聖書ヨハネの黙示録講義ー(上)作者:呉明憲兄弟第三講 私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり


 聖書ヨハネの黙示録講義ー目録


私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,

ヨハネの黙示録一章9.私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,あなたがたとともにイエスにある苦難と御國と忍耐とにあずかっている者であって,神のことばとイエスのあかしとのゆえに,パトモスという島にいた.10.私は,主の日に御靈に感じ,私のうしろにラッパの音のような大きな聲を聞いた.11.その聲はこう言った.「あなたの見ることを卷き物にしるして,七つのヘ會,すなわち,エペソ,スミルナ,ペルガモ,テアテラ,サルデス,フィラデルフィヤ,ラオデキヤに送りなさい.」
一章9.私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,あなたがたとともにイエスにある苦難と御國と忍耐とにあずかっている者であって,神のことばとイエスのあかしとのゆえに,パトモスという島にいた.
この節の特別所はヨハネの自己紹介で:【私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり】;自分はイエス・キリストの使徒と言えるし主の最愛の使徒であるが、ヨハネは自分を皆の兄弟と言い、使徒とは言わなかった。
十二使徒は有名かつ地位の高い方で;
ヨハネの黙示録二十一章14.また,都の城壁には十二の土台石があり,それには,小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった.
  どうしてできあがったか?あれはふつうの肩書ではないが、永世に残される永遠のしるしで、しかも聖の都には十二の土台石がある。使徒ヨハネ兄弟は教会の誰よりも偉いが彼は謙虚で「私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,隊長ではない」。もし自分が隊長だといえば、人に仕えられるだろうね?兄弟だと謙虚すれば、人に仕えられる。
  私達の兄弟を隊長になっも自分で自分を隊長とみなしていないので、謙虚でつきあってくれる。小さい組の隊長は謙虚ができなければ、旨くいかないだろう。私達は隊長で、ヨハネは使徒で、両方がどうやって比べられるでしょうか?あのような大使徒で、しかもヨハネの母親が肉体イエスのお婆さんでもあり、当初彼女は主イエス・キリストに、自分の息子のヨハネとヤコブを御座の左右に座れるようにとお願いした。
マタイ福音書二十章21.イエスが彼女に,「どんな願いですか.」と言われると,彼女は言った.「私のこのふたりの息子が,あなたの御國で,ひとりはあなたの右に,ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい.」
主イエスの答えは;22.けれども,イエスは答えて言われた.「あなたがたは自分が何を求めているのか,わかっていないのです.わたしが飮もうとしている杯を飮むことができますか.」彼らは「できます.」と言った.23.イエスは言われた.「あなたがたはわたしの杯を飮みはします.しかし,わたしの右と左にすわることは,このわたしの許すことではなく,わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです.」
132

 

私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,
イエスは言われた.「あなたがたはわたしの杯を飮みはします.彼らは主の為に殉道するのを分かるので、主の杯を必ず飮みはしますが、主の為に殉道しても、わたしの右と左にすわることは,このわたしの許すことではなく,わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです.
しかし主の右と左にすわることはできなくても、それに近いことが間違いないですが、この様なヨハネである大使徒が「私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり」という謙虚さで感銘です。今日は人に仕えるのがもっとも凄いところは「私は,あなたがたの兄弟であり」というのです。
  兄弟というのは何ですか?お互いの身分が相当だという。もっと小さい身分の時でもある。只このような謙虚の気持ちで教会や人に仕えられれば、教会の復興には期待ができる。教会の難点には肩書の問題にあり、誰か偉い人なら人に仕えられない。ある兄弟は「イエスはパン屑」というメッセージをした。
マタイ福音書十五章24.しかし,イエスは答えて,「わたしは,イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません.」と言われた.26.すると,イエスは答えて,「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです.」と言われた.
ユダヤ人の話し方で、常に異邦の民を犬と例えるが、この婦人の謙虚さを見てください;
27.しかし,女は言った.「主よ.そのとおりです.ただ,小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます.」28.そのとき,イエスは彼女に答えて言われた.「ああ,あなたの信仰はりっぱです.その願いどおりになるように.」すると,彼女の娘はその時から直った.
カナン人の女とはヨシュア記の時代にカナンに入ってから、絶滅させるべきのカナン民族である。
申命記七章1.あなたが,はいって行って,所有しようとしている地に,あなたの神,主が,あなたを導き入れられるとき,主は,多くの異邦の民,すなわちヘテ人,ギルガシ人,エモリ人,カナン人,ペリジ人,ヒビ人,およびエブス人の,これらあなたよりも數多く,また?い七つの異邦の民を,あなたの前から追い拂われる.2.あなたの神,主は,彼らをあなたに渡し,あなたがこれを打つとき,あなたは彼らを聖絶しなければならない.彼らと何の契約も結んではならない.容赦してはならない.
ところでイスラエル人は神のみことばを耳にしなかったので、カナン人が彼らの脇腹のいばらとなった。
民数記三十三章50.エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で,主はモ―セに告げて仰せられた.51.「イスラエル人に告げて彼らに言え.あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには,52.その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い拂い,彼らの石像をすべて消滅さす彼らの鑄造をすべて根絶させる,彼らの高き所をみな,こぼたなければならない.53.あなたがたはその地を自分の所有とし,そこに住みなさい.あなたがたが所有するように,わたしがそれを與えたからである.54.あなたがたは,氏族ごとに,くじを引いて,その地を相續地としなさい.大きい部族には,その相續地を多くし,小さい部族には,その相續地を少なくしなければならない.くじが當たったその場所が,その部族のものとなる.あなたがたは,自分の父祖の部族ごとに相續地を受けなければならない.55.もしその地の住民をあなたがたの前から追い拂わなければ,あなたがたが殘しておく者たちは,あなたがたの目のとげとなり,わき腹のいばらとなり,彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを惱ますようになる.
  その後、カナン人がイスラエル人に偶像を拝ませ、亡国まで追い込まれた。カナン人とイスラエル人の間に非常に複雑の関係がある。
133

私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,

 主イエスはこの地上に来られて、「遣わされる」と言われたが、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません.」と言われた.カナン人が含まれていません。
その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。15:23しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。15:24するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。15:25しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。15:26イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。15:27すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。15:28そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
この件から考えれば、カナン婦人の謙虚さと信仰心で、主は答えてくださったが、普通の人間で、小犬の事を聞くと、頭に血がのぼって振り向かって行ってしまうものではないか?しかしこのカナン婦人の話が小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。この兄弟の主題は「イエスはパンくずです」。
もし主イエスはマトモナぱんであれば、大勢の人がそのパンを食うことができないが、パンくずですので、人々に仕えることができたのです。
ここで主イエス大きさと謙虚さにに感謝しなければいけない;使徒ヨハネは主イエス・キリストのような形があるので、私達に言われたのが「私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり」。次に「あなたがたとともにイエスにある苦難と御國と忍耐とにあずかっている者であって,」これこそヨハネに栄光のあるところです。
  世界には栄光ということに対する判断は、一般的にお金があり、権力があり、又地位や肩書が付き、政府高官などですが、ヨハネとしての見方は「私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり」。次に「あなたがたとともにイエスにある苦難と御國と忍耐とにあずかっている者であって,」。
134

 

私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,

  私達もヨハネと同じようにイエスにある苦難と御國と忍耐とにあずかっている者でありましょうか?主の再来の時にヨハネのような行いを少しでも実行したかどうか・極めて大事ですが、基督の国度とは、戒めを守るべきで、日本国家には日本の法律があって、法律の範囲内で暮らせば、安泰ですが、法律を違反すれば、裁かれることになる。
  今のクリスチャンは昔の世代の兄弟達のよう大艱難や大迫害を受けることがなかった。風邪や病気でも我慢して、無理にしても礼拝の集会を守って、これも小さい艱難と言えようが、一旦困難の時に例えば、病気で倒れたので、主になぜ病気をさせてもらったでしょうか?私が主に親しみたかったのですが、なぜなら、試練がひつようだから。クリスチャンとは誰かの忍耐力が強いか?主の為に我慢比べではないか?
はっきり言えば、人間って家族以外の方に思いやりができれば、難しいだろうがクリスチャンとしては、そう言う思いやりのある人間になるのが大事で、善事を行うのも神様の戒めですので、できるだけ謙虚で、ヨハネのように「私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり・あなたがたとともにイエスにある苦難と御國と忍耐とにあずかっている者であって,」
  世の中に国家議員が当選してから、お祝いの為に食事会を開いたり、そして賄賂や不正な事で、利益を分かち合いですが、クリスチャンの場合はそうするべきではない。神様は重視しているのが「貴方はイエスにある苦難と御國と忍耐とにあずかっている者であって,」
  だから病気になっても主に仕えることは、神である主は貴方を大事にされていることです。私達は基督の為に迫害を受けたり、誤解されたり、この様な機会がすくないので、自分を神様に大事されるのは、どれほど幸せだった、今の時代で、主の為に迫害を受けるのが難しいでしょう?
  主の再来の時に、これらの機会も全部過ぎ去ったので、この時にも、全能の主の為に働くことができなくなる、なにしろあの日全能の主の栄光が現れる時期で、もし貴方の身体には少しでも主の為の艱難の記号がなければ、
135

 

私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,
忍耐事の中にもなく、迫害を受けた傷でもなく、完全に綺麗な外観、清潔な一人で、このまま、基督の国度に入ってもちっとも価値がありません、貴方こそ恥ずかしがり永世にはいることになる。主イエスはよみがえってから彼の手にある釘傷から識別されたのです。十二使徒の中に何人か同じ様に十字架を釘につけられて殉道した。ペテロは逆さかで十字架を釘につけられて殉道したので、実に栄光のある殉道でした。永世に入れればペテロの手や足に釘傷が見られるでしょう。
  使徒ヨハネは油鍋に投げ込まれたことがある。彼は言われた;「私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、」次にわたしヨハネは、「神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
  ヨハネは島に閉じ込められた生活がどれほど苦しいでしょうが、一言も言わなかった、単にパトモスという島にいた、そして「神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」主の福音の為に約百歳まで生きたヨハネの一生は人間の目で見れば、苦しい人生だろうかと思うが、永世の栄光、福のある永世のヨハネならではの話だが、どれほど羨ましがられるでしょう。
主イエスは馬小屋に誕生され、誰も知らなかった。主イエスは天国にあるすべての栄光を捨て、
常にいまし,昔いまし,後に來られる方―の神の地位も捨て、私達の為にこの馬小屋に誕生した。それでも
確かな誕生日も教えてくれないし、世界にいた時の苦しみも言わなかった。ということで、ヨハネはここで自分がどう暮らしているか・一事も言わなかった。只言われた;「「私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、」次にわたしヨハネは、「神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
 私は常にある神のしもべの方を提起し、彼の言われた言葉がある;「三分の一の仕え、三分の二の隠れ」、この三分の二が自分と神の間の事ですので、私達は只「パトモスという島にいた。」それ以上、言う必要がない、言えば賞がなくなる。
136

私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,
  将来主審判台の前に来て、すべての人々が自分の委細を赤裸々に申してしまえば、では主には何も言えなくなるではないか・・・だって現場にいる人間もすべてわかったでは・・・どうですか?「三分の一の仕え、三分の二の隠れ、謙虚に謙虚が大事」。謙虚に主に仕えることで、仕えることは人に言うものではないということです。もし謙虚ではなく、誇張的に過ぎれば、土台のない仕えとしかいえない。樹のように土地の上に見えるが、その土台の根が土の下にあって、見えないものです。見えない土台が多ければ、暴風雨が来る時に丈夫で倒れない、樹の年齢が長ければ長いほど、70~80%が見えないので、あの樹を倒すのも難しいだろう。同じように主についていって、人々に自分のすべてをお見せするべきではない、そういう行い自体が価値がありません。
使徒ヨハネはここで話した内容が自分の苦しみや迫害などを一切いわなかった;このヨハネの黙示録を書く時にも90歳余りの年齢でしたが、自分一生の苦しみ体験を提起しなかった。だからヨハネの一生をどれぐらい迫害や艱難を受けたかを知らない後世の人間だが、将来主の再来の時に主から聞けるかもしれない、その時こそ私たちが恥ずかしい気がする。
  次に1:10ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。
  パトモスという島に放逐されたヨハネは、奴隷となって働いた。決して伝道の為にパトモス島に来たことではないのですが、なぜなら「主の日」のこと知ったのですか?ヨハネが長い間パトモス島に放逐されてきた。よく「山の中に長くいると時間の流れが無意味になる」。ところで、使徒ヨハネはなぜ主の日を知ったのですか?
はっきり言えば、私達は主にくっ付いて、ある時には皆で一緒に伴わなければ、中々易しい乗り道ではないと感じるが、ヨハネは環境悪劣の島に居て、当時の権勢や不信者に反対され、これほどの艱難でも主の日を守ることができるということは、これこそ最も深い霊の体験をされたではないでしょうか・・・聖書の「主の日」と言うが、私も非常におかしいと思うが
137

 

私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,
しかしよく考えて見ると沢山の主の黙示は主の日で黙示してくださるのであるので、主の日を軽視してはいけない。神はわざわざ主の日を選び、ヨハネに黙示する。
ヨハネの黙示録1:10ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。
なぜなら「聞いた」「御霊に感じた」ー もし御霊に感じたことがなければ、いくら大きな声でも聞こえない。今日のように礼拝中でミレニアムのメッセージをしても、御霊に感じたことがなければ、貴方は聞いたようだが、実際に聞き取れなかった。ちっとも感動していない、教会を出て、翌日になってすぐ忘れてしまう。
ヨハネは「主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。」なぜならうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた?通常私達の話しあう時に、人の対面で、話をする、ところでここで後ろの方からヨハネに言うのですか?その原因は人間の知識や考えや神様と正反対のようです。
  神様は私達に仰せられるのが通常後ろの方からです。神様から見れば、人間が常に間違う道に偏る。私達には信仰心がなくなる時に、神様はうしろの方から「信仰を持ちなさい」。丁度信仰が弱くなって、逆らうところだった。ミレニアムの時に神様は後ろの方からの警告に私たちが背中から向かっていったのでした;世間の仕事や、家庭の仕事や、飲み食い、マイペースで自分の人生計画に夢中し過ぎて、神様について行ってなかった。
だから神様は「後ろの方から大きな声がする」。兄弟よ、早く振り返ってみる!主はすぐ速く来る、あなたはまだ何をしているか?』。そして『ラッパのような大きな声がする』;『ラッパのような』というのは、戦争が始まる。軍隊が戦場に向かって突き進むことになる。
ここで、主の声は『ラッパのような大きな声がする』;主の兵士になれ、聖の兵士になれ;クリスチャンとしては、遊んではいけない、主の為に兵士になって、突き進め。そして、何をいわれたのですか?
1:11その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。
神様はヨハネに言ったのはこの七つの教会に手紙を送りなさい。この七つの教会の光景は当時の世代でそれぞれの光景が異なって、同時に当時から現在までこの二千年教会の歴史の予測である。教会の発展もこのヨハネ黙示録の予言通りに現在までいたる。
【神様はヨハネに言った;あなたが見ていることを書きものにして、】今のクリスチャンは教会に仕えるよりも先ず自分の都合が先決であり、又自我と教会の利益を合秤にしてから、自分に有益の事を先に決める。
教会は次やいいえ次の次かもしれない。遠いから、教会にいけないという人もいるが、仕事や利益の為に遠くても必ず行く方が多いでしょう?貴方はどっちでしょうか?
138

私ヨハネは,あなたがたの兄弟であり,
  ところで使徒ヨハネはー第一;彼が老人で、第二;主の為に多くのの苦しみを受けた。第三;彼の周りにはなにもない、島だから。このような環境下でどうやって主に仕えられますか?
  神様はヨハネに言った;【見ていることを書きものにして】。もし貴方はヨハネであれば、どうしますか?
 そんなに悪劣の環境で周りに何もないから、それとも疲れたから、又お腹がすいた等など言い訳するかもしれないでしょう?又島に追放されて自由の身ではないから、また何か出来るかしら・・・この時期のヨハネは既に九十歳超え、主にもう六十年以上仕えた、このへんぴな島で深呼吸以外、何か出来る?これこそ私達の考えではないでしょうか?
現実の教会では、確かに言い訳する人が大勢いる。歌が旨くないし、音楽専攻でないと、まさか聖歌隊に入る成員には音楽専攻でないとできないことはないでしょうか?主に仕えることになるといつも言い訳する。しかしこの後ろの方からラッパのような大きな声がする;主から委託されればどうするか?喜んで受けるか?それとも言い訳して逃げるか?正しく選択してください、永遠の命にかかわるから。ヨハネはそのような環境下にいてもすぐさま「かしこまりました」こんなに困難な状態でも喜んでやりますとこれは私達の模範ではないか?それで、ヨハネは神様の言われたとおりに「自分が見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りました」。
  神様はヨハネを通して、このヨハネの黙示録を書きものにすることによって、各教会に神様の言葉を伝達することです・
139

TOP