第一講義 イエスキリストの黙示
ヨハネの黙示録一章1.イエス·キリストの默示.これは,すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため,神がキリストにお與えになったものである.そしてキリストは,その御使いを遣わして,これをしもべヨハネ にお告げになった.2.ヨハネは,神のことばとイエス·キリストのあかし,すなわち,彼の見たすべての事をあかしした.3.この預言のことばを朗讀する者と,それを聞いて,そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである.時が近づいているからである.
ヨハネの黙示録一章1.イエス·キリストの默示.これは,すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため,神がキリストにお與えになったものである.そしてキリストは,その御使いを遣わして,これをしもべヨハネ にお告げになった.
第一節からはっきりしているのは、ヨハネの黙示録はイエスキリストの黙示であることを明確に言われた。
奥義とは歴代に隠れている神様の奥密である。その後、新約時代になって、使徒パウロの手紙によって、やっとイエス・キリストの黙示を整うことができるようになったのです。聖書にあるイエス・キリストの黙示に関することが大勢に記載されていたが、ヨハネの黙示録とはイエス・キリストより各教会や僕達に黙示をお与えになるのです。イエス・キリストの黙示というのは、奥義を開かれることを意味する。ヨハネの黙示録を読む時に文面の通りに理解すれば宜しいのです。あだ名に触って書巻の中に解釈が有り、少しのあだ名は別の章や聖書の中に解釈されてある。
ヨハネの黙示録は聖書のなかでもっとも解釈しやすい一巻である。
聖書自身にはその内容を説明するのが揃えているので、そんなに理解しにくいものではない。
ではイエス・キリストの黙示とはどんな意味を持つ?即ち神様からイエスに賜って、僕達にすぐにも起こる事を黙示してくださるのである。イエス・キリストの黙示は神様から将来に起こる予定の事を主イエス・キリストに賜ったのである。
ヨハネの黙示録では、記載されている予言につき、ヨハネの時代以降に起こる予定されることで、予言であるが、確実起こるのです。そして僕達にそれを襲えるので、大勢の人にこのヨハネの黙示録を聞くことができるよ延べ伝える。もし誰かこのヨハネの黙示録は、自分だけ聞けると言えば、この方はサタンから派遣されて来るのに間違いない。
ヨハネは96歳の時にローマの六番目の皇帝からパトモスという島まで追放された。当時の使徒ヨハネが既に2度にわたって、殉道したが、一度目は油の鍋に入れられたが、死ななかった。二度目はパトモスという島まで追放された。ヨハネはこのパトモス島で神様の黙示を受け、ヨハネ黙示録を記録し、各教会にそれを伝えたのである。
ヨハネの黙示録は大凡主後1世紀の時期に出来て、聖書の最後の1巻である。
聖書の一巻目には創世記であり、今から約3500年前、書かれた。作者はモーセである。最後のヨハネの黙示録書を書いたのは使徒ヨハネである。この66巻の聖書は千六百年にわたって、できあがったのある。ヨハネは百歳以上まで生きたかどうか?詳しい記載がないのですが、ヨハネは主イエス・キリストの甥兄弟で、主イエスと同じ年ぐらいで、
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ヨハネ福音書十三章23.弟子のひとりで,イエスが愛しておられた者が,イエスの右側で席に着いていた.主は神様であり、神格を持つので、人間と違って、二人の年齢が大きな開きがなくても、例えとしても使徒ヨハネが主イエスの懐に愛しておられたとか、今になって、大勢の年寄りの兄弟姉妹でも、主に愛嬌を振っていられるでしょう。私達は神様の子供ですので、人間の目から見るべきではない。
主イエスは神である;私達は主イエスがどうやって彼の母親にお話しをかけるか聞いてみましょう;
ヨハネによる福音書二章2.すると,イエスは母に言われた.「あなたはわたしと何の關係があるのでしょう.女の方.わたしの時はまだ來ていません.」又どうしてわたしをお搜しになったのですか?
ルカによる福音書二章49.するとイエスは兩親に言われた.「どうしてわたしをお搜しになったのですか.わたしが必ず自分の父の家にいることを,ご存じなかったのですか. 」
すでにご存知のように使徒ヨハネと主イエスとの年齢が同じぐらいで、世界の年号ー西暦の計算を開始したのは、主イエスのお誕生になった年から計算し始めたのである。使徒ヨハネは九十歳余の時にヨハネの黙示録を書き、彼の年齢を計算すれば、約西暦1世紀末の時期に相当する。
もう一度説明しましょう;イエス・キリストの黙示とは、どんな意味をするでしょうか?即ち神様からイエスに賜って、僕達にすぐにも起こる事を黙示してくださるのである。イエス・キリストの黙示とは神様から将来に起こる予定の事を主イエス・キリストに賜ったのです。多くの人にこのヨハネの黙示録が聞けるように御使を使わして、神様の黙示を僕らに伝えられた。だから簡単に言えば、イエス・キリストの黙示録とは主イエスは使者を派遣し、神様の黙示をヨハネに伝えたのです。
実に第一講義の第一節によって、既に直接表明されたヨハネの黙示録は主イエス・キリストの黙示であるが。この黙示録がそんなに幻しいことではない;かえって非常にはっきりと説明されてある。ヨハネの黙示録の内容によると、すぐにも起こることを意味する。それはヨハネの時代以降の出来事を意味するのである。兄弟達 聖書勉強のことですが、聖書が書かれる通りに言えば、結構であるが、必ず余計な言葉を付け加えるのをやめることである。決して神様の仰セの事を加減しないように言いたい。
使徒ヨハネがよい模範をして見せてもらっている、即ち、見たものや聞いたことをそのまま誠実に記録された。イエス・キリストの黙示はどこから賜ったか?と言うと、ー聖の父よりたまわりである;聖の父より頂いた黙示をそのまま聖の父の仰ぎの通りに主イエスは使者を派遣し、神様の黙示をヨハネに伝えられた。
主イエスから遣わした使者が自分の意思によって、勝手に修正出来るでしょうか?勿論 出来ない。御使も神様の仰ぎの通りに使徒ヨハネに伝えたのです。
ヨハネの黙示録1章2.ヨハネは,神のことばとイエス·キリストのあかし,すなわち, 彼の見たすべての事をあかしした。
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ヨハネは,神のことばとイエス·キリストのあかし,即ち彼は、「見たすべての事をあかしした。」なぜ「見たすべての事を」という文字がある?ここで、注意しなければならないことには二つがあります。第一;好きな事を言うべきであるが、嫌いなことも言わなければいけない。
四福音書に記載される鷄が鳴くまでに,シモン・ペテロが三度主イエスを知らないと言ったことも誠実に書かなければいけない。
マルコ福音書は、シモン・ペテロが内容を述べることによって、マルコが書かれたのです;マルコが主イエスが天に上げられてから、主イエス・キリストを信ずることになったのです。使徒の働きの中にマルコがパウロにしたがって、一緒に福音を述べ伝える記載があり、パウロさえ主イエスキリストに伴った事がないのに、マルコも当然主を見たことがなかった。
マルコの福音書とは、マルコがシモン・ペテロの口述べに基いて書かれた。シモン・ペテロは何を言えば、マルコが素直に聞いたすべてのことを書いた。その中に理解出来ることと理解のできないことも書かなければならない。使徒ヨハネの時代では、ヨハネの黙示録の内容を全くりかいのできないことばかりが、使徒ヨハネが漏れなく忠実に書いた。例えば、ヨハネの黙示録の17章に記載されたあの異象を見た時ヨハネの驚き;
ヨハネの黙示録十七章6.そして,私はこの女が,聖徒たちの血とイエスの證人たちの血に醉っているのを見た.私はこの女を見たとき,非常に驚いた.
上記の聖書には、只非常に驚いたといっただけでした。原因や自分の意見を言わなかった。神様の指示した通りに伝えたのです。
これは非常にいい模範を見せてもらったが、教会の中でメッセージをする時もそうするべきであった。聖の父が黙示を主イエスに仰ぎになって、主イエスが黙示を使者に任して、そして使者がその黙示を使徒ヨハネに伝えた。ヨハネがその黙示を人々に述べ伝えられた。黙示の内容がちっとも変らなく、自分の意志によっての加減もしていなかった。クリスチャンとしては、好き嫌い関係なく、忠実に兄弟姉妹に言うべきではないでしょうか?特にメッセージをする人なら、なおさら忠実に聖書の神様の言葉をいわなければならない。実行すれば、始めて主の忠実な僕と言えるでしょう;
ヨハネ福音書七章18.自分から語る者は,自分の榮光を求めます.しかし自分を遣わした方の榮光を求める者は眞實であり,その人には不正がありません.
勿論これが易しいことではない、誰でも自分の意見や見方を付け加える。私達の霊の中には貧しいものではなく、かえって一杯で、最も難しい点が救い福音を受け入れてから、自分の考え方や文化教育背景より聖書を考えることです。例えば、聖書の文法也文字をよく綺麗にできると感じる人なら自分の専門分野が文学だった為、それ以外に聖書の奥義をちっとも理解できない、自分の好きな部分だけ重視し、同感する部分だけ賛成し、それ以外なら眼を通すさえしない。自分の自我で聖書を批判するので、聖書がこの様な人間にとってちっとも有益ではない、依然としてちっとも変わらない古い自分である。クリスチャンが救いの福音を受け入れてから、元の生活環境の管轄から突破するためにも聖書の教えに従って、そして行動で示すこそ、神様からの霊魂や肉体への祝福が降りられて、完全に新しい人間になれる。
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大勢のクリスチャンは聖書の一部を信ずることを選び、例によれば、主イエス・キリストを信じてから、永遠の命を得られると信ずるが、地獄の火の湖や終わり日の裁きを信じていない。又 今のような時代なのにどうして鬼を追い出すことがあるものか?一生ここまで生きてきて、一度も鬼に出会った事がない。一旦聖書の中にあるイエスが鬼を追い出す所を読むと、それが間違いだろう、鬼ではなく、精神病の病気だろうと勝手に思う。又聖書によって説明する神様は六日で天地を創造され、七日目が安息日だったことを読むと、その時の一日の長さと単位が多分現在と違うではないか?当時の一日の長さがとてつもなく長いものでしょうと生物学や医学を勉強する人なら、こう推測する。
聖書に対する理解方法で、自分なりの考え方によって付け加えて、メッセージをすれば、人々に与える誤会のイメージを与えてしまえば、どうなるでしょうか?七日なら、七つの時期や時期毎に一万年かもしれない、或いは十万年、だから聖書がきさいされる、一日の所要時間は恐らく十万年必要でしょう?と勝手に思い込み人間が少なくない。ですから、進化論と聖書には相違がありません、これこそ別類の聖書解説ではないか?聖書の内容を自我が直してから、自分の意見を付け加える。こうなると神様の御言葉は貴方にとって、ちっとも益がありません。
聖の父より、聖の子、聖の天使、聖の使徒達まで、一脈相続の観念は;神はお仰ぎの言葉をそのまま伝えること、ちっとも勝手に変更することができません。手品のように言う必要がない、玄想やヒステリックのような解説でもするべきではない、
ヨハネの黙示録1章2.ヨハネは,神のことばとイエス·キリストのあかし,すなわち,彼の見たすべての事をあかしした。
ここで「彼の見たすべての事をあかしした」を注意してください。神様の黙示が広大で、主イエスの黙示も広いので、見たことがなければ言うべきではない。例えば、ある人が異言を教える、彼は本当には異言を理解しているでしょうか?彼は心より理解したのか?教えられたとおり異言を言いだし、こころでの感動がちっともない、このような霊の度量加減を存分に越すべきではない。主イエス・キリストの黙示を頂く真実があれば、伝えてもよいが、なければ勝手に言うものではない。これこそ正しい行いであり、神様は必要な器が忠実の器である。YESはYES/NOはNOである。
マタイ福音書五章37.だから,あなたがたは,『はい.』は『はい.』,『いいえ.』は『いいえ.』とだけ言いなさい.それ以上のことは惡いことです.
有る牧師様は言われた。「私がいくら祈っても、子供の熱が一向に下がれない;平日のお祈りも、主も聞いてくださらない。」もしこれが事実なら、彼が言わなくても好いが、嘘を言うべきではない。
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クリスチャンや神様の僕としては、単純であるべき。僕とは神様より派遣を受けるクリスチャンで、
クリスチャンとなった人間は即ち自分の見たすべての事をあかしする。有れば、言い、体験したことがあれば、あかしをする。怪しいものにするべきでなはい。天を開きを見たとか?幻や不真実なことを一切止めるべきである。一体教会でなにを得ようとしているでしょうか?皆の尊敬を集める為でしょうか?基督の国度とは、聖の父から聖イエスまで、また聖イエスより、天使まで、天使から聖使徒まで、すべての足の跡はこのようなものである。
ヨハネの黙示録1章2.ヨハネは,神のことばとイエス·キリストのあかし,すなわち, 彼の見たすべての事をあかしした。
見たことのないことなら、言うべきではない、教会に有益ではない。実際に体験したことがあれば、人々の前であかしをする時の感動が涙を誘うでしょう。今時の教会はある欠点があり、元々真実でないことを持ち出してしまうが、有るものを黙り込んでしまった。私達にとって、例えば恥ずかしい経歴があっても、兄弟姉妹の益にもすることが出来れば、勇敢に持ち出しても宜しいではないか?
教会には玄米米のようなビタミンBやCが必要で、玄米米格好が悪いし、まずいが、栄養が豊富で、たまに貴方からあかしをしたことによって、クリスチャンの霊性が成長した。しかし今の兄弟達はそうではない、あんまり格好にこだわり過ぎて、本当の霊性成長の基礎にある神様に対する認識がどれほど重要な事を忘れてしまった。皆が集まる時にも滅多に聖書を言わない、理解出来なくても、格好を付ける、教会を豊富にする原因は人々こそ神様の肢体であり、各肢体にはそれぞれの効果や悟りがあり、肢体の豊富とは、皆同じものではない、それぞれ異なる器ですので、それを組み合わせると主イエス・キリストの豊富を表すのです。教会の集会の時でも、順番で司会する方でもそれぞれ異なる雰囲気や内容を行っていても、自分の体験をあかしすれば、最高な豊富ではないでしょうか?
しかし我々の天敵であるサタンの囁きによって、皆が格好にこだわり過ぎて、本々基督の中にある豊富を捨ててしまった。実に惜しい・・・・
私は牧師だから、祈ったことを答えてくれなければ、恥ずかしいからと思って、人前でお祈りを全部答えてくれた様子と格好をつけてしまい、これで困ったもんですが、皆はこの牧師が凄いよ、神様にお祈りすれば、目的がすべてできた、羨ましがれる。私も同じようにしなければいけないと嘘や偽りがどんどん出てしまう。
自分でも知らないことを言うが、教会の中で自分でも全然知りもできないことを述べることをよく耳にする。
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有る人は福音を受け入れられたばかりで、その喜びを自分が体験したので、その経緯を証しすれば、人々にも感動させられます。例えば、30年余りのクリスチャンでもその喜ぶを自分の事のように感ずるはずです。救いを得られる方が本当な体験や喜びに溢れることさえあれば、人々のい感銘させられるのです。最近ある国家議員は自分が救いの福音を得られる体験を証しした。数十年間の議員として、権力や特権を使用されてきたが、ちっとも喜びや平和などがありませんでしたが、基督の国度でこの喜びや平和が見つかった。議員としての生活が国民に約束したことが達成できるか?常に悩んで、夜でも眠れないぐらい悲惨だった。しかし今はすっかり主からの喜びに溢れて、過去のような負担も完全に切り捨てられた。
このようなあかしは私にとって、自分の初めての体験と同じように感動させられた。あの議員の顔から神様の能力を見た、このようなあかしを私のような三十年余りのクリスチャンの霊の命に供給され、非常に有益だった。しかし多数のクリスチャンでは、そうではなかった。台の上で自分さえよく知らないあかしをした、それを聞く観衆達が煩わしいし、退屈、嫌気がすると感じる、なぜかというとそれは真実ではなく自分さえ見たことがない事である。
ヨハネは,ここで、述べた通りに、神のことばとイエス·キリストのあかし,すなわち,彼の見たすべての事をあかしした。
私達は主の使者として、神様に奉仕することを学びながら、理解しなければならないことがある。即ち、有るものを全部持ち出して、ないものを持ち出さないように、だから正反対にならないように慎まなければいけない。
どうして主は仰ぎになった;
マタイ福音書十一章28.すべて, 疲れた 人, 重荷を 負っている 人は, わたしのところに來なさい. わたしがあなたがたを 休ませてあげます.29.わたしは心優しく, へりくだっているから,あなたがたもわたしのくびきを負って,わたしから學びなさい.そうすればたましいに 安らぎが來ます.30.わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は輕いからです.」
実にクリスチャンとしては非常に簡単ですが、有るものを全部持ち出し、ないものを持ち出さなければよいのである。即ち正反対にならないように慎しむことである。
コリント人への手紙I三章6.私が植えて,アポロ が水を注ぎました.しかし,成長させたのは神です.
私達は福音を述べ伝えるが、相手が福音を受け入れてくれない最も重要な原因の一つは、言葉の中にあんまり多い偽りの言語を混ぜ込んだ、其の中に自分さえ知らないことばかりを言うのが原因だった。
使徒達がどうやって福音を述べ伝えるでしょうか?
ヨハネの手紙I一章1.初めからあったもの,私たちが聞いたもの,目で見たもの,じっと見,また手でさわったもの,すなわち,いのちのことばについて,
今の私達は福音を述べ伝える内容が上記の聖書内容と正反対で、私たちが聞いたことがなく,目で見たものもなく,じっと見,また手でさわったこともない,このような福音を他人に伝え、変なわびしさの内容を告げると勿論聞く人が福音を受け入れてくれそうもない。
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本当の体験でなければ、攻撃力がないのです。
今日は教会の中で神様に仕える最も重要な事は、神様の言葉を述べ伝えるのです。どうやって述べ伝えるでしょうか?
ヨハネの黙示録一章1.イエス·キリストの默示.これは,すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため,神がキリストにお與えになったものである.そしてキリストは,その御使いを遣わして,これをしもべヨハネ にお告げになった.2.ヨハネは,神のことばとイエス·キリストのあかし,すなわち, 彼の見たすべての事をあかしした.
神様の言葉を述べ伝えて、これこそ容易いことです。
イエス・キリストを信じてから間もない人は主に従っていくことが間違いなく、正しいことと思い込むが、教会通いに暫く経つと、教会には偽りが多いではないか?と気が付く。天敵サタンの最も長所の事は教会の中に攻撃しあうことを置き、教会で大勢の偽りによって、惑わされる。そしておかしい現象が起こる。例えば、常に誰か言うが、「いつも霊の中にあるように」これを聞いた私が問い、どうやって「いつも霊の中にあるように」と質問を受けた張本人は「ともかく「いつも霊の中にあるようにそうすると平和がある」と答えてくれたが。張本人は言われたのが自分さえよく知らないし私も知らないが、聞いた人々も知らないことを認めない。しかし私が知らないのを認めるが、どういう感じで「いつも霊の中にあるように」?もし実際の体験や熟知でなければ、それでは「いつも霊の中にあるように」から「いつも零の中にあるように」となってしまうではないか?
このような状態下で教会も自然に偽りに溢れるよう所になるではないか?当時の地方教会も「いつも霊の中にあるように」と崇めるが、何もかも「いつも霊の中にあるように」。そうすると聖書も読む必要がない、いつもどこでも他人に自分がいつも霊の中にある、喜び一杯と告げるが、暫くすると教会にも来なくなった。口達者でいつも霊の中にある、喜び一杯と告げる人が誰一人も居残りませんでしたが、残ったのは私達のような「いつも霊の中にいないような人間でしてね」。
「いつも霊の中にあるように」と言うことは私がすごく慕うし、知りたいが、教えてくれた誰一人も自分がなにをいうかは知らないと言う。有る人が言われた。「属霊の話しを多めにし、世界の話しを言うな」;どう分析しますか?「属霊の話しとは、御霊に従い、自分の立場を正しくする。」只聖書が読める位で、好いというものではない、愛をもって眞理を語る。
エペソ人への手紙四章15.むしろ,愛をもって眞理を語り,あらゆる点において成長し,かしらなるキリストに達することができるためなのです.
姉妹よ;今日の格好が古臭い、世界上で最も今日の貴方のような様子ではないか?と確かに正直だが、この話しが「愛をもっていないため、好くない」
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霊に属する人なら、肉体に属しない;肉体とは、肉体なりの好き嫌いがあり、自我中心な考えを持つのが肉体の血の気の属性である。霊に属する人であれば、神様に属することになる;大事なのは神に喜ばれることを行なっているからです.自分の考えを捨て、ひとすら神様の教会の利益の為に仕えていく。そうなら霊に属する話しをすることになる。例えば、今日の反省で、昨日の集会の案内役をしっかり仕えていなかったと持ち出して、これが事実かもしれないが、案内役の方に傷を付けてしまった。もしかしたらこれからもう教会に来ないかも知れない、この様な場合で他人を傷つけることによって、敵のサタンの立場に立ち、教会を壊すような話で到底よくない。最も霊に属するやり方は、まず主にお祈りをし、主よ、この様な話を言うべきでしょうか?主から、の感動で言っても宜しい場合でも、再び何時言えばよいでしょうか?宜しければ、次に急がないで改めてどう言えばよいか?主よりの黙示によって、先に案内役を褒めて上げて、彼の努力に感謝の意を込めて、、、、、、もっと愛情をこめての話しの方が宜しい。兄弟達よこれこそ愛のある霊に属する言い方ではないか?言うべきでしょうか?いつ話しますか?そしてどう言えばよろしいか?も同様に神様のの意思によって従うべきである。霊に属する人なら、常にこのような鍛えが必要で、細かい所まで主イエス・キリストに似るよう絶えずに練習され、こうすれば、何を言っても霊に属することになる。
イエス・キリストはサタンの試練を受けて、その時の言うことは何でしょうか?
マタイ福音書四章5.すると,惡魔はイエスを聖なる都に連れて行き,神殿の頂に立たせて,6.言った.「あなたが神の子なら,下に身を投げてみなさい.『神は御使いたちに命じて,その手にあなたをささえさせ,あなたの足が石に打ち當たることのないようにされる.』と書いてありますから.」
これは聖書詩篇91篇の言葉ですが、サタンの口から言い出された。
マタイ福音書四章7.イエス は言われた.「『あなたの神である主を試みてはならない.』とも書いてある.」これが聖書申命記の言葉である。サタンも聖書の言葉を借りて言うので、聖書の言葉を言うだけで霊に属するでしょうか?そうではない。兄弟と姉妹や夫婦の間の喧嘩で双方とも聖書を引用し、双方とも悪魔となってしまった。教会中の喧嘩でも聖書を引用されるが、ちっとも心が一つになれません。
ですので、霊に属する話は人を責める話ではないし、真実を言っても正しいとも言えない。尚聖書の言葉を引用されて、絶対に問題がないわけではない。霊に属する言葉とは、教会の役に立つように、神様に栄光を属するように、そして人と人の間に平和があるように出来上がる。自分だけを考えないで、自分の利益でも、個人の恩怨を切り捨て、神様の立場に立って言うこそ、最も大事なのです。
神様は有る時一つの器を鍛える為に、非常に貴重な所までお導き、
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モーセーが申命記を書く前に創世記・出エジプト・レビ記・民数記の四巻を書きました。この四巻で、すべて「主はモ―セに仰せられた.」しかし申命記ではすべて「モーセーが言う」、モーセーは申命記の内容を言い、その後、この申命記が一巻の聖書となった。主イエス・キリストがサタンから三回の試しに答えるのが申命記を引用された。申命記とはモーセーはイスラエル人がヨルダン川を渡ってカナン地に入る2週間前に国民にこの三十四章の申命記を伝えたのである。その内容はモーセーの私的意見で、内容の中に「主はモ―セに仰せられた.」と言う言葉がなかった。この申命記も全部モーセーの意見だが、全部聖書に入れられた。これは御霊が神様の声を認めることである。
いつか貴方もある程度霊性が成長できれば、神様も貴方に黙示する必要がない;秘書の仕事を長くもやれば、いつお茶やコーヒーを出すか言わなくても分かる。有る程度試練されれば、やることも考えることも聖書の教えの通りになる。ですから霊のあるとは、自分の言葉を慎むことである。事実や正直な話しを言うだけではなく、誠実な性格というが、愛のない言葉であれば、もっと人に傷をつけることになり、教会を壊すぐらい言葉こそ愛のない真実な言葉であるかもしれない。兄弟達よ;
コリント人への手紙I十三章4.愛はェ容であり,愛は親切です.また人をねたみません.愛は自慢せず,高慢になりません.7.すべてをがまんし,すべてを信じ,すべてを期待し,すべてを耐え忍びます.
マタイ福音書十八:21.そのとき,ペテロがみもとに來て言った.「主よ.兄弟が私に對して罪を犯したばあい,何度まで赦すべきでしょうか.七度まででしょうか.」22.イエスは言われた.「七度まで,などとはわたしは言いません.七度を七十倍するまでと言います.
この七十度の七の場合、人間にとってできるはずはない。確かに自分の両親に凄く愛されるのです。自分の両親に對して罪を犯した回数が絶対七十度の七を超えてうたが、相変わらず両親が愛してくれる。
愛があってこそこのような寛容な愛ができるのです。主に仕えるのは真実を言うのが大事である。所で愛に込める真実がもっと大事である。御霊のお導きによって習わせてくださったので、神様の権勢に従って言うのです。いったい私が何を言うべきか?教会の為に何をすべきか?どうやって教会を前進させるか?自分のすきな事を捨て、すべてイエス・キリストの為に仕えれば、もっと神様に使用され、神様にとってこのような人こそ貴重な器である。
テモテへの手紙II二章20.大きな家には,金や銀の器だけでなく,木や土の器もあります.また,ある物は尊いことに,ある物は卑しいことに用います.21.ですから,だれでも自分自身をきよめて,これらのことを離れるなら,その人は尊いことに使われる器となります.すなわち,聖められたもの,主人にとって有益なもの,あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです.
さもなければ、現世にて私達が受けた不公平を全部報ってくだされば、裁き台の前においでになれば、神様があなたの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる必要がなくなるでしょう。
ヨハネの黙示録二十一章4.彼らの目の?をすっかりぬぐい取ってくださる.もはや死もなく,悲しみ,叫び,苦しみもない.なぜなら,以前のものが, もはや 過ぎ去ったからである.」
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神様がなぜ貴方の目の?をすっかりぬぐい取ってくださるでしょうか?現世で貴方の目の?をすっかりぬぐい取ってくださる方がいません.現世でぶつかった不平不満や不公平、復讐できなかったことを審判台の前で、主は自ら貴方の目の?をすっかりぬぐい取ってくださる。もし現世で貴方の目の?をすっかりぬぐい取ってくださったら、「不平不満や不公平」などがないだけではなく、かえって悪者となれば、審判の日で貴方の目の?をすっかりぬぐい取ることができないだろう。もし棺に入った私達が主にお目にかかる時には、何一つ不平不満や不公平がなければ勝利を得る者になれません。聖書には慰めの言葉を賜ってくださる;;
ヨハネの黙示録二十一章4.彼らの目の?をすっかりぬぐい取ってくださる.もはや死もなく,悲しみ,叫び,苦しみもない.なぜなら,以前のものが, もはや過ぎ去ったからである.」
現世で貴方の目の?をすっかりぬぐい取られない;自分の助けをうけた人からの攻撃や批判ほどの涙が永世まで残し、神様から目の?をすっかりぬぐい取ってくださる。もし貴方は霊のある人とは、何ですか?聞きたいであれば、これこそ霊のあることである。これは私がはっきり理解できたことであり、理解できたら、言えるのは、私の原則である。
ヨハネの黙示録一章3.この預言のことばを朗讀する者と,それを聞いて,そこに書かれていることを 心に留める人々は幸いである.時が近づいているからである.
上記の聖書によるとこの預言のことばを朗讀する者と,それを聞いて,書かれていることを心に留める人々は幸いである.読むだけで幸いである、例えば守らなくても幸いであるが;聖書によって「すべて幸いである」。では読んで守れば、幸いである。
しかし多くの人々が守れるが、それを読まなかった。神様の教えを守った経緯は、他人からのメッセージを聞いたからである。自分が読んでいないが、どうして幸いであるでしょうか?この聖書の言葉が非常に特別で、「時が近づいているからである」。
ヨハネの黙示録の勉強を済ませば、ダニエル書で天使からのお告げによる「七十週が定められている.」この最後の一週が来たら、もし貴方がこの大災難に落ちたら、クリスチャンとなってから、行いが合格できないことを意味するので、この大災難で最後のクリスチャンとしての試練を受けることになる。もしこのヨハネの黙示録を読んだことがあれば、この大災難を切り抜けて、この災難から出てくることが出来るであろう。実際の大災難の環境とヨハネの黙示録にある預言がまったく同じだから、遅くても悟りを開く貴方であれば、敵キリストに投降しないで、この大災難から戦い抜くでしょう?
ですので、この預言のことばを朗讀する者と,それを聞いて,そこに書かれていることを 心に留める人々は幸いである.どうして幸いでしょうか?時が近づいているからである.
時が近づいているでしょうか?ヨハネの黙示録は2千年前に書かれたのだが、なぜ「時が近づいているから」。
ペテロの手紙II三章8.しかし,愛する人たち.あなたがたは,この一事を見落としてはいけません.すなわち,主の御前では,一日は千年のようであり,千年は一日のようです.
いつか私達は永世に入る時、あの時の千年とは、現在の一日のように感じ、その時こそ千年の時がどれほど近かっただろうと思います。  
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千年とはどれ位近いだろうか?神様の角度からみればたった一日の時間であるー「時が近づいているから」。
聖書を読みにつれて、最も困難な所には我々が世界観や価値観から聖書を評価する。二千年がなぜ近いと言えるか?神様は近いと言えば近いと思え、これこそ永世に入ってからその訳が初めてお分かるだろう。本当にあっと言う間に過ぎてしまう。
詩篇90篇4.まことに,あなたの目には,千年も,きのうのように過ぎ去り,夜回りのひとときのようです.5.あなたが人を押し流すと,彼らは,眠りにおちます.朝,彼らは移ろう草のようです.6.朝は,花を咲かせているが,また移ろい,夕べには,しおれて 枯れます.
イザヤ書四十章8.草は枯れ,花はしぼむ.だが,私たちの神のことばは永遠に立つ.
私達の肉体生命がこの地球に生きていくのに短くて苦労する、数十年にはあっと言う間に過ぎてしまいます。神様は御座での見方だが、我々人間がどう思いますか?五十年や七十年で長いと思います。
神様の目には,千年も,きのうのように過ぎ去り,夜回りのひとときのようです.使徒ヨハネの時代では、時が近づいているからであると言えば、今さら主イエスがどこにいらしゃるでしょうか??口まで来ている。2千年の前に路地にいるが、今もう?口まで来ているし、ブザーを鳴らすところだったではないか?
その第一鳴るブザーは西暦1948年にて、イスラエルが復国された;第二鳴るブザーは1969年イスラエルが東エルサムを修復し、第三鳴るブザーは・・・・第三鳴る時、玄関のドアーが開くようになり、神の宮が三回目の再建である。一旦神の宮が再建されると基督の再来となる。
マタイ福音書二十四書32.いちじくの木から,たとえを學びなさい.枝が柔らかになって,葉が出て來ると,夏の近いことがわかります.33.そのように,これらのことのすべてを見たら,あなたがたは,人の子が?口まで 近づいていると知りなさい.
いちじくの木はイスラエルを表し、枝が柔らかになって,葉が出て來るというのは、イスラエルが亡国してから復国されるを意味する。「夏の近いことがわかります.」夏とは、キリストのことを指すのです。どういう意味でしょうか?イスラエル復国を見たら、主イエス・キリストが近づいていると知りなさい.
私達の神は既に?口まで来ている。主の再来が非常に近づいているので、ここで主イエス・キリストを述べ伝える時に主の御名によって、自分の霊の中で言わなければならない。自分のメーッセージを慎むようにチエックし、教会には有益であるかどうか?自分のことを持ち上げないように、私達は罪人である;あんまりある兄弟を褒めすぎるとかえって教会に迷惑をかけることになる。
兄弟達よ我々は神様の言葉(聖書)述べ伝えなければならない、聖書では御使を言う時に御使の名前を言い出さない。只神様の言葉を申され、主イエス・キリストの真理を人々に述べ伝える。
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伝える人の名前を提起されるべきではない。全ての人が罪人で、空の空であり、又サタンの権勢下に生きた。主イエス・キリストが釘にされてしまったために私達人類の霊魂をすくってくださった。
人の事を述べ伝えるものではない、言っても教会に有益ではなく、只迷惑ばかりである。この方がどうなるか?唯一の道が神の前で神は裁きを下すのである。他人を批判すべきではない。
ですので、イエス・キリストを述べ伝える時に、聖霊のお供が大事だし、主の御名によるお祈りも極めて重要である。特に聖書にある神の言葉を重点的に言い、主イエス・キリストの御名を言うべきである。もし言わなければ、災いがくるだろう。私達は唯神の黙示を述べ伝え、述べ伝える人の名前を伝えない。人間がお水を飲むが、コップを飲むものではないので、コッポの綺麗さだけいうが、水の美味しさを言い忘れるべきではない。
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