと救いを得られるものである。救いを得られるものであれば、聖の都新エルサレムに入れる。 「はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」246
21:3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
永世で、神の幕屋はどこにありますか?「神の幕屋が人と共にあり」である。神は引っ越したので、天国に行くとは、意味が有りますか?神は人間世界に引っ越してきたのだから、「
神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして」
21:4人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
我々は今涙が有ります;永世に入れば、涙がなくなる。神は我々の涙をぬぐいとって下さる。
又もはや、死もなく;千年の国には、まだありますが、新しい天と新しい地から死亡がなくなる。
悲しみも、叫びも、痛みもない。すべての苦痛もなくなる。今体に調子がよくないとか、具合が悪いとか悲しまなくても宜しいと思います。肉体生命の時に、この様な体験がなければ、永世で、苦痛と言うことをしるはずがない。現世で、肉体えお通じて、色んな苦痛、病気を体験しても、永世に入れば、いい経験をしたことによって、より貴いとなる。永世に入れば、皆が悩みも悲しみもなく、現世の経験が非常に貴重になる。ですので、主は測って下さる多くの困難環境に置かれても、挫けることなく、困難を能力に変える力があり、智慧に満ちるじんせいになり、主に何もかもご報告し、戒めを守れば、必ずプラスになる。また永世でより輝ける。
247
今、地上で、遭遇した苦痛は私達の霊の生命が更に広くなり、大きくなるため。永世の世界にはいって、苦痛や悲しみを述べれば、経験したことがない人が多いであろう。短い人生の中であっという間に過ぎてしまうー先のものが、すでに過ぎ去ったからである。
21:5すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。
御使いは使徒ヨハネに言われた;書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである。元々使徒ヨハネは此処まで書いたが少し躊躇があるが、御使いは念を押して、書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである。
21:6そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
「アルパ」とは、Alphaで、オメガとはOmegaであり、希臘語の字母には、最初と最後の文字である。即ち、全部22個の希臘語字母を加えて、最初の字母は神で、最後の字母も神の意味である。すべての字がこの22個字母よりつづり出すのです。これらの字母よりつづり出す有意義の文字は神によるものである。
では、神は最初の字母で、最後の字母であり、神は最初で、最後である。今の渡した体は万有に会する認識はこの22個字母よりつづり出すことによるものです。 「アルパ」とは、Alphaで、オメガとはOmegaである。神はすべてを意味する。
当時モーセは、神に御名の呼び方をお聞きしました。彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
出エジプト記3:13モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。3:14神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
神はモーセに答えた;「わたしは、有って有る者」。:『Iam that Iam』私は、有って有る者とは、どんな意味ですか?椅子が必要の場合、私は椅子であり、テーブルが必要な場合、私はテーブルである。
小さい時に『アラビアンナイト』を見ることを最も喜んで、ひとり者が一枚テーブル掛けを獲得し、それを几上に敷いて
248
私は鶏肉を食べたいと言ったが、そして、すぐ鶏が有った。鴨を食べたいといえば、すぐ鴨があった。ミルクを飲みたいと言えば、すぐでもミルクがあった。何を食べたいと思えば、すぐでも食べたいものを目の前に盛り上げてくれる。本当にアラビアンナイがよいと感激した。しかし神はこのストーリの内容より、凄い。「わたしは、有って有る者」。:『Iam that Iam』私は、有って有る者とは、思えば、あり、言えば成る。神はすべてである。
「初めであり終りである」 シエス・キリストは空間のすべてだけではなく、この空間は永世まで続く。初めは基督で、終わりも基督であり、最初から最後までキリストである。私達の主イエスは初めだけではなく、初めの前に既にあり、彼も終わりではなく、永遠と続く。
ヘブル人への手紙7:3彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。
これは神である。
ヨハネによる福音書1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2この言は初めに神と共にあった。
この道は万物を造られる道である。
トヨタ自動車の車は道によって、つくられる物でしょうか?エンジン動力、ハイブリット技術、工程力学など、これが道であり、これらの組み合わせによって、トヨタ自動車の車が造られた。これらものは、初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハネによる福音書1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
これは即ちわたしは、アルパでありオメガであるー神はすべてである。
事実上、私達は見たすべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。貴方の家に有る机やテーブルもそうだった。くれぐれも勝手に言うと思わないでください。これは事実で、非常に重要な認識がいる。
また彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもない。生涯の初めもなく、生命の終りもないとは、何かありますか?勿論有ります;1+1=2、1冊の本+1冊の本=2冊の本。これは何時頃から始まったのですか?いつもそうだった。宇宙を壊しても、1+1=2。初めに言があった。言は神と共にあった;万有引力、慣性定律など、宇宙を壊されても、それら依然存在する。
では、それは何時頃からのですか?彼らは初めがなく、終わりもない。これは神であって、神より大きな存在が有るでしょうか?いいえ、絶対存在していません。神はすべてであり、すべてのものは、これによってできた。できたものの内、一つとしてこれによらないものはなかった。
249
私達にとって、この様な偉大な神であることを獲得できるなんて、本当に形容できることばがありません。神は私達に友達として扱って下さるだけではなく、偉大な神の生命も我々の中に授かって下さって、要するに私達の中に創造者の生命が満ちている。主イエス・キリストを信ずることを軽く見てはいけない。信じ、洗礼を受け、この偉大な神の生命を私達の中に授かって、水と御霊によって、新しく生まれ変わりになる。
ヨハネによる福音書3:4ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。3:5イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
水と霊とから生れてから、ペテロの第一の手紙に入って、
ペテロの第一の手紙2:2今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。
我々は、混じりけのない霊の乳を慕い求めて、神の生命も私達の中にあって、成長していきます。ですので、聖書をよく読まなければならないとは、神の言はれいであって、生命である。
「いのちの水の泉から価なしに飲ませよう」について、喉が渇いてから、水を飲めば、普通ではないか?と思うかもしれないが、現世で喉が渇いたら、飲むことを繰り返しですが、
ヨハネによる福音書4:13イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。4:14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
いくら富豪らには、乾きます。一人がプールの中で乾く為に死んだと言う事を創造しにくいでしょう。お金があっても役に立たない。「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。」貧乏でかわくことではなく、必要であるから。満足すると言うのは何ですか?水一杯が足りない、もう一杯、又一杯、をくれてやれば、もう十分だと言う時に、満足できると言う。しかしお金の儲けで、最初に億万を稼いで、大一杯の水の如くだが、二億、三億に引き続いて、乾きが続いた。それで、もう満足する事を知らない。今の世界では乾く光景に陥る。
ある日、神は来る時に、その生命の水を飲ませて下さる。この水を飲んだ人がその腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。
ヨハネによる福音書7:38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
その腹から生ける水が川となって流れ出てくれば、まだ乾きますか?
女の服と靴は幾ら持っていても何時も一枚足りないような気がする、男は、車も何台があっても常に一台が足りない気がする。マイホームは何軒を買っても小さいと思う。これこそ、乾く。「いのちの水の泉から価なしに飲ませよう」。すべての人はかわくので、この命の水の泉を飲んで、乾くことを知らない。
250
21:7勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
勝利を得る者は、必ず救いを得た聖徒であり、勿論神の子である。
21:8しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。
上記の聖書による教えによって、これらの人間は、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。現世で救いの福音を受けていない人である。
21:9最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
聖書の説明による 「小羊の妻なる花嫁を見せよう」「小羊」は基督である。
21:10この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。21:11その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
聖都エルサレムが、神の栄光のうちに「高価な宝石のようであり、」高価な宝石を見た事が有ります。高価な宝石であれば、より輝き、火の光もより光る。
その光の質や色も絶対同じものではない。神の栄光は「高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。色んな色があり、非常に綺麗で、それは、聖都エルサレムが、神の栄光のように耀く。ですので、聖都エルサレムに住んでいるこそ、栄光である。
251
21:12それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
十二の御使がおりとは、神の家の看守であり、非常に権威のある天使である。古い天と地は天使によって、管理されるが、新しい天と新しい地になってから、神の子らに支配を引き渡す。天使が管理職から退職の後、聖の都新エルサレムの門を看守する。
21:13東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
旧約聖書にある出エジプト記の中に、イスラエル人がエジプトを出てから、幕屋は荒野の前へ進む際に、十二部族が神の箱の周りに東に三つの部族、北に三つの部族、南に三つの部族、西に三つの部族があった。東にユダ部族をトップに、西にイフレンをトップに、北に但部族をトップに、南にルベンをトップにある。
12節と13節の言葉のように、イスラエルの12部族を聖の都新エルサレムの如く、示されている。
21:14また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
都の城壁には主イエスに従った十二使徒の名前であるので、栄光を極める。元々十二使徒の中にユダという使徒がいたが、三十元の為に主を裏切ったので、火の池に入れられる運命であるが、入れられる時に悔しいと思うだろう、ただ30元の為に使徒の名分を捨てました。ということで、都の城壁の十二の土台には、ユヤの名前がなく、代わりに、、マッテヤである。
創世記にあるイサクは小豆のスープの為に、長男の名義を売ってしまった。永世で多くの賜りが現世の判断ミスで、ちょっとぐらい利益の為に、軽く投げ出した人が多いのです。
252
21:15わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。21:16都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。
御使いは言われた;長さ・幅・高さは皆二千五百キロメートルであったが、次に何を言うのですか?
21:17また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。
百四十四キュビトは約65メートルの高さ
長さと幅と高さとは、いずれも同じである。直線二千五百キロメートルとは、中国全土の三分の二ぐらいの大きさで、これは永世にある聖都新エルサレムの面積である。
長さと幅と高さは、それぞれ二千五百キロメートルがあり、都の壁の高さは百四十四キュビトであった。1キュビト=45cmで、百四十四キュビトは約65メートルの高さがあって、非常に高い壁で、今の建物でいえば、約十五階の建物である。歴史を見渡しても稀である。でも都の壁は65メートルの高さがあるが、なぜ都全部の高さは二千五百キロメートルもあったのでしょうか?そうですが、都全部の高さは都の中に最も高い所を計算したのです。今全世界の中東にあるドパイ国家に建てられる地球最高な建物も162階建て、828メートルがあるが、高さ2500キロメートルの高さは人間の技術で建てられるものではない。ここで、貴方に聖書のの栄光をお見せするだけで、新しい天と新しい地には、こんなに大きな都があるが、それは天から降りてくるのです。
21:18城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。
現世では、一枚小さい碧玉だけで、数千万の価値が有るが、永世で、壁全体は、碧玉で造り上げられるもので、凄すぎる。
都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。
21:19都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、21:20第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
253
私達は城壁が碧玉と見えた。城壁の土台は十二種類の宝石であり、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。と言う事によって、神の栄光は高価な宝石のようであり、聖の都から照らし出す光がどんな色だと想像できるでしょうか?違う角度から見れば、異なる色が見える;赤、青、紫、黄色い、オレンジ色、緑など、各角度から異なる色を反映するので、あの全体の光の風采がとても栄光に耀く。又幅と長さも各二千五百キロもあってとてつもなく大きな都で、永世で、あの様な栄光を持って、引き続き発光して照らすのである。
21:21十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。
城壁は、百四十四キュビトであった。都の門がどれほど大きい?十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られる。今の真珠は、mmで計算されるが、神の国度で、メートルで計算する。本当にとてつもなく大きな真珠で、人が真珠の門から出入りする。
真珠とは、クリスチャンの苦しみを受けると示すが、十二個真珠は非常に綺麗でかつ白いし、又綺麗な光澤があって、聖の都新エルサレムの門である。
21:22わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。21:23都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。
都は、神の栄光が都を明るくし、日や月がそれを照す必要がなくなる。将来、神の栄光が宇宙を明るくし、聖の都新エルサレムから照らしだし、小羊が都のあかりだからである。
21:24諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
神の光は太陽より強い射しでも、熱くも寒くもなく、涙も、苦痛も悲しみもなくなったので、よかったと思いませんか?引き続きのべるのは、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。諸国民は都の光の中を歩き、当然のように、地上の将軍や大臣や、富豪も自分たちの光栄をそこに携えて来る。宇宙にあるすべての光栄は聖の都に集まって来るので、非常に栄光である。
21:25都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。
それから、夜がなくなり、永遠になくなるのです。
254
21:26人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
地の王たちも、諸国民も自分たちの光栄をそこに携えて来る。
21:27しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。
永世では、現世で救いを受ける人だけ、聖の都新エルサレムに入れる。二十一章にある内容は、永世に入る基本の説明であるが、次にある二十二章による内容は永遠に引き続くことになる。
255