第二講義 常にいまし,昔いまし,後に來られる方


聖書ヨハネの黙示録講義ー(上)作者:呉明憲兄弟 




 聖書ヨハネの黙示録講義ー目録


第二講義 常にいまし,昔いまし,後に來られる方
わたしはアルファであり,オメガである.最初であり,最後である.
初めであり,終わりである.」


常にいまし,昔いまし,後に來られる方


ヨハネの黙示録一章4.ヨハネから,アジヤにある七つのヘ會へ.常にいまし,昔いまし,後に來られる方から,また,その御座の前におられる七つの御靈から,5.また,忠實な證人,死者の中から最初によみがえられた方,地上の王たちの支配者であるイエス·キリストから,惠みと平安が,あなたがたにあるように.イエス·キリストは私たちを愛して,その血によって私たちを罪から解き放ち,6.また,私たちを王國とし,ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である.キリストに榮光と力とが,とこしえにあるように.ア―メン.7.見よ,彼が,雲に乘って來られる.すべての目,ことに彼を突き刺した者たちが,彼を見る.地上の諸族はみな,彼のゆえに 嘆く.しかり.ア―メン .8.神である主,常にいまし,昔いまし,後に來られる方,万物の支配者がこう言われる.「わたしはアルファであり,オメガである. 」  

ヨハネの黙示録一章4.ヨハネから,アジヤにある七つのヘ會へ.常にいまし,昔いまし,後に來られる方から,また,その御座の前におられる七つの御靈から,」
 
 第二章と第三章ではこの七つの教会の事を読むことができ、教会それぞれの光景が異なる。兄弟達よイエス・キリストの真理を述べ伝えるのは、教会や人の良し悪しにも関わらず、勇敢に真理を述べ伝えるべきである。例えばテアテラにあるヘ會は香りの祭りの教会であって、偶像を拝む教会であるため、今まで倍以上に彼らに主イエス・キリストの真理を述べ伝えなければならない。主は,使徒ヨハネを通じ、アジヤにある七つのヘ會にお告げになり、もし主イエス・キリストの真理をテアテラにあるヘ會にお伝えすれば、ではサルデスにあるヘ會に主の真理を伝えますか?

 ヨハネの黙示録三章1.また,サルデスにあるヘ會の御使いに書き送れ.『神の七つの御靈,および七つの星を持つ方がこう言われる.「わたしは,あなたの行ないを知っている.あなたは,生きているとされているが,實は死んでいる.
  
  これは、どれほど厳しいお責めの言葉だったでしょう?、サルデスは神の教会と呼ばれ、生き生きしていると思われるが、主はこの教会が死んでいるとお告げになった。サルデスとは「回復」を意味するであり、この意味の通りに、すべての更生(改正)教会に爆弾を投げ付けたような震撼だったではないか?主は言われれば、「確かにそうだった」と思えば宜しい。今の更生(改正)教会の光景は、確かに生きているように見えるが、実に死んでいる。
  台湾のキリスト長老教会は、宗教団体だったのに、政治に夢中し、聖霊のお供がない。その外にヴィスリ教会やパプテスマ教会の中に、一年間居ても、神様の真理を全く聞けない。本当に「わたしは,あなたの行ないを知っている.あなたは,生きているとされているが,實は死んでいる.このような光景の教会にも神の真理を述べ伝えるでしょうか?勿論伝えるべきである。光景の良し悪しにかかわらず、とにかく述べ伝えなければならない。所で、今日は神様に使えている人であっても、そうやるとは限らない。私達人間は、仕分けをして、選びます。気が合う人に対し、思いやりがあるが、気が合わなければ、冷たくなる。私達の行いに限って、主の教えの通りにやらないので、自分勝手な行動でやると言うわがままの考えであって、主より偉い。主は聖の父より与えてくださったすべての者を一人も失うことがない。
 ヨハネ福音書六章39.わたしを遣わした方のみこころは,わたしに與えてくださったすべての者を,わたしがひとりも失うことなく,ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです.
 しかし私達は自分の意思で、主が選んだ者を中からリンゴを選ぶようにいくつか削る。主は選択したとはいえ、貴方自分で勝手に選んだカゴの中のリンゴのように、好いものが何一つもなかった。
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  通常教会の人々にとって、お互いの間に親しみ難い所ががある。常に、自分こそ最高な人間であって、勝手に思い込みである。その次には少人数はまあまあだと思い、残る大部分には、だめな部類に入ると決め付ける。ですので、集会に来る度に常に最後の一列に座り、横目で見まわるのは、我々の信仰の光景である。
  
  兄弟達;教会の中に党派を分類すべきではなく、少数派や多数派を分類すべきではない。神様から与えられる感動があれば、兄弟姉妹の為にも教会の為にも皆と分かち合うのが大事です。
 
  引き続き;なぜ神様は「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」と言われるのですか?神様である以上、必ず「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」である、さもなければ神でなくなる
  創世記一章1.初めに,神が天と地を創造した.

  言いかえれば、神は天と地を創造する前に既に存在した。日本人は詳しい中国の三国誌の英雄である関羽を台湾で大勢の人々が拝んでいる。関羽様が昔いるでしょうか?いいえ、居ませんでした。人類が創造され、数千年がたってから、生まれた人間ではないか?なぜ中国飲食店の玄関の入り口の場所に、関羽の偶像を拝むため、置かれている。人間が人間を拝むとは、これこそ愚かなことである。そしたら仏教で拝んでいる佛様でも同じではないか?今から約2500年前にインドに生まれた一人の王子なのになぜ彼を神様に仕立てた?そして神でなければ、人を創造することができないのですが、かえって人間がこのインドの王子を神に仕立てて、偶像を彫刻して、拝んでいる。佛教の信者なら、何を思いつきますか?そして、このような愚かな先祖達の遺伝の信仰で、土台も根拠も何一つも神様である証拠がないのに、只先祖からの遺伝で、それを受け継いだ。でもなぜそれを信ずているか?自分でもさっぱり分かっていない。
  しかしお正月になると、多くの人々はの初モウをする。日本の神道が人々の心を惑わす一つの言葉は「人間が死んでから誰でも成佛になる」。この言葉の受け流れによって、日本人が十二年の間、平均的に毎年3万人以上の人が自殺していた。この悲惨な霊魂の居所はどこへ行ったのでしょうか?それは、地獄に行くことになる。これがサタンの仕業である。一つの言葉=「人間が死んでから誰でも成佛になる」だけで、数千年の間にどれ位霊魂が罠に陥ったでしょう。考えてみれば、善人も悪人も死んだら天国に行くとは不公平ではないか?それに人間を創造した神様は自殺した人間を天国へ行かせるものでしょうか?
 
  と言うのは、この「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」の言葉の奥義には深いので、この言葉を鑑定にすれば、宇宙には唯一人の真の神である事を知り、其の他もすべて偽物の神である。観音様でも「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」ということでもない、昔も居ないし、現在いない。
  しかし私達の神は「初めに,神が天と地を創造した」。ようするに「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」。聖書の神様だけ、神の存在を表明されるのである。其の他の宗教の神にはそうではない。誰でもこの定義に該当するものはない。唯一主イエス・キリストだけである。聖書の中に私は「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」と繰り返す。

 神様も必ず「常にいまし」でなければならない。貴方の神様が今日おりますか?もし居れば、なぜ常にいませんか?
自分や家族の身体の病気や仕事を心配する?新約聖書の四福音書を読む時に自分も主イエス・キリストの時代に生まれたらよかったと思う時があれば、貴方の神は昔いましだが今にいません。しかし私達の神は確かに「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」であると使徒ヨハネは,神のことばとイエス·キリストのあかし,すなわち,彼の見たすべての事をあかしした.
この聖書の言葉をよく理解できるように期待し、私達の神様は今はいますか?お祈りをきいてくださったでしょうか?もしお祈りを聞いて下さらなければ、それは必ず何か理由があり、主の前にて対処しなければならない、自分には何か悔い改める所がないか?なぜ体の病気の治療を聞いて頂けないでしょうか?その原因を反省するように究明すべきである。クリスチャンとしては、本当に神様を信ずるかどうか?そして心の中に平和があるかないか?又我慢強く忍耐で待ち続いているか?強い信仰を持てば、「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」の神様は確実答えてくださるのです。教会の牧師や聖書も主イエスも使徒ヨハネも天使も合い言葉で「神は「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」と申したのである。
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  神様は私達のお祈り求めることをお許し下さらなければ、中途半端で失望して、止めるべきではない。必ずその原因を教えて下さるようにお祈りを続けるべきである。子供の時のように両親に小使いや買い物を貰えるように謙虚で求め続ければ、必ずお許しにならなかった原因を教えて下さる。なぜかと言うと、我々の神様は「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」である。しかしその根拠や土台が揃えるべきである。土台と言えば、基督の中に信ずることと愛のあることをさすのである。

 エペソ人への手紙三章14.こういうわけで,私はひざをかがめて,15.天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります.16.どうか父が,その榮光の豊かさに從い,御靈により,力をもって,あなたがたの?なる人を?くしてくださいますように.17.こうしてキリストが,あなたがたの信仰によって,あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように.また,愛に根ざし,愛に基礎を置いているあなたがたが,8.すべての聖徒とともに,その廣さ,長さ,高さ,深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり,
  この「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」言葉を引用し、主にお祈りするようにそして、又下記の聖書で神様に強調するように
  マルコの福音書十三書31.この天地は滅びます.しかし,わたしのことばは決して滅びることがありません.
 
  兄弟達よ本当に体を治してくださらないでしょうか?もし神様から直していただかなければ、貴方が既に死んでいたかもしれない。ではなぜ半分しか治して下さらなかった?神様にお聞きになって、そして教えて頂くことを待つべきではないか?どこで神様からの恵みを止められましたか?例えば死んでもその原因を追求すべきである。そして神様からの平安や安息を得られるよう、お祈りを頑張るべきである。そうしたら、家族や教会まで有益になることを得られる。これこそ主からの栄光であり、主に栄光を帰す。さもなければ、敵ノサタンに笑われる。
  このような信仰深い祈りで必ず神様の御座を震撼させ、貴方も間違いなく神は「常にいまし,昔いまし,後に來られる」を堅く信ずるようになる。私達はイスラエル人が海を渡ったことを信ずるし、ラザロが死からよみがえらせたイエス・キリストを信じていたが、自分の歯の痛みをいくら祈っても治らない?なぜですか?まさか主は休みですか?いいえそうではなくて、私達の主は「常にいまし,昔いまし,後に來られる方」である。
   神のしもべのエリヤであるが;「主は常にいまし」の表現を完璧に表した。エリヤは「私ひとりが主の預言者として殘っている.しかし,バアルの預言者は四百五十人だと集めた民に言った。
 列王記十八章24.あなたがたは自分たちの神の名を呼べ.私は主の名を呼ぼう.そのとき,火をもって答える神,その方がである.」民はみな答えて,「それがよい.」と言った.25.エリヤはバアルの預言者たちに言った.「あなたがたで一頭の雄牛を選び,あなたがたのほうからまず始めよ.人數が多いのだから.あなたがたの神の名を呼べ.ただし,火をつけてはならない.」26.そこで,彼らは與えられた雄牛を取ってそれを整え,朝から眞午までバアルの名を呼んで言った.「バアルよ.私たちに答えてください.」しかし,何の聲もなく,答える者もなかった.そこで彼らは,自分たちの造った祭壇のあたりを,踊り回った.27.眞¿になると,エリヤは彼らをあざけって言った.「もっと大きな聲で呼んでみよ.彼は神なのだから.きっと何かに没頭しているか,席をはずしているか,旅に出ているのだろう.もしかすると,寢ているのかもしれないから,起こしたらよかろう.」28.彼らはますます大きな聲で呼ばわり,彼らのならわしに從って,劍や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた.
36.ささげ物をささげるころになると,預言者エリヤは進み出て言った.「アブラハム,イサク,イスラエルの神,主よ.あなたがイスラエルにおいて神であり,私があなたのしもべであり,あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが,きょう,明らかになりますように.
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  37.私に答えてください.主よ.私に答えてください.この民が,あなたこそ,主よ,神であり,あなたがらの心を飜してくださることを知るようにしてください.」
38.すると,主の火が降って來て,全燒のいけにえと,たきぎと,石と,ちりとを燒き盡くし,みぞの水もなめ盡くしてしまった.38.民はみな,これを見て,ひれ伏し,「主こそ神です.主こそ神です.」と言った.、l
  
  エリヤは神が常にいましを信ず、お祈りさえすれば、聞いてくださると堅く信じていた。
彼は誰である?私達の聖の父である。お父さんであれば、自分の子供を愛するのは当然ですが、もし子供が脳腫瘍を患ったら、お父さんがそばに居てくれることを感じないわけがないでしょうね。しかし貴方はどうするでしょう?あなたは神様が「常にいまし」さえ感じないが、神様が愛してくださったことさえ信じない。神は愛であるので、愛を知らない者に,神は彼を知らない。
  ヨハネの手紙I章4.愛のない者に,神はわかりません.なぜなら神は愛だからです.

 もし貴方は、主である神を全能の神と信じていれば、なぜ敵のサタンの心理作戦を信ずるでしょうか?「祈ってもムダですよ・効かないよ」。いったい誰の話しを聞くのですか?聖書や敵のどっち?敵のサタンはこう惑わした。当時のラザロが墓から呼び出されたがそれが1回きりであった。主イエスは既に天に昇りましたので、貴方の面倒をみることができないとサタンは囁いている。しかし聖書によって、神は「常にいまし,昔いまし,後に來られる神である」と教えているので;主についていく真理の基礎は;神は「常にいまし,昔いまし,後に來られる」である。
  
 ヨハネの手紙I章一章1.初めからあったもの,私たちが聞いたもの,目で見たもの,じっと見,また手でさわったもの,すなわち,いのちのことばについて,
 ですので、今日は兄弟達に私たちが聞いたもの,目で見たもの,じっと見,また手でさわったものを述べ伝える。
ヨハネの黙示録一章2.ヨハネは,神のことばとイエス· リストのあかし,すなわち,彼の見たすべての事をあかしした.
 
  神様にお祈り求めても、聞いてくださらなければ、それなりの原因があります。一関門;不信;真面目にお祈っていない、自分でも分かるはずだが、大勢の基督のお祈りが一貫性や継続性や責任などもない、只随意にお祈るだけです。二番目の関門;信ずるがお許しを頂かなかった場合、是非神様の御座に触れるお祈りをしなければ、その原因を教えて頂かない。もし原因さえ知らなければ、一番目の関門さえパスできないと思え。もし一番関門は通ったが、貴方自分にはな何か対処しなければならないことがある筈だが、それとも神様から貴方に不足する所があるので、対応すべきである;もしかしたら 仕事を捨てて、主についてこいや神様からの交渉を持ちかけられる。三番目の関門;根本的に貴方や身内を迎えいかれるのが神の永世の中にある計画です。
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  このようなアレンジすることが、栄光なことを知っておくべきである。人間は生きていても必ず栄光とは限らないが、死んでいても栄光ではないことでもない、これが奇妙なことですが、もし人間は信仰さえなければ、神様の計画や黙示を聞くことが難しいだろうと思うし私達のお祈りを叶えてくださることも不可能でしょう。
  へブル人への手紙十一章6.信仰がなくては,神に喜ばれることはできません.神に近づく者は,神がおられることと,神を求める者には報いてくださる 方であることとを,信じなければならないのです。

 信仰の足りない方が常に根本的な原因を理解することができなく、常にこれは神様からの試練だと感違って、努力をしますと言うが、実際に何故か?なにもかも知らない。

 ヨハネの黙示録一章9.私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,あなたがたとともにイエスにある 苦難と御國と忍耐とにあずかっている者であって,神のことばとイエスのあかしとのゆえに,パトモスという島にいた.

 使徒ヨハネはどんなに素晴らしい方である?腰が低く兄弟の間に同輩のように呼び合う。自分は先生と教授とか先輩と自称しないで、只私は貴方達の兄弟ですよと言う。兄弟達よ主について来られるのがただ主イエス・キリストを崇め、兄弟達の間にすべて平等である。

 コリント人への手紙I十二章27なたがたはキリストのからだであって,ひとりひとりは各器官なのです.
私達は同じ恵みを受ける者である。 

 エペソ人への手紙三章8.その奧義とは, 福音により, キリスト · イエス にあって, 異邦人もまた共同の相續者となり,ともに一つのからだに連なり,ともに約束にあずかる者となるということです.
神様は私達の為に代價を払って買い取られたのです。
  コリント人への手紙I六章19.あなたがたのからだは,あなたがたのうちに住まれる,神から受けた聖靈の宮であり,あなたがたは,もはや自分自身のものではないことを,知らないのですか.2あなたがたは,代價を拂って買い取られたのです.ですから自分のからだをもって,神の榮光を現わしなさい.
  ですから自分は誰よりも賢こいかと比べる必要がないし、比較しても意味がない。聖書を真面目に読めば、聖書を喜びの源にすることが出来れば、結構でございます。神様の恵が必ず照らしてくださるので、今でお互いに兄弟姉妹の呼び方で呼び合い出来ることが実に光栄でであり、神様に感謝する気持ちでいっぱいです。
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  主に従うのが易しいことですが。
 マタイ福音書十一章29.わたしは心優しく,へりくだっているから,あなたがたもわたしのくびきを負って,わたしから 學びなさい.そうすればたましいに安らぎが來ます.30.わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は輕いからです.」
  主のくびきは負いやすく,主の荷は輕いからです.私達はこのような信仰の光景まで戻るべきで、今までのようになにもかも要求する必要がない。ただ主の笑顔を求めて生きる為である。
 その御座の前におられる七つの御靈から,七つの御靈とは。七個の使者ではないが、ではどういうことでしょうか?聖書の
 エペソ人への手紙四章4.からだは一つ, 御靈は一つです.あなたがたが召されたとき, 召しのもたらした望みが一つであったのと同じです.5主は 一つ,信仰は 一つ,バプテスマは 一つです.
6.すべてのものの上にあり,すべてのものを貫き,すべてのもののうちにおられる,すべてのものの父なる神は一つです.
  はっきり言っている一つの御靈だけですが、なぜ七つの御靈があるのですか?これは非常に良い問題である。七つの御靈の本来の意味は七倍を強める御靈;御靈は相変わらずであるが、「七」は完璧の意味を指すのです。
神は三であり、即ち『三一の神』であるが、人間は四であり、『四つの生き物』である。三+四は七でー完璧である。
神様は六種類の生き物を創造したが:飛び鳥、野獣、家畜、魚、爬虫類、人間だが、四つの生き物までそれぞれの顔はー人間の顔、獅子の顔、牛の顔、鷹の顔である。野獣の代表は獅子で、家畜の代表は牛で、飛び鳥類の代表は鷹で、最初に想像された六種類の生き物の中に、爬虫類は見えなくなった、爬虫類が呪われるもので、新しい天と新しい地には海が消える為、魚もなくなるので、永世には魚や爬虫類がないので、四つの生き物とは創造されるのを代表する。
では神様は3で、人間が四で、神+人間=『三+四は=七でー小の完璧で=道成ののろまな体である。三かける四=12=大の完璧で、更に大きい完璧は12かける12=144である。
ヨハネの黙示録の中に百四十四の数字がある、十四万四千個勝利を得られる者がいる。
  ヨハネの黙示録七章4.それから私が,印を押された人々の數を聞くと,イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて,十四万四千人であった.
  ヨハネの黙示録十四章1.また 私は見た.見よ.小羊がシオンの山の上に立っていた.また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて,その額には小羊の名と,小羊の父の名とがしるしてあった.
  ヨハネの黙示録二十一章12.都には大きな高い城壁と十二の門があって,それらの門には十二人の御使いがおり,イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった.
  ヨハネの黙示録二十一章14.また,都の城壁には十二の土台石があり,それには,小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった.
  ヨハネの黙示録二十一章21.また,十二の門は十二の眞珠であった.どの門もそれぞれ一つの眞珠からできていた.都の大通りは,透き通ったガラスのような 純金であった.
  マタイ福音書十四章20.人々はみな,食べて滿腹した.そして,パン切れの余りを取り集めると,十二のかごにいっぱいあった.
  マタイ福音書十五章37.人々はみな,食べて滿腹した.そして,パン切れの余りを取り集めると,七つのかごにいっぱいあった.
 マタイ福音書でパン切れの余りを取り集めると,十二のかごと七つのかごにいっぱいあったことについて、神様の恵みによる完全な豊富を代表する。
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 『七の御霊』とは、「七倍を強める御霊」の意味で、この霊を非常に強めてたまりません。だからここで七つの御霊があると言う意味ではなく、御座の前にある強める七倍の御霊をさすのである。なぜ『七の御霊』を述べるのですか?ヨハネの黙示録の異象が常識を超える凄いもので、聖書にある外の聖書の巻がただ一倍の御霊を言われるが、ヨハネの黙示録には「七倍を強める御霊」を言っていた。ヨハネの黙示録を読み、サタンの対戦相手になれる人間、要するに聖の御霊の黙示を受けられる方なら、天敵サタンからの攻撃を受けることになるからです。
 ヨハネの黙示録には、サタンに対する審判や、敵のキリストの奥密及び彼らの滅亡後の行き道などについて、詳しく記載されているので、サタンとしては聖書の六十六巻の中に対し、ヨハネの黙示録を述べ伝えるや読む人に対し、もっとも攻撃を強めるので、多くのクリスチャンの頭の中にヨハネの黙示録を読まないことにしている。なぜ読まないでしょうか?読んでも分からないと思うからである。ですので、このようなクリスチャンの聖書であれば、唯六十五巻しかない、六十六巻目に触れないようにしている。ということで、神様は各教会に「七倍を強める御霊」を伝える。

 ヨハネの黙示録一章5.また,忠實な證人,死者の中から最初によみがえられた方,地上の王たちの支配者であるイエス· キリストから,惠みと平安が,あなたがたにあるように.イエス · キリストは私たちを愛して,その血によって私たちを罪から解き放ち,
上記の聖書から神様は忠實な證人をどれほど大事にするかご存知だと思います。
例えばいくら弁舌でも神様の忠實な證人になろうと考えれば、必ず下記の聖書の言葉の通りに
 マタイ福音書五章37.だから,あなたがたは,『はい.』ははい.』,『いいえ.』は『いいえ.』とだけ言いなさい.それ以上のことは惡いことです.
 パウロは神様の言葉を述べ伝えるのが常に単刀直入で、述べていた;
 コリント人への手紙I二章2.なぜなら私は,あなたがたの間で,イエス·キリスト,すなわち十字架につけられた方のほかは,何も知らないことに決心したからです.4.そして,私のことばと私の宣ヘとは,?得力のある知惠のことばによって行なわれたものではなく,御靈と御力の現われでした.
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  パウロと言う使徒について、どれほど華麗な出生背景がご存知ますか?彼はローマー戸籍を持ちー当時の千夫長;千人の部下を擁する幹部である。当時の時代では、ローマー公民戸籍を得たいなら、お金で買わなければローマー戸籍を簡単に手に入れない。彼は生まれつきローマー戸籍の身分を持つものだったのです。イスラエルは当時のローマー帝国の植民地で、統治され、彼には政治力があるはずです。それだけではなく、ユダー教の背景でも宗教地位を持ち、当時の大都市の大数に生まれ、カマレツの下で教育を受ける彼であるので、将来性が凄いだろうと言う偉い方である。彼ほどの人間でどれ位羨まれるだろうが、所で主の為に自分のすべてを切り捨てた。そしてパウロは言われた;私は,あなたがたの間で;イエス·キリスト,すなわち十字架につけられた方のほかは,何も知らないことに決心したからです.パウロのような行いを見習わなければならない。人間として;有益な言葉を出す以外にぐちぐちのような御喋りをしない方がよさそうではないか?主の僕や門徒であれば、忠實な證人として働かなければならない。
  
  教会でメーッセージをする時にも人に福音を述べ伝える時でも、忠實な證人となって、イエス·キリスト,すなわち十字架につけられた主以外の事であれば、何も知らないことに決心したからです.主の真理を述べ伝えるのも、決して自分事ばかり紹介するような言い方をすべきではない。自分には、偉いと思うか?自分の肩書きを忘れないように主や人のために有益な言葉を述べるべきである。

  次に『死者の中から最初によみがえられた方』;兄弟達よ主イエス・キリストの復活を伝える証拠はここにあります。主の前や主の後にも復活する人が一人も居ませんでした。ミレニアムが来る時こそ、蘇る人が初めて出てくる。次の言葉;「死者の中から最初によみがえられた方,地上の王たちの支配者であるイエス· キリスト」。
  十字架に主イエス・キリストを釘つけられる時、主に仕える人が殆ど逃げてしまったが、唯使徒ヨハネと主の母親とモタイラのマリアが居る
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  その時、主は言われた;
 ヨハネ福音書十九章26.イエスは,母と,そばに立っている愛する弟子とを見て,母に女の方.そこに,あなたの息子がいます.」と言われた.27.それからその弟子にそこに,あなたの母がいます.」と言われた.その時から,この弟子は彼女を自分の家に引き取った.
  なぜなら主は自分の兄弟のヤコブに母親を引き渡さないでしょうか?主は神様であり、将来なことを見超えている。ヤコブが間もなく殉道になり、ヨハネは使徒達の中に最も長生きるので、母親をヨハネに引き渡した。主が十字架につけられた時には、何もかも残らなかったが、ヨハネの黙示録でなぜなら『地上の王たちの支配者であるイエス·キリストから』。
 
 これは大袈裟の話しであるまいか?今年は西暦2010年で;世界諸々の国にある年号の呼び方は如何なものでありますか?
 例―日本の昭和天皇の時代で昭和一年から63年まで、これは昭和天皇が天皇となってから、この時期に国家最高権力者に対する国の年号の呼び方である。昭和天皇がなくなり、平成天皇に変え、天皇の年号も変えてしまう。現在は平成22年、勿論現在の日本が象徴天皇となり、実際の権力がなくなったが、この国家の最高地位にある方で、生きている間に彼の天皇の年号もずっと呼ばれる。世界の歴史を見渡っても同じようである。ここでよく考えてください:西暦2010年とは、これは世界共通の年号であり、世界で約200個国家地域で、この西暦2010年の年号も広く使用されている。これは『地上の王たちの支配者であるイエス· キリストの年号である』。もう一つの意味は主イエス・キリストが万王の王として既に2010年の時期になったと言う意味を指すのである。
  
  「西暦」又紀元2010という世界共通の呼び方である。例えば日本大正何年生まれを言っても中々何年前のことか理解できないが、西暦何年生まれと言えば、すぐ分かる。図書館へ行けば、書籍の年代説明も殆ど西暦(紀元)で記載され、西暦前(主イエス・キリストの生まれる前)と西暦(主イエス・キリストの生まれる後)である。
  なぜなら『地上の王たちの支配者であるイエス ·キリストの年号である』。:歴史上、王の生きるうちだけ、その王の年号が存在するわけですが、一旦その王が亡くなれば、その年号が代われ、次の王の年号に切り替えられる。キリストの年号はキリストが誕生の前に計算されー「B.C、BeforeChrist」;又イエス・キリストの誕生からー『A.D
、AnnoDomini』;これこそキリスト・イエスこそ霊魂世界でも、人間世界でも王であることが証明できる。主イエッス・キリストこそ常にいまし,昔いまし,後に來られる方。
 
 ここで宗教のことをよく理解できない方にお聞きしたい、又先祖の遺伝や家族の意思でよく理解していない内に仏教や日蓮正宗、又創価学会を加入してしまった方にお聞きしたい;なぜなら仏教の年号にならない?日蓮正宗、又創価学会の年号にならないのか?宗教と言うのは単に精神的の頼りではなく、人間の目が見えない霊魂世界のことこそ大事でである。人間の口がよく見えない事に対し、気にしないというが、実際に主イエス・キリストを信じていない人間であれば、王でも、富豪でも、そして善人であっても、悪人であっても、すべて永遠の苦しみの地獄行きになる。永遠とは大赦なく、お許しなく、又お休みない苦しみである。
もう一度お聞きしたいが、なぜなら世界の年号とは、佛教の佛様の年号ではなく、又ヒトラの年号でもなく、現在世界最強のアメリカの年号でもない、人間の理屈でよく考えて、想像してください、くれぐれもよく研究してから、基督教を選んだほうが霊魂の為である。
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  貴方は勤めて、誰から報酬を払ってもらうかと言うと、一般的に会社のの経営者からもらっているとおもうが、実際的に宇宙の創造者である神ー主イエス・キリストであり、又病気の治療をしてもらうのは医者ではなく、主イエス・キリストである。主が受難の後、主イエス・キリストの十字架受難を記念する人々が何人でもいませんでしたが、なぜならある日になってから、世界の年号西暦はイエス・キリストの誕生の年を基準にその年号に変えた。ローマー帝国は強かったが、世界年号がローマー帝国の年号にならなかった。ローマ帝国は、当時クリスチャンに対する圧迫や殺害を行ったが、しかしいつの間にかローマー帝国がキリスト・イエスを信ずることになり、基督教を国家宗教と決めた。これは、神様でなければ、できない御技である。

 聖書はなぜ世界歴史の流れと変化を預言できたのか?共産主義が無神論で、主イエス・キリストを信じていないが、すべての共産主義国家もイエス・キリストの年号を使用している。タイと言う国は、仏教の国家であり、所で、イエス・キリストの年号をも使用している。私は昭和31年の生まれだが、アメリカへ行けば、何年生まれと聞かれれば、昭和31年生まれと言っても、相手の方が間違いなく分からない。西暦何年生まれと言えば、理解してもらえる。
 ではこれは一体どうやってこのようになったのですか?人間の力によるのですか?答えは;いいえ人間の力ではない;神様の栄光の力で成らせたのです。聖書の神である主は全能の神ですので、『地上の王たちの支配者であるイエス· キリストの年号である』。
  またお聞きしたいですが、海の水を分けることが難しいですか?それとも全世界に西暦2010年を使用させるのが難しいでしょうか?、現在の科学技術なら、海の水を分けるのが可能です。イスラエル人が荒野にいて、神は鶉鳥を飛来させ、2百万人のイスラエル人を飢えにさせない慈しみと責任のある神である。

 今の人間科学でも可能であるが、今の人類学の建久によれば、で2010年後の年号を予測や決め付けを可能にすることが出来るでしょうか?人類の数千年の歴史の変化、時代潮流の変換、結局「イエス・キリストは『地上の王たちの支配者であるイエス·キリストの年号である』。全世界のイエス・キリストを信ずる国家がその年号を使用し、共産主義国家がイエス・キリストを信じていない国家でもその年号を使い、又仏教国家でもインド教国家でも、すべてイエス・キリストの年号を高く上げられ、これは一体だれかは?本当の神様であるのかをもう一度考え直さなければいけない。
  
  今年は西暦2010年で、聖書の神である主は成らせたのです、これこそ奇妙でかつ敬意を払って、神を恐れることを思うべきではないか? ですので、ご存知のように聖書の神である主は本当の神である。もし自分や家族に腫瘍の病気があっても、お祈っても直してくれないと思えば、これこそ信仰の弱みであろう。常にいましの神である主は不可能なことはない、西暦の年号ほど難しいことがない。病気を治してくれなければ、自分の信仰や行いをもう一度見詰める必要がある;「貴方の力は如何ですか?貴方の生活にかかっている」。
  年号の事をいえば、この人類の数千年の歴史から実証すれば、どこの宗教の神は本当の神であるのか?もし仏教の神が本当の神であれば、仏教で言う神の年号を使用されるべきではないか?しかし、実際に仏教がいかにもその力がありません。この世界の超大国はアメリカですので、貿易の世界ではアメリカ貨幣―ドルを世界の共通貨幣として使用されている。又語学でもそうだった。十七世紀以来、イギリスが世界最強で、その後のアメリカもイギリスにひき続き、世界最強の国となったので、世界の共通言語は英語を広く使用されているではないか?この二つの国家も大部分の国民がキリスト・イエスを信じている。
  貴方の家の玄関の前に名前札がかけられていて、お名前は山口であれば、違う名前の谷口のような名前札をかけられることはないでしょう;この家を持っている権限が山口家の者である。と言う事を考えれば、宇宙の神様はどこの宗教の神様であるか?一目瞭然ではないか?
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   又 もし世界には神がいなければ、信じるか信じていないかは差別がないが、しかし、例えば信じていれば、何か得を得なくても、損をする事もなかったのである。所で万が一に宇宙の真実が開いて、主イエス・キリストは本当の神であれば、その時に主を信じていない者が物凄く大変になるだろう。永遠の火の池の地獄ゆきとなる。イエス・キリストを信じる者なら、永遠に快楽のキリスト国度にはいることになる、まさか天地の差ではないでしょうか?
 
  ですので、現世で、主イエス・キリストを信じていれば、間違っていても損はしないし、間違いなければ、この上にない無限の幸せを手にする事ができる。しかし誠心誠意の信仰が必要であって、イエスを信じてから、ちょっと何かにぶつかって、平穏無事でなくても、すぐ後退してしまえば、本当の信仰とはいえない。よく話かってもらいたいですが、私達の信ずる神である主は本当の神であることを忘れるべきではない。
 
 惠みと平安が,あなたがたにあるように.神である主はヨハネから,アジヤにある七つのヘ會へ.
 
 ヨハネの黙示録一章5.また,忠實な證人,死者の中から最初によみがえられた方,地上の王たちの支配者であるイエス ·キリストから,惠みと平安が,あなたがたにあるように.イエス · キリストは私たちを愛して,その血によって私たちを罪から解き放ち,

 前には霊のある人とは、どんな意味をするだろう?と議論されたが、その意味とは、例えば、どんな光景であっても神である主によって、祝福される事が出来る事を指すのである。簡単にいえば、霊のある人であれば、キリストから,惠みと平安が,あなたがたにあるように.今主についていく教会の光景が使徒ヨハネの時の教会のようになるべきで、もし教会は「あなたは,生きているとされているが,實は死んでいる.」と言われれば、まったくみっともないではないか?
 テアテラにあるヘ會が偶像を拝んでいても、神である主は相変わらずテァテラにあるヘ會を愛する。地上の王たちの支配者であるイエス·キリストから,惠みと平安が,あなたがたにあるように.「このあるように」、希望するだけではなく、正しい貴方である事だけを期待する意味である。私達の願いは多過ぎて、お金持ちになりたいし、社会地位を昇りたいし、結婚したいなど・・・・次にやっと教会が繁栄が出来るように神にお祈りをします。最後に自分は嫌な人の生活がよくなるようにお祈りをするのではないか?
 兄弟達よ;必ずそうすべきではない。神である主につき従う人であれば、人々に対し、同じ態度を取らなければいけないし、相手からどんな態度であっても、付き合う気持ちも一緒で、いつも上の王たちの支配者であるイエス· キリストから,惠みと平安が,あなたがたにあるように.こうするこそ主の僕としてしの資格があり、仕える恵みもある。
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  このような行いが聖書の中に少なくありません。聖の父、聖の子、聖の天使は全部私達の模範である。今の教会にとってこれらの易い事をすべて捨てましたが、かえって複雑の人間私欲に陥ったのです。主の跡に向かっていく人間であれば、そうすべきであるが、さもなければ、主の跡に向かうとは言えない。
  マタイ福音書七章21.わたしに向かって,『主よ,主よ.』と言う者がみな天の御國にはいるのではなく, 天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです.

  マタイ福音書七章23.しかし,その時,わたしは彼らにこう宣告します.『わたしはあなたがたを全然知らない.不法をなす者ども.わたしから離れて行け.』
主は宣告します;『わたしはあなたがたを全然知らない.不法をなす者ども.わたしから離れて行け.』
  
  だから私達は人を育成する為に音頭を取らなければ成らない。それぞれ私たちの面前に来る人の身分に拘らず、生まれつきで私達と何か違うことがあっても、すべて世界の王たちの支配者であるイエス·キリストから,惠みと平安が,あなたがたにあるようにと言って上げたい.こうすれば、教会には希望が溢れることになる。
  兄弟達よ私達から行動を始めましょう;まったく難しことではない。昔好い模範を残してくださった使徒たちの行いや風格など、そのような光景まで回復できれば宜しいではないか?今の教会は人間の悪い癖にぶつかって、進んでいない。かえって堕ちたことによって、何かを付け加えるか何を見直すかと言う事は、まったく必要がない。例えば賛美歌のように心までの感動な謡ができないか?人の目を気にし過ぎて、全身全霊で歌うことができなくなった。と言う事によって、霊のある人は、昔が残してくださった元のものをそのまま表現すれば、宜しいではないか?何故偽りの格好をし、必要のない言動を教会まで持ってくることがあるだろうか。

 「イエス ·キリストは私たちを愛して,その血によって私たちを罪から解き放ち,」神は私達を愛してくださったというのは、ちょっとだけ関心ですか?いいえそうではない;神はその血によって私たちを愛してくださったのです。
 
  教会で偶に集会の椅子を並ぶだけでもいや、又は愛の宴のお食事を作ってくれと頼まれても、好い返事をしないなど、よく考えてみれば、主イエス・キリストのような永遠の王は「自分の血によって、私たちを罪から解き放ち,」これは普通の愛ではなく、人間として出来る犠牲ではないのである。聖書によって、「自分の血によって、私たちを罪から解き放ち,」ような言葉があるのですが、でも貴方のお祈りによると、「主よ二千年前に私の罪の為に「そのの血によって、私たちを罪から解き放ち,」、なぜなら今、私が幾ら祈っても私の病気を治して下さらなかったでしょうか? いいえ・・・そうではありません;これには必ず原因があり、この原因を貴方が必ず見つからなければならない。神の子さえ私達の罪の為にその血を流してくださったのですので、一滴の血ではなく、主が朝の9時から、午後の3時まで、合計六時間で十字架につけられた、血がなくなるまで流し尽した。
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  全世界には最も残酷な刑罰が十字架につけられることです、主イエス・キリストの誕生前にこの刑法を発明され、主イエス・キリストが十字架につけられてから間もなく廃止された。この刑罰は神である主はわざわざイエス・キリストが私たちを罪から解き放つために用意して頂いた。
  なぜなら人類の罪が重過ぎて、神である主は正しく裁きの神であるため、、一般の死刑の刑法であっても、私の罪を解き放つことができない。例えば;頭を切れ、簡単過ぎて、あっという間に終わる、油揚げ、5分もあればから揚げになる。1本の銅の柱を焼け通しても、その上に人間を縛りつければ、3分もあれば死んでしまう・・・・。ですので、神様は自分の為に最も残酷な刑罰を用意しました;十字架につけられることである。人間の手の平の中心にツボがあり、「労宮穴」と呼び、このツボから長い釘を打ち込めば、最も痛くてたまりません。十字架のような刑罰はこの人間の手の平の中心にツボの「労宮穴」から打ち込んで、手の裏まで刺し通されてから、十字架の木に固定される。これだけですまない;人間を十字架に釘つけられてから、人間と十字架同時に持ち上げられ、まっすぐするように安定させ、この時に全身の重量がこの刺し通された釘によって、このツボを再度裂かれてしまえ、この様な苦痛が想像もつかないほど描けにくいのです。
  聖書のイザヤ書五十三章しかし, 彼は,私たちのそむきの罪のために刺し通され,私たちの咎のために裂かれた.彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし,彼の打ち傷によって,私たちはいやされた.
主は「自分の血によって、私たちを罪から解き放ち,」

 へブル人への手紙九章22.それで,律法によれば,すべてのものは血によってきよめられる,と言ってよいでしょう.また,血を注ぎ出すことがなければ,罪の赦しはないのです.
  これほどの犠牲までしてくださった神様であれば、その外にやって下さらないことがあるでしょうか?この手の打ち傷は永世まで残される;主はオリーブ山に降臨する時、イスラエル人が主のわき腹の刺し傷と手にある打ち傷を見て、彼を主イエス・キリストと認められる、そして全イスラエルが悔い改める。
 ヨハネの黙示録一章6.また,私たちを王國とし,ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である.キリストに榮光と力とが,とこしえにあるように.ア―メン.
 神である主は自分の血によってということは、非常に大きな代価である。私達を罪から解き放ち、又「私たちを王國とし,キリスト国度の国民とならせる」。
罪から解き放ち、キリスト国度の国民とならせるまで長い道どり、かつ辛いですが;神である主は私達の為に血を注ぎ出し、私達を罪から解き放ちさせ、まだ長い信仰の道で伴ってくださる。兄弟達よ、貴方が罪を解き放ってから、貴方は相変わらず 文句が多く、取り扱いにくい、面倒な人、我ままであるのか?所で、神様は貴方と共にこの道を歩きながら、助けてくださって、付きっ切りしてくださる。そして最後に私たちにキリスト国度の国民を成らさせるようにする。一人の野蛮人からキリスト国度の国民を成らさせるようにするのはどれほどの愛情が必要でぢょう?事実上、私達は野蛮人より野蛮で、パウロは言われた;
 
 ローマー人への福音書十一章17.もしも,枝の中のあるものが折られて,野生種のオリ―ブであるあなたがその枝に混じってつがれ,そしてオリ―ブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら,18.あなたはその枝に對して誇ってはいけません.誇ったとしても,あなたが根をささえているのではなく,根があなたをささえているのです.19.枝が折られたのは,私がつぎ合わされるためだ,とあなたは言うでしょう.20.そのとおりです.彼らは不信仰によって折られ,あなたは 信仰によって 立っています. 高ぶらないで, かえって 恐れなさい.21.もし 神が台木の 枝を惜しまれなかったとすれば,あなたをも惜しまれないでしょう.22.見てごらんなさい.神のいつくしみときびしさを.倒れた者の上にあるのは,きびしさです.あなたの上にあるのは,神のいつくしみです.ただし,あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって,そうでなければ,あなたも切り落とされるのです. 23.彼らであっても,もし不信仰を續けなければ,つぎ合わされるのです.神は,彼らを再びつぎ合わすことができるのです.24.もしあなたが,野生種であるオリ―ブの木から切り取られ,もとの 性質に 反して,栽培されたオリ ― ブの木につがれたのであれば,これらの栽培種のものは,もっとたやすく自分の台木につがれるはずです.
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 人間は自分の角度から聖書の言葉を読んで、表たった言葉の意思しか読み取れなく、より深い意味にある霊の意に全く分かっていない。聖書による;
  ヨハネ福音書六章63.いのちを與えるのは御靈です.肉は何の益ももたらしません.わたしがあなたがたに話したことばは,靈であり,またいのちです.
  
 クリスチャンのいのちは野蛮人の性格より文明人のように仕付けられ、日本人のように礼儀を知り、回りに迷惑をかけないように努める必要がある。間違いを犯したら、早めに謝り、臭いにおいの食事をとって、回りの方に迷惑しないように、この様なお導きも実に大変な愛情を要し、ただし親から子供にこのような愛情を払うことが可能である。
 また,「私たちを王國とし,」これはどんなに凄いことでしょう。それだけではない、更に凄いのは、「ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である.」。これはまさか神の宮の中におられることになる。神の宮は宇宙の中心で、「ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である.」。

 ペテロの手紙I二章9.しかし,あなたがたは,選ばれた種族,王である祭司,聖なる國民,神の所有とされた民です.それは,あなたがたを,やみの中から,ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを,あなたがたが宣べ傳えるためなのです.
  私達は全部選ばれた種族,王である祭司,聖なる國民,神の所有とされた民ですが、国民より祭司に変われ、祭司より王となるこの一連の道どりがどれ程難しいだろうか?神である主は十字架に釘つけられ、私達を最悪な状況や環境の中から救い出してくださったのです;、
  イザヤ書五十三章5.しかし,彼は,私たちのそむきの罪のために刺し通され,私たちの咎のために裂かれた.彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし,彼の 打ち傷によって,私たちはいやされた.
  神は「そのの血によって、私たちを罪から解き放ち,」私たちの咎のために裂かれた.彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし,その後、主の道へ私達を一歩一歩お導き、そして「私たちを王國とし」これから驕ることのない人間になれ、又放言狂言或いは人への批判を出さないようにゆっくり神の国度の一員になれるように教えてくださったのです。これだけで済まない、ある日私達を宇宙の中に最も栄光のある所にお連れし、私たちは,選ばれた種族,王である祭司,聖なる國民,神の所有とされた民です.これもすべて聖書の言葉であります。
次に「キリストに榮光と力とが,とこしえにあるように.ア―メン.」心よりお祈り、キリストに榮光と力とが,とこしえにあるように. 
 ここまで、分かるのは権力や肩書などを争う必要がない。誠心誠意で神に仕え、「キリストにすべての栄光と力とが,とこしえにあるように.」ある詩の歌があり;「私は静かに十字架を記念し、主が十字架の上にどれほど苦しみを思い出せば、私が渾身の霊が抜け出せ、今までの驕りを恥ずかしいと思う。主の全身に血によって染められ、赤い服を被るように見えるので、私と世界が断絶され、世界は私に向け、既に死んでいるように」。この詩を読む度に昔自分の驕りには恥ずかしいし、又権勢に惚れることもみっともないと思う。   
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 願わくは十字架の一幕を見た瞬間、すべて「キリストに榮光と力とが,とこしえにあるように.」
主の前にどんな資格でもいうべきではない。神はあんな大きい代価を払って下さって、私達を死亡の光景中より救い出してくださって、私なら間違いなく「キリストに榮光と力とが,とこしえにあるように.」
  私は教会で卑賤な仕えても構わないし、お掃除、椅子排列、ゴミを捨てるなど、人の嫌な仕事をやっても嬉しい。只天にいます私の神は好きであればそれで宜しい。誰も私の気持ちに触れることが出来ない。なぜなら私の眼の中に主しかおりません。主イエス・キリストと十字架しかいない。この気持ちより重要なことがありません。すべて「キリストに榮光が,とこしえにあるように.」私達は失格者で、「キリストに力が,とこしえにあるように.」私達は失格者であって、自分にも何の栄光があるのか?夜中に眠れない時、よく鏡の中から自分を反省し、自分の一生にどれ位嘘付いたでしょうか?これだけ栄光があるものか?
  
  兄弟達よもし主イエス・キリストを十字架に釘つけられなければ、私達は全部滅びることになります。聖書によって;
 ヨハネ福音書三章16.神は,實に,そのひとり子をお與えになったほどに,世を愛された.それは御子を信じる者が,ひとりとして滅びることなく,永遠のいのちを持つためである.
  もし主イエス・キリストを十字架に釘つけられなければ、私達は全部この救いの恵みには無縁ではないでしょうか?これこそ私達の本当の光景である。使徒ヨハネは神の御技を見て、心より感じていることは;「「キリストに榮光と力とが,とこしえにあるように.」
  私達の眼で十字架の一幕を浮かぶ時に心の奥まで主の恵みによって、微調整されました。神である主は私の為に苦しみを知りながら、十字架に向けて邁進し、そして十字架に釘つけられた。私は自身の驕りを切り捨ててしまい、自分にはなんでもなかったことをよくりかいできたので;
 ヨハネの黙示録一章7.見よ,彼が,雲に乘って來られる.すべての目,ことに彼を突き刺した者たちが,彼を見る.地上の諸族はみな,彼のゆえに嘆く.しかり.ア―メン.
  七節で主イエス・キリストの再来の光景を述べているが、「雲に乘って來られる」というが、又「すべての目,ことに彼を突き刺した者たちが,彼を見る.」と言う。昔既に肉体が死んでいる人々を指すだけではなく、現在に生きている人々も含みます。生きる人でも死んでいる人でも「雲に乘って來られる.すべての目,ことに彼を突き刺した者たちが,彼を見る.」ここでの「ことに彼を突き刺した者たちが,」;主イエスキリストが釘つけられて、死んでから、槍で彼を突き刺した者たちのことを意味する。121

  
  ヨハネ福音書十九章33.しかし,イエスのところに 來ると,イエス がすでに死んでおられるのを認めたので,そのすねを折らなかった.34.しかし,兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した.すると,ただちに血と水が出て來た.35.それを目?した者があかしをしているのである.そのあかしは眞實である.その人が,あなたがたにも信じさせるために,眞實を話すということをよく知っているのである.
  しかしなぜならあの「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した.」なぜ。この人を言い出すのでしょうか?兄弟達よ実に主イエスを突き刺したのはあの兵士だけではなく、大勢の人々がすべて主を突き刺したのです。歴史による歴代以来、どれほど多くの人間が主イエスを突き刺しただろう・・・主イエスをからかい、尚突き刺しでもすれば、大変なことになるのよ、主イエスが再来の時期に来ると、どれほど恐ろしいことになるだろう?
 キリストが再来の時、彼は憐れみや恵みの神ではなくなり、正しく裁きの神である。主イエスを突き刺すことがあれば、貴方にとって、大変でしょう。
  ですので、霊の意味では主イエスを突き刺したとは非常に大勢人々であり、あの兵士だけではない。次に「地上の諸族はみな,彼のゆえに嘆く.しかり.ア―メン」.主イエスは救世主であり、天と地を創造する神であるが、再来の時になると、地上の万の民族が嬉しい事ではなく、悲しいことを感じることである;聖書にはこの様に記載されている。

  ヨハネの黙示録六章15.地上の王,高官,千人隊長,金持ち,勇者,あらゆる奴隷と自由人が,ほら穴と山の岩間に隱れ,16.山や岩に向かってこう言った.「私たちの上に倒れかかって,御座にある 方の御顔と小羊の怒りとから,私たちをかくまってくれ.
  若い時期にここの聖書を読んでもよく分からないが、人生の中に唯一悪夢で目が覚めた時の夢の内容には主が再来の事であった。その時に既に主を信じてから長い歳月が過ぎたので、まあまあ真面目のクリスチャンと言えよう。しかし考えもつかなかったが、主の再来の夢で全身に冷え汗驚かされて、すぐ目が覚めた;なぜなら、まだ主を迎える準備が出来ていない私でした。もし自問でも自分が主を突き刺す部類であれば、早めに行いが直すことで、そして 世間事しか眼の中にない方でも、人生の計画も早めに立て直しできるように頑張ってください。
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 主の再来は「地上の諸族はみな,彼のゆえに嘆く.しかり.ア―メン」.
  聖書を解明するのに二つの鍵があり、一つは聖書によって聖書を解明し、もう一つは人類歴史によって聖書をあかしする。聖書に記載される内容は真実ですので、歴史も必ずピっタリ一致する。私達は聖書を何年も読んでまいりましたが、歴史の進行が聖書の予測通りに進むと知りながら、この終わりの日の時代で、世界の流れと変化を予測する為にも勿論も聖書が役に立っているので、聖書の言葉に基いて探るのです。
  大よそ西暦1997年から全世界はミレニアムの話を持ち切りですが、兄弟達にお聞きしたいですが;人類アダムよりイエス・キリストまで約四千年の人類歴史がありましたが、アダムから今日まで、約六千年にもなったことを御存知でしょうか?聖書の中に「小羊の婚宴」があり、それはミレニアムです。今の教会でこの事を知る方がそんなに多くないが、驚かれるのは全世界の人々が六千年を跨ってから、七千年目に入ることをミレニアムとわかることです。
  
ヨハネの黙示録十九章9.御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ,と書きなさい. 」と言い,また,「これは神の眞實のことばです.」と言った.
  私はよく知らないですが、キリスト教以外の人々はなぜならミレニアムの事を知ったでしょう?パソコン(PC)にはミレニアム虫という問題があり、1997年から言い続けた。私は初めに注目したのはあのミレニアム虫―Y2Kのbugだが、後になって、このミレニアム虫―Y2Kのbugはミレニアムには入る時期の時にパソコンが動けないか或いは飛行機が予定通りに飛べないか?と言うことに気にしなくなり、気になったのは、神である主は栄光と力によって、全世界の人々に神が間もなく来るようにと警告したのである。
 キリストの再来について最後の関門があり、この関門とキリストの再来と同時に起こるのです。キリストの再来には三つの条件があり、第一;福音は全世界に宣べ傳えられる
  マタイ福音書二十四書14.この御國の福音は全世界に宣べ傳えられて,すべての國民にあかしされ,それから,終わりの日が來ます.これは教会に繋がる光景である。今日まで至る、福音が既に全世界に宣べ傳えられた。
  第二;イスラエルには復国が必要;ユダヤ人はイスラエルを甦らせるのが必要であり、東エルサレムを回復され、三回目の神の宮の再建がなされ、神の宮の祭りを行うことによって、キリストが再来になる。イスラエルは既に1948年に復国され、東エルサレムも回復しただけではなく、神の宮の再建の材料も揃えたようですが、祭司の体制も完備できて、今頃待っているのはイスラエルと中東のアラビア連盟の和平会談が解決できれば、東エルサレムの主権はイスラエルに引き渡せば、神の宮も建設から3け月位で完成できるだろう・・・
  第三:国々の世界で、ローマー帝国の再復興を目指すという十個(十個以上)の国家を一つの国々の世界にされ、そのリーダーは敵キリストと言う。敵キリストの出現で、神の宮に侵入し、自分こそ神であると宣言します.この時に主イエス・キリストが降臨される。
 テサロニケ人への手紙II二章3.だれにも,どのようにも,だまされないようにしなさい.なぜなら,まず背ヘが起こり,不法の人,すなわち滅びの子が現われなければ,主の日は來ないからです.4.彼は,すべて神と呼ばれるもの,また禮拜されるものに反抗し,その上に自分を高く上げ,神の宮の中に座を設け,自分こそ神であると宣言します.
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  今までヨーロッパ連合の気振りは既に出て来て、最も難しい貨幣問題でも統一され、欧州大統領や外交大臣まで揃えての政治外交も、2010年度から始動を始めたので、ヨーロッパ連合も聖書の預言の通りに一つの統一、主権の国家になるのが間違い有りません。
  ヨハネの黙示録十七章17.それは,神が,みことばの成就する時まで,神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ,彼らが心を一つにして,その支配權を獣に與えるようにされたからです.
   

  以上述べた三つの預言もミレニアムが来るまでにすべて起こる。最後の関門;即ち神の宮の再建である。そして死傷である敵キリストが癒され、出現されることになる。これらの預言も近い将来が起こるでしょう・・・なぜなら、ヨーロッパ連合の発展の経緯(過去50年の発展)の時間表;貨幣・外交・大統領・外交・欧州軍隊の進展を確実に見たのですから。すべての変化でも全能の神の手に握られている。只あっという間に世界が変わるので、神の宮の再建について、これだけ最後の関門で、一旦ヨーロッパ連合が発展され、復興のローマー帝国のような国家が再建できるまで、この最後の関門も自然に開かれる。兄弟達よ、この時期も飛ぶようにくるので、そうなると、恩典福音のドアが閉めるようになる。一旦閉められると、主に仕えることが出来なくなる。
  
 もう一度お聞きしたいですが;聖書に記載されるミレニアムの事をなぜなら全世界の人々に議論されるでしょう?このミレニアムのことを聖書に記載される時期にも一致する、これはただ偶然ではないと思わないでしょうか?しかし殆どの人々がミレニアムの真の意味を知らないでしょう・・・
 ミレニアムの意味は「小羊の婚姻の宴」と言いますが、千年の長い時期があります。
 ヨハネの黙示録十九章9.御使いは私に小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ,ときなさい.」と言い,また,「これは神の眞實のことばです.」と言った.
 ミレニアムは間もなく来るが、即ち主イエスの再来で、その時に貴方にとって恐れることがありませんか?
  ルカ福音書十七章27.ノアが箱舟にはいるその日まで,人々は,食べたり,飮んだり,めとったり,とついだりしていたが,洪水が來て,すべての人を滅ぼしてしまいました.28.また,ロトの時代にあったことと同樣です.人々は食べたり,飮んだり,賣ったり,買ったり,植えたり,建てたりしていたが,29.ロトがソドムから出て行くと,その日に,火と硫?が天から降って,すべての人を滅ぼしてしまいました.
植えたりとは、事業に勤める意味であり、建てたりとは家や建物を建設する意味である。
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  では人々は食べたり,飮んだりとは、社交、結婚、生活など,生活には欠かせないことは毎日が進んでいるが、その時にあっという間に洪水が氾濫した。同じようにキリストが再来の時、主があっという間に降臨される。私達それぞれにはそれなりの人生計画があるが、神様に関係ないので、キリストが再来の時に私達は怖がるでしょうし、「地上の諸族はみな,彼のゆえに嘆く.しかり.」。その時に計画何でも関係なくやめなざるを得ない。
  私達にとって、ミレニアムは最も大事なことに気つくべきではないか?パーソコンや貯金がなくなるや不動産価格が下落などを心配する必要がない。慎まなければならないことはミレニアムが近付いているからどうすればよいかをしっかり考えないと間に合わなくなるのである。
  神はこの様な黙示を教えてくださることには主の再来について無関心の人間であれば、どんなに不幸を招くだろう?人類は関心されるのが只自分の生活の品質のみで、眼の見えないことなら、どうでもいいと思うからである。
ミレニアムの話題を思う度に、自然に思いついたのは、、神である主は全世界の人々に、私は間もなく降臨すると警告していたのが間違いない。もう一度言いますが、今になって最後の関門―神の宮を再建することであり、又死傷の傷を負って癒される敵キリストの出現を待つだけです。これらの事が一旦起こると主か再来する。
  旧約聖書二十七巻目にあるダニエル書第二章の大きな金像の話をしましょう;頭は純金,胸と兩腕とは銀,腹とももとは銅,すねは鐵,足は一部が鐵,一部が粘土でした.そしてあの『一つの石が人手によらずに切り出され,』とは、キリストの国で、「その像の鐵と粘土の足を打ち,」前の三つの帝国がなくなったので、
残るのはすねは鐵,足は一部が鐵,一部が粘土でした.
  
 ダニエル二章31.王さま.あなたは一つの大きな像をご覽になりました.見よ.その像は巨大で,その輝きは常ならず,それがあなたの前に立っていました.その姿は恐ろしいものでした.32.その像は,頭は純金,胸と兩腕とは銀,腹とももとは銅,33.すねは鐵,足は一部が鐵,一部が粘土でした.34.あなたが見ておられるうちに,一つの石が人手によらずに切り出され,その像の鐵と粘土の足を打ち,これを打ち裂きました.35.そのとき,鐵も粘土も銅も銀も金もみな共に裂けて,夏の麥打ち場のもみがらのようになり,風がそれを吹き拂って,あとかたもなくなりました.そして,その像を打った石は大きな山となって全土に滿ちました.
  異邦(キリスト教以外の人間と言い)人は歴史の流れの時代において、新しい価値観とは、権勢を追求し、飲み食いを贅沢し、地球すべての目の欲望や肉体の欲望などを追い続けた。キリスト再来の時に世界のあらゆる事がすべて消えるので、今の私達は仕事、事業の為に毎日遅くまで頑張っているが、大きな代価を払っているが実に聖書の言うとおりにその日になると財宝など何もかも役に立たなくなる。
「株」の価値も変化万端で、値上がりの時でも億万長者にもなるが、ある日が屑のように何の価値もない時に頑張って稼いだ金も屑のようになれば、人生には最も大事なことが何を指す?信仰による霊の事を理解するのに、主の憐れみが必要であって、短時間で理解する事が難しいので、早くも聖書の神を理解しないと、もう間に合わないことになる。
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 主イエス・キリストは下記のように人類に警告した;「一つの石が人手によらずに切り出され,その像の鐵と粘土の足を打ち,これを打ち裂きました.35.そのとき,鐵も粘土も銅も銀も金もみな共に裂けて,夏の麥打ち場のもみがらのようになり,風がそれを吹き拂って,あとかたもなくなりました.そして,その像を打った石は大きな山となって全土に滿ちました.」
  いくら金銀の財宝や株や不動産を持っていても、その日になると、すべては「夏の麥打ち場のもみがらのようになり,風がそれを吹き拂って,あとかたもなくなる.」そして、何物でも掴めなくなる。主が再来の時に、この世の価値観も全部ひっくり返され、唯一価値の有るものは、クリスチャンであって、勝利を得られる者である。
  聖書には多くの所に主の降臨を記載されているが「主の日は,盜人のようにやって來ます.」
  ペテロU三章10.しかし,主の日は,盜人のようにやって來ます.その日には,天は大きな響きをたてて消えうせ,天の万象は燒けてくずれ去り,地と地のいろいろなわざは燒き盡くされます.
ヨハネの黙示録では、サルデスにあるヘ會への手紙で;
  ヨハネの黙示録三章3.だから,あなたがどのように受け,また聞いたのかを思い出しなさい.それを堅く守り,また悔い改めなさい.もし,目をさまさなければ,わたしは盜人のように來る.あなたには,わたしがいつあなたのところに來るか,決してわからない.
  聖書の意味では、誰も主がいつか來るか,決してわからない.盜人のようにいつか来ることを分かれば、予防できるが、知らないから予防できないので、予防の準備をしておかないといけない。
  主イエス・キリストの再来について、信じるクリスチャンも居れば、信じていない人もいるが、クリスチャン以外の人間であれば、間違いなく考えたこともない。ヨハネの黙示録の預言通りに主は降臨の時に全世界の誰でも、又肉体が一度死んだ人でも「すべての目,ことに彼を突き刺した者たちが,彼を見る.地上の諸族はみな,彼のゆえに嘆く.しかり.」

 主を信じ、洗礼を受けてから、聖書の勉強を通して、主への認識を得られる。そして神様の恵みが賜割ってくだされば、その霊の悟りも開かれるであろう。御霊のお導きもより明確に理解できる。そして善事をよく行い、戒めを守れ、いつも慎むように主の再来を待つことによって、その日の時に恥ずかしくないように主にお会いできればと思うべきではないか?ミレニアムとは神からの一つの警告と言っても宜しいでしょう・・・
  ここで聖書の言葉を見ましょう;「すべての目,ことに彼を突き刺した者たちが,彼を見る.地上の諸族はみな,彼のゆえに嘆く.しかり.」。要するにここの聖書から理解出来るのは主の再来を見る人々には、喜びとうれしさがない。なぜなら非クリスチャンの人間なら、大変でしょう、、もう何をやっても間に合わないが、神は愛であり、憐れみであるが、主の再来の時に審判のときですので、そういう愛や憐れみが既に過ぎ去った。今は正に神が愛や憐れみを施す時期で;
  ペテロU三章9.主は,ある人たちがおそいと思っているように,その約束のことを遲らせておられるのではありません.かえって,あなたがたに對して忍耐深くあられるのであって,ひとりでも滅びることを望まず,すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです.
主はひとりでも滅びることを望まず,すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのですが、主の再来の日になれば、悔い改めることができなくなり、いまならまだ機会があり、今のうちに主に仕えなければ、終わりの日が近づくと仕える事が出来なくなる。
 へブル人への手紙三章13.「きょう.」と言われている間に,日々互いに勵まし合って,だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい.14.もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば,私たちは,キリストにあずかる者となるのです.
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  私は繰り返して申しましたが、ミレニアムに対する感覚が特に異なる。1997年に全世界のイたる所で、ミレニアムの話題を持ち切りで、私の心には何となく不安がする。御霊は私の中で「ミレニアムの意思は何ですか?と聞かれた私は;千年の宴であります」と答えた私である。御霊は再度聞かれた;では千年の宴はなんですか?私は答えた;主がおみえになるのです。そして御霊は又「全世界では私が来るといえば、貴方は何の為にお忙しいですか?それを聞いた私はビックリした。当時の私はイスラエルの復国―1948年;東エルサレムの収復―1969年;この間には21年の間隔がある。そして神の宮が三度目の再建と主イエス・キリストの再来まで、早くても50年から70年までかかるだろうと思い込む;何しろ聖書の預言によると通常実現できるまで数十年以上がかかるだろうと思っていたので、少なくとも私にとって、事業にもう暫く頑張れるのではないかと思いました。ところでミレニアムの話題ばかりで、神様よりの警告を受けた私は慎んでいるように、もうここ数年ですよ、主の再来ではとしみじみ思い始めた・・・
  敢えて言えば、キリストの再来について、この二・三十年の間ではないか;その時の私達が何をしているでしょうか?契約最中かな、結婚の披露宴やそれとも株の売買をやり取りする所でしょうか?聖書預言の通りに今にある世界の流れの事実と過去から現在までの歴史の実証があるので、間違いなく主は間もなく再来となる。 
  聖書をよく読む人であれば、ミレニアムのことを存知だと思いますが、異邦の民の場合、なぜわかる?彼らは人類六千年の歴史―アダムから現在までを信じていない。彼らは人類の歴史が数十万年があると思い込んでいた。ところでなぜ人々がミレニアムの話題まで言うでしょうか?これこそ神様の御技で、世界の人々に警告を発するのである。
  ヨハネの黙示録の一章7節は必ず実現される。この「地上の諸族はみな,彼のゆえに嘆く.しかり.」
を読むと深い感慨があり、アフリカの難民がいくら悲惨でも、地上の諸族は彼らのゆえに嘆くや.しかりなどありませんでしたが、歴史上にはたった一度「地上の諸族は彼らのゆえに嘆く.しかり」を泣かさせることはキリスト・イエスの再来である。主の再来は、人類について言う、非常に恐ろしい事情である。
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  キリストの再来は人類への裁きの為である。主は再来の時に先ず神の家の人を裁いてから、千年後、異邦の民を裁く手順があるので、先ずすべて主を受け入れる人々への裁きから始まり;即ちイスラエル人とクリスチャンである。初めの裁きとは、これらの人々の中から勝利を得る者を選び出し、そして冠をを与える。行いが好くない失敗者を暗い闇や火の湖に投げ込まれるであろう。
 神の家の裁きを済ませてから、勝利を得るクリスチャンは主イエス・キリストと共に雲に乘って來られる。
キリストが再来の際、地上にある勝利を得る者が生きあげされる。生きあげされないクリスチャン地上に空前絶後の大災難で苦痛を味わうことになる。この大災難にいる聖徒は二種類があり、この大災難で勝利を得る者と失敗する者が分けられ、勝利を得るものが勝利者となり、失敗するものが失敗者となり、失敗者であれば、一千年の暗い闇や火の湖に投げ込まれる。ところで、もし大災難で獣や獣の像を拝めば、容赦なく永遠の地獄に陥ることになり、彼らは正真正銘のクリスチャンではないことを立証される。
 ミレニアムで失敗のクリスチャンにとって、千年の苦痛を受けることになり、この千年がどれぐらい長いかというと、今の地球のような時間の感じである。
  キリストの再来に際し、神は先ず神の家の人々を裁くので、過去に肉体生命が終え、死んだクリスチャンが全部復活され、裁きを受ける。この時期と合わせて、クリスチャン以外に死んだ異邦の民は甦りできないが、ミレニアムの終焉の時で、白い御座がもろもろの部族を裁く時に復活し、裁きを受ける。
  キリストの再来で、先に地上に生きるクリスチャンとイスラエル人を裁いて、同時に死んだクリスチャンとイスラエル人を裁かれる;勝利をえる者は基督と共に王となれ、失敗者が外の暗やみに追い出しなさい.そこで泣いて齒ぎしりするのです.

  マタイ福音書二十五章26.ところが,主人は彼に答えて言った.『惡いなまけ者のしもべだ.私が蒔かない所から刈り取り,散らさない所から集めることを知っていたというのか.27.だったら,おまえはその私の金を,銀行に預けておくべきだった.そうすれば私は歸って來たときに,利息がついて返してもらえたのだ.28.だから,そのタラントを彼から取り上げて,それを十タラント持っている者にやりなさい.』29.だれでも持っている者は,與えられて豊かになり,持たない者は,持っているものまでも取り上げられるのです.30.役に立たぬしもべは,外の暗やみに追い出しなさい.そこで 泣いて齒ぎしりするのです.
  キリストの再来によって、失敗のクリスチャンが只一つの反応で―「泣いて齒ぎしりするのです.」当時、どうしてそんなに愚かだったと悔しいであろう。自分のことしか毛頭がない;いまさら・・・・・不動産を買い損ねた人の話によると、買おうとしたが、資金がなかった、そうでなければ今でも3倍値上がって、億万長者にもなったではないが。しかしこれ位でも「泣いて齒ぎしりしないのです.」
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 しかし 兄弟達よ今でも最後の機会があり、お金があっても、土地が残っても、将来どこにも持っていけないので、特に千年の間の土地の場合で、持ち主が常に変えられる。誰でも永遠に土地の持ち主となれないのである。人間の世界には、永遠の事がありません。
私達は永遠の富を追求するのは、教会発展の為に努力を惜しまないし、神の為に幾らの代価でも支払い、これこそ永遠まで存続されるだろう。世界では王や高官の地位変化が多くて、永遠と言うものはない。
  常に主に祈って『主よ私は主にもっともっと仕えたい;あの日が近いので、わたしに残る時間がどれぐらいあるだろうね・・・』主は仰せられた;急がなくてもよい、「私はイエスで、神の子であり、地球に来た私でも3年半しかなかったが、真面目に聖の父の命令に従えば、三年半だけでも足りる」。主イエスが地上でも三年半の福音を述べ伝えた;「構いませんが、時が来たら、呼び召しますから」。もし福音を述べ伝える負担があれば、ミレニアムの正確情報を人々に伝えれば、よろしいかと思います、これが決して易しいことではない。
  今日はミレニアムを知る兄弟姉妹達は本当に信じているのか?聖書;
 ヨハネの黙示録一章:7.見よ,彼が,雲に乘って來られる.すべての目,ことに彼を突き刺した者たちが,彼を見る.地上の諸族はみな,彼のゆえに嘆く.しかり.ア―メン .この節の実現によって、本当のミレニアムの開始元年である・
 
  ヨハネの黙示録一章:8.神である 主,常にいまし,昔いまし,後に來られる方,万物の配者がこうわれる.「わたしはアルファであり,オメガ である. 」
「アルファとオメガである.」,それぞれはギリシャ語の第一個文字と最後の一個文字であり、その意味が私は最初であり,最後である意味で;

  ヨハネの黙示録二十二章;13.わたしはアルファであり,オメガである.最初であり,最後である.初めであり,終わりである.」
イエス・キリストはすべてある。彼は最初であり,最後である.主にとって成就するのが中途半端なことがありません;ここではっきり教えてくださったことには、聖書に記載されるすべてことが必ず実現される。神である主はアルファであり,オメガである.最初であり,最後である.初めであり,終わりである.」しかも主は常にいまし,昔いまし,後に來られる方。これこそ主イエス・キリストの自己紹介であるが。神様の自己紹介を常に私達に当てる一つの問題は主が本当にいますか?と疑問を持つ人がおりま
す。
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 病気の時に主がおりません、困難の時にもおりません、主が居ないと思う時に、この聖書の言葉を注意するように喚起する。神である主はアルファであり,オメガである.最初であり,最後である.初めであり,終わりである.」しかも 主は 常にいまし,昔いまし,後に來られる方。
続きまして、神は「全能者」であり、神にはどんなことでもできます.
 マタイ福音書十九章26.イエスは彼らをじっと見て言われた.「それは人にはできないことです.しかし, 神にはどんなことでもできます. 」
これは神である主は仰せられた;兄弟達よ あらゆる事情の背後には主の手があります。本当に聡明な人であれば、主の自己紹介を見て、自分の不潔な文句などを溝に切り捨て、もっと自発的に教会の為、頑張るではないか?なぜならやってきたことを主が見るのである。
 神である主はアルファであり,オメガである.最初であり,最後である.初めであり,終わりである.」しかも主は常にいまし,昔いまし,後に來られる方。
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