第20章 1節〜15節
20:1またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。20:2彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、20:3そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。20:4また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。20:5(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。20:6この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。20:7千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。20:8そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。20:9彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。20:10そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。20:11また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。20:12また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。20:13海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。20:14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 20:15このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
ヨハネの黙示録十九章では、既にハルマゲドン戦争と主の再来について、語られた。ハルマゲドン戦争で、神はすぐさまサタンを裁いて、底知れる穴に閉じられた。サタンが永遠の火の池に入れられる前に千年の間に底知れる穴に閉じ込む。
20:1またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。20:2彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
上記の聖書によって、底知れぬ所のさばきが有期刑罰である。なぜこの時期に神はサタンを千年の間に底知れぬ所に閉じこむのでしょうか?暫くサタンを必要としないからである。
この千年とはミレリアムで、勝利を得る者と主イエスとは、一緒に王となって、地上にも肉体の人がいて、羊として選ばれた人が、永世にはいって、庶民となる。もしサタンがこの千年の間に昔と同じ様に不従順の子らの中に今も働いている霊がいれば、ミレリアムと言えるでしょうか?
エペソ人への手紙2:2かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
不従順の子らの中に今も働いている霊が働けば、人間の間に恨みがあふれて、悪行を行うと、ミレリアムとなくなるのではないか?
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ミレリアムになると、一つ非常に大きな変化が有ります。それは旧約聖書:
イザヤ書65:25おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。
その時になると確かに面白くなる。ペットを飼うと言えば、もう猫を飼う気にならないでしょう、大きな猫―虎のこと、小さい虎の時から大きな虎まで飼って、もしかしたら、虎に乗れるかもしれない。その時の動物が草しか喰らわない。ミレリアムで、容易に死ねないし、百歳に死ぬとは;
イザヤ書65:20わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。
だから御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、ミレリアムの後に、もう一度、神はサタンを使用する。
20:3そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。
ハルマゲドン戦争が終結し、神の家の審判も完了され、勝利を得る者が主と共に王となって、失敗の聖徒も火の池や暗い穴にいれられたが、地上にもろもろの国が存在されていますか?勿論ありますが、そうでなければ、サタンを防ぐ必要がないでしょう。
ここを解釈するのは非常に難しいところであるが、聖書の中に唯1、2け所しか言及されていない。
マタイによる福音書24:1イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。24:2そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
上記の聖書は宮の建物が壊されるよげんであった。
マタイによる福音書24:3またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。24:4そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。24:5多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。24:6また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。24:7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。24:8しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。24:9そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
上記の聖書は、主イエスが再来の前兆を述べる。すべてこれらは産みの苦しみの初めであるが、その時人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
マタイによる福音書24:10そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。24:11また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。 24:12また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。24:13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。24:15預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、 24:16そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。24:17屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。 24:18畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。24:19その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
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上記の聖書では、10〜12節は、クリスチャンが迫害され、15〜19節が、ユダヤ教徒が迫害を受ける、即ち最後の一週の最後の三年半の光景であると述べる。
マタイによる福音書24:20あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。24:21その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。24:22もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。24:23そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。24:24にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。24:25見よ、あなたがたに前もって言っておく。24:26だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。24:27ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。 24:28死体のあるところには、はげたかが集まるものである。24:29しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。24:30そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。24:31また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
上記の聖書による内容は、ハルマゲドン戦争と主の再来のことを述べる。
マタイによる福音書24:32いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。24:33そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。24:34よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。24:35天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。24:36その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。24:37人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。24:38すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。24:39そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。24:40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。24:41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。24:42だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。24:43このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。24:44だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
上記の聖書によって、教えて下さるのは、目をさましていなさい、いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。即ちイスラエルの国が再建される時に、主も近づきます。
そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
マルコによる福音書11:12翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。11:13そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。11:14そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
そして、翌日、この葉の茂ったいちじくの木が死んでしまった。
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イスラエルはこの呪いを受けられてから、実を結ばなくなり、根も枯れて死んだ。そしてマタイによる福音書では、イスラエルの国が再建されるーマタイによる福音書24:32いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
マタイによる福音書24:45主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。24:46主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。24:47よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。 24:48もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、24:49その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、 24:50その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、24:51彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
上記の聖書は、主は再来の前にクリスチャンの心の準備とどうやって、忠実な思慮深い僕となるかと語られる。
引き続き25:1そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。これは、既に肉体生命がなくなり、主の中に寝ている聖徒への審判を述べる。
また神から与えられる才能による裁くを受けられると述べる25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。
更に25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
引き続き32節から46節までもろもろの民が集まって、主の前に裁きを受けさせられ、羊や山羊に分けられる。―この時期に主は既に再来される。ここにあるもろもろの民への裁きについて、どういうことでしょう?クリスチャンに対する裁きが主の再来の前で行うか?それとも再来の後でおこなうか?
ヨハネの黙示録19:14そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。19:15その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
上記の聖書は主イエスは降りようとする時、ハルマゲドン戦争始めようとするときだった。天の軍勢とは;下記の聖書にある勝利を得る者による聖徒たちの正しい行いである
19:8彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
我は常に繰り返して言いますが、信仰によって義を得る;ただで下さる救いの恵みであるが、勝利を得たければ、正しい行いが必要で、代価を払う覚悟もなければならない。ヨハネの黙示録十九章によると、天の軍勢(勝利を得る者)が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、主に従った。ここから考えれば、既に神の家のさばきが完了し、即ちハルマゲドン戦争の前である。
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この戦争は終結し、地上にあるもろもろの国の武力が消滅されてしまい、残られるのが抵抗力のないもろもろの民であり、主は御座の前でもろもろの民を裁く。このもろもろの民には、羊と山羊があるが、一人のクリスチャンもいませんでした。クリスチャンの裁きが終了し、勝利を得る者が既に取り去られ、失敗のクリスチャンも火の池に投げ込まれてしまった。だから
マタイによる福音書25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
よく読んでみると主は羊に何を言われたのですか?
25:35あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、25:36裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
引き続き、羊が答えた;
25:37そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。25:38いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。25:39また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
この羊と山羊の信仰に関することを何一つも言及しなかった。提起されたのは、クリスチャンを助けたことしまなかった。大災難の中に、クリスチャンを恨んで、迫害するのが山羊であり、助けたのが、羊であった。
なぜクリスチャンは裸まで迫害されるでしょうか?歴史が有って以来、迫害によっ裸をさせられるクリスチャンが滅多になかったが、しかしこの大災難の三年半の中に、クリスチャンが裸まで迫害をうけることになる。もろもろの民の迫害を受けているクリスチャンも逃げるしかできなかった。しかしクリスチャンを助ける人がいるので、これらの人が、義の人となられて、即ちマタイによる福音書二十五章の羊である。それで、ヨハネの黙示録の二十章3節の「もろもろの国」とは、大災難の中にクリスチャンを助けた。そしてヨシャパテの谷に主の裁きを受けてから残される義の人である。
ヨエル書3:12もろもろの国民をふるい立たせ、ヨシャパテの谷にのぼらせよ。わたしはそこに座して、周囲のすべての国民をさばく。
神の御座が降り、もろもろの民が二種類に分けられ、羊と山羊である。しかしどっちにしても信仰によるものではない。でも恐らく羊が天使の福音を受け入れた人々だと思い、又獣の印をしるされていないので、永世に入れて、神の庶民として永遠に子孫繁殖ができるように、永遠に生きられる。
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と言う事によって、将来神の国度がとてつもなく大きい。アダムから今まで六千年であり、地上に約六十七億の人口がいる。この六千年の間に数え切れないほど死んだ人がいるが、もし六千年以来、すべての人が死ぬことがなければ、絶えず二子孫繁殖をすれば、今になってどれ位人間がいるだろう。少なくても六千億以上ではないか?多くの人は聖書を読んで、すべてのクリスチャンが主と共に永遠に王となる事を読んで、歴代にわたって、どれ位クリスチャンがいるだろうし、神の国度がどれぐらい大きいかと思いますが、想像して見て下さい;永遠に死ぬことのない世界では、永遠に子孫繁殖をするので、どれぐらい人の数になるだろう。
将来クリスチャンは神から与えられる国度を管理し始める時に、数人からスタートを切るかもしれないが、しかし百年後、千年後の国がどれ位大きな国になるだろう。又クリスチャンとして、神の生命とかたちが満ちて、永遠に王となる。
エペソ人への手紙4:13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
ダニエル書にある四大帝国の金の頭、銀の肩、銅の腰、鉄の足と半鉄半粘土の四大帝国の当時は全世界の大半を治めていたが、既に栄光を極めた。しかし王となった人が短いだろうや長かろうが必ず死ぬことになる。しかし神の国度で、勝利を得る者が永遠に生きて、王となる。四大帝国と言えば、神から見れば、恐らく赤ちゃん帝国というではないか?
その時になると、すべての人が下記のようにとっても悔しく、とらなくても悔しい事になるだろう。
あるストーリによって、旅行ツアがあって、一行が有る山に登ったが、そこにある乾板が建てられ、有る言葉を書かれていた;この山の石をとっても悔しく、とらなくても悔しい事になるだろう。とれば悔しいと言うなら、とらない事に決まった。又取らなければ悔しいと言うなら、少し取りましょうとする人もいた。結局、家に帰って翌日になって、取った石が全部ダイヤモンドに変えてしまった。特に取らない人にとって、もっと悔しいであろう。しかし神の国度に行ける人であれば、同じ様に悔しい思いをする可能性があれば、今から早く頑張ってもよかろうではないか。
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我々も分かるように、ハルマゲドン戦争が終結の後、地上にあるもろもろの民の裁きも終了した時に、この羊が地上にあるもろもろ民となった。ではサタンが千年後、再び底知れぬ穴から上がってきてもろもろの国を惑わすとは、どんな状況でしょうか?先ず
ヨハネの黙示録20:7千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。20:8そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
上記の聖書はミレリアム後のことで、千年後、サタンが再度もろもろの民を惑わすと出てくるが、このもろもろの国がクリスチャンではないと確信できる根拠は;
20:9彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
上記の聖書によって分かるように、ミレリアムから永世入るまで、地上にもろもろの国が存在されていた、彼らは救いを受けていなかった人である。さもなければ、救いを得ていた人が永世にはいり、火の池の裁きを免じ、キリストと共に王となって、もし庶民がいなければ、どうやって王と言える? 若い時にここを読むと、中々理解できないが数十年もあっという間にすぎてしまった。その後、聖書を研究し続けて、やっと神の真理を理解できるようになった。もしこれを理解できなければ、中々理屈に合わないのです。
サタンが底知れぬ穴から釈放されて、再度地上のもろもろの国を惑わし、引き続き神に逆らう。その攻撃のターケットが千年国に入った勝利を得るものである。彼らの住む所は聖徒たちの陣営と愛されていた都と言う所である。先ず前の聖書に一旦戻ります;
20:4また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
上記の聖書には二つの特徴があり、勝利を得る者が大災難の前に取り去られると大災難の最中に勝利を得る者となって、取り去られる。この大災難の時期は最後の一週の後半の三年半で、獣の統治下に落ちて、治められる。
彼らは獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々であった。これらの人が大災難の時に勝利をえるものとなったことを示した。
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クリスチャンとしては、気をつけなければならない;なぜヨハネの黙示録をよまなければならない。
ヨハネの黙示録1:3この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
ヨハネの黙示録を読んだと聞いた事があれば、幸いである。又その中に書かれていることを守る者たちとは、勝利を得るものとなる。なぜならヨハネの黙示録の内容を聞いたから、すべて幸いである。預言したことが始まり、本当に敵キリストが現れて、そして、彼を六六六と呼び、像に人々を拝ませるようにする時に、貴方がこの獣の像を拝めますか?
ヨハネの黙示録14:9ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、14:10神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。14:11その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。
聖書は言われた;おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。もし御霊の言葉に耳を傾けて守れば、最後まで我慢して、勝利を得るものとなれる。いく迫害を受けても、この三年半の苦しみに強く我慢しなければ、獣を拝めば、永遠の火の池に投げ込まれる。
ヨハネの黙示録二十章4節によって、一群れるクリスチャンが三年半の大災難の中や大災難後に勝利を得る者となって、取り去られるのである。「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、」続いて
「また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。」その後言われる;「 彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。」
使徒ヨハネはハルマゲドン戦争の後、もう一つ神の幻を見た;「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。
前に述べた事が有りますが、神の家での裁きが最後の一週の後半であって、主は空に現れる時から始まるのです。だから二十章4節にある内容は神の家にある裁きの最後の段階になる。
前で述べたが、ヨハネの黙示録7:2また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、7:3「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
上記の内容は、取り去られる勝利を得る者をさすもので、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。十四万四千人のイスラエルの十二部族の人と、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大勢のクリスチャンがあった。この大災難の前にある取り去られることによると、神の家の裁きがすでに始まっていた。
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聖書は詳しく教えている;主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
テサロニケ人への第一の手紙4:15わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。4:16すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、4:17それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
このため、六つ目の印をひらいてからヨハネの黙示録の第七章で、御使はわたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印を押す前に眠った聖徒らが先によみがえりし、裁きを受ける。そして、七つ目の印を開く大災難の前に勝利を得る者が取り去られて、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
それに引き続き;地上にある生きる聖徒らが裁きを受ける。同じように、勝利を得る者が雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会うのである。失敗のクリスチャンの場合、勿論言うまでもなく、聖書の教えの通りに火の池に入れられる。
ではヨハネの黙示録二十章四節によると、「かず多くの座があり」「その上に人々がすわっていた」そして、「彼らにさばきの権が与えられていた」―勝利者の中にある勝利者に裁きの権が与えられいた。
マタイによる福音書19:27そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。19:28イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
上記の聖書より分かるように「かず多くの座があり」「その上に人々がすわっていた」そして、「彼らにさばきの権が与えられていた」と言うのは、その中の一部が十二使徒であって、イスラエルの十二の部族を裁く。
その外の座がありませんか?さばきの権が与えられますか?十二使徒は偉かったが、間違いなく勝利者の中にある勝利者となれるが、彼らより偉い人がいるかもしれない:たとえば、アブラハム、モーセ、ダビデ、パウロであり、聖書の教えによって理解できるのです。それ以外に、勝利を得る者も模範、マチンルータ、ニトウセイなど、しかし憶測にすぎないのです。
ですので、ここにあるかず多くの座がありというのは、十二個の座だけではないと思います。下記の聖書を参考にする;
ヨハネの黙示録4:4また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。
4:10二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
上記の二十四の座が投げ出してから、勝利者の中にある勝利者に譲るであろう。
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ヘブル人への手紙2:5いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。
将来神の国で、主イエスと共に王となって、この世界を管理するのは、神の子らである。ですので、この世代が終わりに告げる時に、御使いが冠を投げ出して、神の子らに譲る。同じように裁く権勢も勝利者の中にある勝利者に任されるであろう。
座に座っている裁きの権勢を持つ勝利を得るものだが、誰を裁くのですか?「イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊魂であり」 「また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々の霊魂である」
多くの聖書を解釈する専門家にとって、多くの論議があって、その中に主な言い方が「イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊魂であり」とは、過去歴代から大災難前に引き上げられる勝利を得るものであるのを指すと論ずるが、「また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々の霊魂である」とは、三年半の大災難に落ちて、勝利を得るものと論ずる。
でもよく聖書を読めば、上記の勝利を得るものがすべて最後の一週の大災難に落ちていた聖徒であると分かる。
前で述べたように歴代から最後の一週の大災難前、既に死んだ聖徒と主の再来前まで生きる聖徒とは、七つ目の印を開く前に既に裁かれたので、この「かず多くの座があり」「その上に人々がすわっていた」そして、「彼らにさばきの権が与えられていた」―勝利者の中にある勝利者に裁きの権が与えられいた。こう言う裁きの権が与えられていた勝利者はキリストと共に神の家の裁きに臨むであろう。
最後の一週の大災難に陥る勝利を得る者が現世でクリスチャンとなって、努力が不足の為に、この大災難で、試練を受けなければならない。合格に出来れば、勝利者となる。二十章4節の内容がこの大災難から試練に耐えて通ったものを勝利者となる。その一部は「イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊魂であり」。一部は「また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々の霊魂である」キリストとユダヤ教徒の両方がある。
ここで、一つの答えを得られた;二十章4節にある裁きの相手は、大災難に陥る聖徒の事を指すのである。「イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊魂であり」。「また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々の霊魂である」
注意すべきのことですが、上記の聖徒は、歴代が既に死んだ聖徒と大災難の前に引き上げられる聖徒が含まれていない。
223
20:5(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
兄弟達;上記の聖書が非常に大事ですが、これが第一の復活である。この前に誰一人も甦ることがなかった。
前では述べた事が有ります;神の家の裁きにつき、主は七つ目の印を開く前、空中に降りる時、既に始まっていた。そのまま二十章4節の聖書に突入すると、ハルマゲドン戦争の前に、神の家の裁きの最終段階に入るので、全部の裁きが約三年半に及ぶ。
先に歴代の死んだ聖徒の甦りであって、裁きを受けられ、引き続き、地上に生きる勝利を得る者が引き上げられる。しかしヨハネの黙示録十四章に述べる十四万四千人を神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。即ち;すべての勝利者の中から、最初に甦って引き上げられた者と生きながら引き上げられた者に含まれる。
では「第一の復活」とは、三年半に及ぶカ神の家の裁きの中で、勝利者と認められる聖徒を第一次の復活とされ、失敗者の聖徒の場合が火の池に入れられ、千年後が本当の復活となる。
「第一の復活」の前に、唯イエス・キリストの復活のみとなる:
コリント人への第一の手紙15:23ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、
初穂はキリストであり、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たちである。
コロサイ人への手紙1:18そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
イエス復活の前に、其の他の復活がなかった。上記の聖書の言う通りに、神の家の裁きが始まってから、神の定める通りに順序に復活する。アブラハムも今日まで復活する事が出来なかった神の定めによって、主イエスの再来がなければ、復活が有りえない。
すべての復活の前にイエスのみ、彼は初穂として、神にささげられるのである。
コリント人への第一の手紙15:20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
もし貴方は夢で一つの幻を見た;死んだ両親、夫など、彼らはエルサレムで、アブラハムと一緒にいることを夢見た。勿論夢の内容にもよるが、本当の復活が、聖書の書いた第一次の復活によって、永遠に死ぬことがないのを指すのである。
誰か聞くかもしれないが;ラザレが復活したのではないか?未亡人シュネムの子供が復活したのではないか?第一次の復活によって、永遠に死ぬことがないのを指すのである。甦って、また死んでしまうことについて、本当の復活ではない。
224
20:6この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
兄弟達;祭司と王は一つである。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
神の国度では、地上にも人間世界があって、もろもろの国の王と民があるが、そのもろもろの国の王と民を支配するのが我々で、我々は万国の内にある王である。万国はとてつもなく大きいのですが、もろもろの王が有る。しかし彼らは神の祭司ではなく、唯依然として肉体を持つ人間である。勝利を得るものであれば、先に祭司となって、その後王となるのです。即ち将来では、神の国度で、祭司となるのであれば、必ず王となるが、王となるが祭司となれる保証が有りません。
祭司の定義とは、簡単に説明すると、神に仕える事です。我々はここで何をなさるのですか?祭司の働きをするので、祭司とする。現世の伝道者の働きによっても、自分にはどれほど栄光に耀くとは殆どないのではないか?しかし永世になると、伝道人の栄光がどんなに耀くか想像もつかないほど大きい。
ヨハネの黙示録21:24諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。
諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。聖の宮とは、すべての聖徒の事を指すのである。「都」とは、聖の都―新エルサレムであり、すべてのクリスチャンー勝利えお得るものと救いを受ける者がその中に居る。
聖書ヨハネの黙示録二十章は明白教えて下さったこの第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、1.また聖なる者である。2.彼らは神とキリストとの祭司となり、3.キリストと共に千年の間、支配する。
最も偉い祭司の位置はどこにありますか?これこそ、ヤコブとヨハネの母親は主イエスにお願い求めたこと;「貴方の国は降りる時、貴方の右と左に私の子供を座らせるように。これはあんまり大きな冗談ではないか?栄光を極める位置ですよ。
兄弟達よ、私のお話をご理解できるように、なぜなら、私はこの世界の事に関心がないのですか?祭司の幻を見たのです。そして、行動を起こして、代価を払い、この目標を追い求めるのです。
必ず自分は教会の中で幹事の役割を担当する事を軽く見ないでください。それは祭司の役割である。神は正しい行いのかみであるため、地上にいる貴方の教会に対する、真面目な仕えを見て、貴方を祭司とするでしょう。反対に地上に居る時に、自分の働く会社に一所懸命に仕えて、神の教会にちっとも関心がない人に対する、神の正しい裁きも臨むでしょう。
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と言うことで、今日は教会の為に仕えに来る人であれば、神の祭司となるでしょう。新約聖書によるおしえがあって、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、
ペテロの第一の手紙2:9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
「祭司の国」とは、王を意味し、王であって祭司であるが、神の国度で、祭司は最も偉いが、祭司が神の側におる方である。神には最も近いもので、その役割は神と人間の間の事を取り扱う。
ヨハネの黙示録20:10そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
獣は敵キリストであり、にせ預言者はユダで、ハルマゲドン戦争が終わってから、この二人が既に生きながら、火の池に投げ込まれた。サタンについて、御霊の黙示が微妙だった:サタンは千年後、火の池に投げ込まれることになる。ここで、サタンについて、先に底知れる穴に千年も閉じされる;
20:7千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。20:8そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。20:9彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
上記はサタンの結末である。
イザヤ書14:12黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
ヨハネの黙示録二十章になると、サタンが切られて地に倒れてしまった。サタンは火の池に投げ込まれる日で、国々のもろもろの王をその王座から立ちあがらせて言う:
イザヤ書14:9下の陰府はあなたのために動いて、あなたの来るのを迎え、地のもろもろの指導者たちの亡霊をあなたのために起し、国々のもろもろの王をその王座から立ちあがらせる。14:10彼らは皆あなたに告げて言う、『あなたもまたわれわれのように弱くなった、あなたもわれわれと同じようになった』。
上記イザヤ書によるサタンに対する記載が、非常に生きるような動画である言い方で、読んで見て下さい。
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20:11また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
大きな白い御座が出てくると、天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
此処まで読むと、疑問を持つのですが、獣、にせ預言者、サタンも裁かれたが、なぜどこに、あだ裁かれていない人が有るのですか?疑問が解かれた;それは汚れの鬼である。
汚れの鬼とは、前の地球の世界で、生きた人類で、これらの人はサタンに従う為、裁きを受けなければならない。彼らの結末はどうなるでしょうか?
この地球の世界には大きな疑問が有る。現世の人が死ねば、すぐ陰府や黄門に入れば、再び上って来られないなら、なぜ世の中には鬼がいるんでしょうか?実に汚れ鬼が聖書の創世記の前の世界の事を指し、既に前の世界で死んで、海に居る。だから創世記の第二章で、水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ、汚れの鬼が水中から鬼が釈放されてしまったので、神は良しとされていなかった。
創世記位一章1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
下を見れば、分かるようになる;
20:13海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
「死も黄泉もその中にいる死人を出し」とは理解ができるが、なぜ「海はその中にいる死人を出し」とは、海は前の地球の世界から今まで残留されてきたので、白い御座の裁きによって、前の世界への裁きも行わなければならない。即ち現在まで残留される汚れの鬼に対する裁きである。今の人間は霊の世界の事に対し、愚かな想像ばかり先行している。世の中の占い師や口寄せが更に愚かな人を惑わし、お金ばかり儲けようと考えている。だから、信仰のない人であれば、更に霊の世界の事をしらないのです。だから、一の霊魂が死んで、黄門に入って、もう出る事が出来ないのです。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
マタイによる福音書16:18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。16:19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
今まで主イエスのみ陰府に入ってから出られる。それ以外に、誰でも陰府や黄泉に入ってでることができない。
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ところで、陰府から上がってきた人は一人がいる、それはサムエルである。陰府から上がって、サウルを責めの為に神は特別お許しになった。それ以外、ありません。ある兄弟はサムエルの件について、サムエルであるか?ないかを議論するが、聖書を認識し、よく読む人であれば、分かるように、このような例が有りません。人が死んでから、陰府に入って、又あがってくるのが愚かな考えである。なぜ拝む必要がないという?拝んでも拝みを受ける方に行かない。何しろ;
伝道の書9:10すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。
貴方の先祖が黄門に居るから、上って来れないので、どうやって拝むでしょう?拝んでいるのは、前の世界の汚れの鬼のことで、、創世記に記載される海から釈放される邪霊である。
これらの邪霊が常に貴方の心で、働いている;
エペソ人への手紙によるこの世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
ということがあって、口寄せ占い師、悪霊、鬼を飼い、易者のような汚れ霊があって、多くの人を惑わす。これらの汚れの鬼の力は、大きい力や小さな力や人を騙すものもあるが、鬼の力によって様々なのである。
しかしこれらの汚れの鬼が前の世界の死んだひとで、海の中にいる。
ヨハネの黙示録20:14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。20:15このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれてかた、宇宙にもう死亡がなくなる。下の聖書を読みましょう;
ヨハネの黙示録21:4人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
千年国度の時に死亡があるが、その後、死も黄泉も火の池に投げ込まれるから、それに続いて、新しい天と新しい地に入り、神の国度に死亡がなくなります。
ヨハネの黙示録二十章のスケールが広大で、その前後の記載がちっとも漏れることがない。私達のような人間であれば、書けるものではない。又歴史の流れのかわりによって、多くの預言も的中した。いくらでも神の国度がまだだが、神の予定日になれば、間違いなく実現されるであろう。
御霊は僕を通じて、この聖書を書きました。1189章がある。それを読んだ人間が中々覚えられないし、前後の暗記も常に忘れてしまい、又間違い場合も多いが、聖書は違う時代のひとによって、御霊の黙示によって、書かれたもので、間違い所を見つけ出すだけでも、数千年を通じても見つけ出せない。聖書は24%の預言であって、預言が殆ど実現した。まだ実現されていないのは時間尚早であるので、予定時間が来れば、間違いなくびっくりするであろう。
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創世記の作者モーセとヨハネの黙示録の作者使徒ヨハネは1800年の開きが有る人なのに、書いた内容が全く同じことを述べている。これは神しかできない技である。兄弟達、一体神がいますか?もしいなければ、こんななる筈がないではないか?聖書を読めば読むほど益々神を恐れ入ります。
現世で神に努力して仕えるべきであるが、今貴方が働いている仕事には何の栄光があるでしょうか?しかし神に仕えれば、「えらばれた種族、祭司の国、聖なる国民」。だから間に合う内にもっと頑張って主に仕えましょう・
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