聖書ヨハネの黙示録講義(下)作者:呉明憲兄弟


第十九講;二人の預言者は(十一章1〜14節)

二本のオリブの木、また、二つの燭台である。



ヨハネの黙示録十一章

11:1それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。11:2聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。11:3そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。11:4彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。11:5もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。11:6預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。11:7そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。11:8彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。11:9いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。11:10地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。11:11三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。11:12その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。11:13この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。11:14第二のわざわいは、過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。

11:1それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。11:2聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

使徒ヨハネは教えて下さった;つえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。この言葉から浮かんでくることだが、礼拝を守る事が極めて重要である。大きな災難を逃げ避けることに関わる。

大きな災難で、神の宮と神の宮で礼拝を参加する人のみ、このつえのような測りざおを与えられる。それ以外、全部踏みにじられなければいけない。

七章にある勝利を得る者がとりさられたが、地上に残されるの光景のクリスチャンがまだ神によって保たれる。四十二か月とは3年半のことですが;「聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。」

この時期の地球では敵の悪魔がクリスチャンをとことん迫害され、主イエスはクリスチャンを迫害する人々に災いを与えるため、死ぬ人が多くて、恐ろしい。

50

 

 この「神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい」と言う神の御心ご理解できるように、そして、本当に神を信ずるであるか?どうか極めて重要で、神のご判断を仰ぎます。だから、神はこの大きな災難が来る前に、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測るが、聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。

  神の聖の都である新エルサレムを論ずると、城の中に神の聖の宮があって、聖の宮の外に庭が有り、そして入っていくと、聖所の部屋があり、もっと入ると至聖所がある。上記の聖書の言葉を読むと、聖所と至聖所には問題がなさそうですが、聖の都と聖所の外の庭が四十二か月の間この聖なる都と神の宮の外庭を踏みにじるであろう。

ここでもう一度自分に言い聞かして下さい、自分の信仰の光景が如何なものであろうか?もし聖の都に居るだけで救いを得るだけで、恐らくこの42か月の間にある大きく災難に陥るだろう。至聖所に居れば、大災難の前に特に取り去られてしまうが、聖所の部屋にあるのが恐らく比較的に短い災難にであうでしょう。

旧約聖書から分かるように、聖所の外庭に居るのがレビ人であり、供えた仕事を献上することに備えて、例えば;牛や羊を殺すなどである。霊のある仕事につき、体の動きの労力をする人が多いのですが、聖所にはいると人が少なくなり、至聖所まで、只一人だけでー大祭司しか入れない。又一年に一度だけである。これは何を意味するでしょうか?これが神の栄光を見る事が出来る人は非常に少ないだろう、要するに取り去られる勝利者が少ない。

ここでもはっきりいわれますが;それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。

外庭とは牛や羊を殺す場所で、供える仕事を献上するところであり、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。ここで至聖所をを論じていなかったが、誰も至聖所で礼拝をする事が出来ないし、至聖所も測る必要がなく、勝利を得る者が取り去られたのです。

今頃 主に従うにもいくつかの状況がありますが、聖の都に入れば、もっとも外側の事を言い、聖の宮に入れば、外庭と聖所と至聖所に分けられる。外庭とは牛や羊を殺す場所で、供える仕事を献上するところであり、労働力の必要で、皆に働き姿が見られているので、非常に賑やかでも、神にそんなに重視されていないが祭壇を測る必要がある。続いて聖所に入れば、聖所には主に三つの仕事が有り;

出エジプト記40:4また、机を携え入れ、それに並べるものを並べ、燭台を携え入れて、そのともしびをともさなければならない。40:5あなたはまた金の香の祭壇を、あかしの箱の前にすえ、とばりを幕屋の入口にかけなければならない。

金の香の祭壇とはお祈りのことを意味し、燭台を携え入れて、そのともしびをともさなければならないとは、神のみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

詩篇119:105あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

 だから教会は金の燭台と言われ、神のみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

又机を携え入れ、それに並べるパンを並べ、神と人間の満足を意味する。

51

 

  教会に来る人が牧師の説教を聞いてから、非常に力強く感じるが、聞いても何も感じない人も結構いるが、説教内容には中身がない。礼拝の時に母の日や旅の感想などを言っても意義がない。母親も罪人で、どこか偉いでしょうか?聖所の中に神と人間の満足が溢れて、聖徒もよくお祈りをするこそ、神にとって一つのエンジョーである。お祈りとは金の香の祭壇と同じように香の煙は神のみまえに立ちのぼる。そして燭台によって、神の言をそのともしびをともさなければならない。言い換えれば、この三つの仕えが非常に重要で、もし貴方の信仰が述べる通りの光景でなければ、聖所に居られるはずがない。このまま見ると、取り去られる標準が厳しいだろう。至聖所の標準は必ず聖所より高い。イスラエルの人口が二千万余りだが、只十四万四千人が取り去られ、その外にすべて地上に取り残される。

聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。この聖所によって、イスラエルがもう一度亡国になる。エルサレムが踏みにじられるので、亡国と言えよう。ですので、1948年にて、イスラエルが復国してから、近い将来にもう一度亡国になるだろう。ところで、今回の亡国時間は非常に短く、只三年半だけである。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。

  ヨハネの黙示録11:3そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。11:4彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。

  この「1260日」は前の2説にある四十二か月のことで、即ち三年半である。聖の都は世界連合軍の敵基督によって、攻撃され、神は二人の伝道者を地上に伝道の為に遣わした。旧約聖書のダニエル書九章27節によって、「彼は」一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。この彼とは、敵の基督である。彼は多くの国と同盟を固める。この多くの国と同盟を固めるというのは、必ずエルサレムとイスラエルとは大いに関係が有る。

ダニエル9章27の予言によるあなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。

52

 

  「彼は」一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。私のみかたによると、この敵基督は元々普通な人間で、政治力があり、ヨーロッパの大統領となった人間で、世界の国の首脳を集めて、イスラエルによる聖の宮の再建に同意した。勿論あの会議にあって、少なくともあるアラビア国家元首とヨーロッパ連合の成員はその会議に参加し、会議の最後の決議にちき、エルサレムをイスラエルに返還するように決定する。東エルサレムの主権が決まらなければ、双方が戦争を続けるしかない。神は既に発って、環境を整えるようにし、九一一事件の原因がエルサレムには誰の主権という問題にある。今まで、イスラエルとアラビア連盟の間に最も大きな問題はエルサレムが誰のものに帰するか?

イスラエルとしては、パレスチナの建国に同意できるが、その条件には、東エルサレムをイスラエルに返さなければならないと言うのだ。パレスチナにとって、非常に受け入れたいが、受け入れる事ができないのだ。なぜかというと、イスラム教の三大聖地の一つという事実があって、パレスチナが一方的にきめることができないし、必ずアラビラ同盟全体によって決議しなければならないのだ。ということによって、誰か世界的に幅利かす事が出来るリーダーは、インテグレーション者として、和解を測るように促進するので、この方が来る敵キリストの前身である。

  彼は多くの国と同盟を固める。この多くの国と同盟を固めるという所を読んだ時によく分からないですが、何年たってから、悟るようになった。その経緯が、基督は再来の前に、敵キリスオがイスラエルとアラビア同盟を和解させ、アラビア同盟より同意を得て、イスラエル人に聖の宮を再建させるのだ。そうしなければ、この問題には根本的の解決にこぎつけられない。1948年で、イスラエルは復国の後、今まで中東戦争が聖書の教えの通りに戦争が絶えず世界の終了まで続いている、中東戦争、テロ戦争の主な原因は、すべて東エルサレムにある。中東戦争とテロ戦争が世界にとって耐える事が出来ない事によって、誰か世界のリーダが指揮をとって、このことを解決しなければ世界に平和がないと思うので、強い世界は誰なのか?聖書には予言している国家がヨーロッパの大統領である。

  ということによって、イスラエルは聖の宮の再建にこぎ着けられる。彼は多くの国と同盟を固める。この多くの国と同盟を固めるという言葉によって、聖書の予言で、イスラエルによる聖の宮の再建はこの同盟から生まれるのです。多くのリーダの同意によって、「多くの国と同盟を固めるという言葉による目的が聖の宮の再建の為である。

  聖の宮の再建の時期に最後の一週にある。この一週とは、七年の事です。即ち、須イエスの再来の前にある七年の事を意味する。しかし最後の一週―聖の宮の再建の時に主の再来までもう七年が足らずにある時期になる。イスラエルの再建の為に促したこの調停者である敵キリストの前身は非常に大きな政治圧力を受けたので、暗殺されるようになった。ところで、暗殺されたが、死から甦ったことによって、その霊魂が入れ替えられ、本当の敵のキリストが現れるようになった。この敵キリストとは、ロマー帝国皇帝のニロである。後ろで説明します。

  ここまでくると最後の一週の半分までとなって、「彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。

  世界の人々が見られるのは、この調停者が今までイスラエルに近寄りだったが、いつの間にかハイスラエルに反対に切り替えた。では残る三年半の間に勝利を得る者が取り去られたので、

53

 

  地上に残ったのは信仰が弱いクリスチャンだけだった。この時期に霊のあるクリスチャンの声があんまり聞こえなかった。敵キリストによる迫害が現実となり、世界の連合軍を率いてイスラエルを攻撃し、聖エルサレムを42か月に渡って踏みにじられる。

  この時期に、聖エルサレムが踏みにじられると同時に、神は神のふたりの証人に、荒布を着て、彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。彼らは普通なひとではなく、彼らについて聖書研究家による解釈がいくつか見解が違う。この二人の伝道人の一人がエリヤであるのが、争う余地がない。

  マラキ書4:5見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。

 パプテスマを行うヨハネは、只エリヤの心志と能力を表われ、イザヤ書による荒野に主の道を備え;

イザヤ書40:3呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。」

主の再来に当たって、二番目の先鋒、即ちエリヤであるのを指して言われた。主の再来の前にエリヤがお見えになる。そしてわたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう。もう一人は誰でしょうか?モーセだと言う人もいるが、私の見解はエノクである。なぜなら、旧約聖書にありエノクとエリヤだけ、肉体には死の体験をしたことがなく、神によって生きるまま取り去られる。

 

 創世記5:23エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。5:24エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。

列王紀下2:11彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。

ところで、モーセの肉体生命が尽きました。

申命記32:48この日、主はモーセに言われた、32:49「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。32:50あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。

もしモーセが二人の伝道人の中にある一人であれば、ヨハネの黙示録十一章7節によって、殺され、肉体生命が2回も死んでしまうことが理にかなわない。

 

ヨハネの黙示録20:14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

もしモーセが2回目の死と成れば、火の池にいくことになるだろう、だからこの二人の伝道人の中にモーセが存在しません。エノクとエリヤは旧約聖書において、死んだ事がなく、直接神によって迎えられた。彼らはヨハネの黙示録の十一章の記載通りに、殺されてから、肉体が一度死んだと言えよう。なぜなら救われる者には第2次の死を経ることなく、勝利を得る者が第2次の死による害も免れる。

54

 

  もう一度次の言葉を読みましょう;

ヨハネの黙示録11:3そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。11:4彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。

 

ゼカリヤ書4:2彼がわたしに向かって「何を見るか」と言ったので、わたしは言った、「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。4:3また燭台のかたわらに、オリブの木が二本あって、一本は油をいれる器の右にあり、一本はその左にあります」。

旧約聖書の記載によって、二本のオリブの木から金の油が流れて来ます、金の油とは神の生命を表われ、油に火をつけると、明りを差し出す=御霊の運行で、神の恵みである。

ゼカリヤ書4:24:11わたしはまた彼に尋ねて、「燭台の左右にある、この二本のオリブの木はなんですか」と言い、4:12重ねてまた「この二本の金の管によって、油をそれから注ぎ出すオリブの二枝はなんですか」と言うと、4:13彼はわたしに答えて、「あなたはそれがなんであるか知らないのですか」と言ったので、「わが主よ、知りません」と言った。4:14すると彼は言った、「これらはふたりの油そそがれた者で、全地の主のかたわらに立つ者です」。

 これらは二つの燭台であり、燭台が明りが出せるので、伝道と言う。兄弟達我々今は神の言を述べるので、明りを出すという意味合いで、神は私達を通じて、明りを照り出す。

「これらはふたりの油そそがれた者で、全地の主のかたわらに立つ者です」。全地の主とは、主イエスキリストである。だから燭台と証しは二つの武器として、敵の前に現れる。

11:5もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。

聖書は非常に慎み深い。大勢の聖書研究家がこの二人の中の一人がエリヤだと認識する理由によると、彼らは行う神跡が「口から火が出て、敵を焼き尽くす」これは当時エリヤが地上で行い神跡である。

列王記下1:1アハブが死んだ後、モアブはイスラエルにそむいた。1:2さてアハジヤはサマリヤにある高殿のらんかんから落ちて病気になったので、使者をつかわし、「行ってエクロンの神バアル・ゼブブに、この病気がなおるかどうかを尋ねよ」と命じた。1:3時に、主の使はテシベびとエリヤに言った、「立って、上って行き、サマリヤの王の使者に会って言いなさい、『あなたがたがエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして行くのは、イスラエルに神がないためか』。1:4それゆえ主はこう仰せられる、『あなたは、登った寝台から降りることなく、必ず死ぬであろう』」。そこでエリヤは上って行った。1:5使者たちがアハジヤのもとに帰ってきたので、アハジヤは彼らに言った、「なぜ帰ってきたのか」。1:6彼らは言った、「ひとりの人が上ってきて、われわれに会って言いました、『おまえたちをつかわした王の所へ帰って言いなさい。主はこう仰せられる、あなたがエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして人をつかわすのは、イスラエルに神がないためなのか。それゆえあなたは、登った寝台から降りることなく、必ず死ぬであろう』」。1:7アハジヤは彼らに言った、「上ってきて、あなたがたに会って、これらの事を告げた人はどんな人であったか」。1:8彼らは答えた、「その人は毛ごろもを着て、腰に皮の帯を締めていました」。彼は言った、「その人はテシべびとエリヤだ」。1:9そこで王は五十人の長を、部下の五十人と共にエリヤの所へつかわした。彼がエリヤの所へ上っていくと、エリヤは山の頂にすわっていたので、エリヤに言った、「神の人よ、王があなたに、下って来るようにと言われます」。1:10しかしエリヤは五十人の長に答えた、「わたしがもし神の人であるならば、火が天から下って、あなたと部下の五十人とを焼き尽すでしょう」。そのように火が天から下って、彼と部下の五十人とを焼き尽した。1:11王はまた他の五十人の長を、部下の五十人と共にエリヤにつかわした。彼は上っていってエリヤに言った、「神の人よ、王がこう命じられます、『すみやかに下ってきなさい』」。1:12しかしエリヤは彼らに答えた、「わたしがもし神の人であるならば、火が天から下って、あなたと部下の五十人とを焼き尽すでしょう」。そのように神の火が天から下って、彼と部下の五十人とを焼き尽した。1:13第三の五十人の長は上っていって、エリヤの前にひざまずき、彼に願って言った、「神の人よ、どうぞ、わたしの命と、あなたのしもべであるこの五十人の命をあなたの目に尊いものとみなしてください。1:14ごらんなさい、火が天からくだって、さきの五十人の長ふたりと、その部下の五十人ずつとを焼き尽しました。しかし今わたしの命をあなたの目に尊いものとみなしてください」。1:15その時、主の使はエリヤに言った、「彼と共に下りなさい。彼を恐れてはならない」。そこでエリヤは立って、彼と共に下り、王のもとへ行って、

55

 

そこでエリヤは立って、彼と共に下り、王のもとへ行って、1:16王に言った、「主はこう仰せられます、『あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようと使者をつかわしたが、それはイスラエルに、その言葉を求むべき神がないためであるか。それゆえあなたは、登った寝台から降りることなく、必ず死ぬであろう』」。

エリヤはこの神跡を行ったので、ヨハネの黙示録十一章にある二人の伝道者の中の一人がエリヤだと断言でき、これに異議がありませんでした。

ヨハネの黙示録11:6預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。

この「天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。」これもエリヤによる行う神跡である。

ヤコブの手紙5:17エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。5:18それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。

しかし「さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。」上記の神跡はモーセによる行った。

 

出エジプト記7:19主はまたモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえを執って、手をエジプトの水の上、川の上、流れの上、池の上、またそのすべての水たまりの上にさし伸べて、それを血にならせなさい。エジプト全国にわたって、木の器、石の器にも、血があるようになるでしょう』と」。7:20モーセとアロンは主の命じられたようにおこなった。すなわち、彼はパロとその家来たちの目の前で、つえをあげてナイル川の水を打つと、川の水は、ことごとく血に変った。

上記の聖書によって、多くの聖書研究家はもう一人の伝道人がモーセだと断言されたが、ヨハネの黙示録11章6節の最後による、「あらゆる災害で地を打つ力を持っている。」。

実に言えば、この荒布を着る二人の伝道人がエノクとエリヤには間違いないだろう。神は誰に神跡を起こさせようとすれば、誰でもさせる事が出来る、それほど大したことではない。しかもエジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった。エノクであれば、神の僕ですので、何を行ってもできる。

出エジプト記7:22エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった。しかし、主の言われたように、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。

この様に解釈すれば、異議がないはずだろう。

56

 

 さもなければ、モーセがもう一度死ねば、肉体の死が2度もあれば、説明のつく事ができないほど問題があるし、又聖書が慎み深いので、基本上、理屈が通じる。当時エノクとエリヤがどうして取り去られる?理解ができなかった。ここに待ち伏せがあった。最後の大きな災難の時に二人が福音を述べ伝えられ、そして、殺され、やっと雄大ですさまじく死ぬ。

ヨハネの黙示録11:7そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。

「底知れぬ所からのぼって来る獣」と言うのは、誰でしょうか?先に下記の聖書を見よう;

ヨハネの黙示録17:8あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。

この初めの言葉が非常に重要で「あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず」。この獣が使徒ヨハネの前に居た人間だったことを意味する。ヨハネがヨハネの黙示録を書く時に、既に存在していない。だからこの人であれば、少なくとも今から2千年前の時代にある。

続いて言われた;「ついには滅びに至るものである」。即ち獣が三年半の間に居てから再び滅び至るものになる。

地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。

上記の言葉につき、我々の世代では、いのちの書に名をしるされていない者たちは、この昔はいた獣を見ると、今はおらず(ヨハネの時に、既に死んでいた)、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。(二千年前の人が再度甦る、しかしそれは、人の霊魂の移り替えるによる話しである。

ということによって、地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣を拝むであろう、この獣を拝む者が火の池に投げ込まれ、永遠に苦しむだろう。

聖書がはっきり記載されてある;

ヨハネの黙示録14:9ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、14:10神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。14:11その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。

引き続き、下記の聖書をよみましょう;

ヨハネの黙示録17:3御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。

直接下記の聖書へ跳び;

ヨハネの黙示録17:9ここに、知恵のある心が必要である。七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。17:10そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。

57

 

 聖書の説明を見るが;ひとりの女が赤い七つの頭と十の角の獣に乗っているのを見た。七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。次に続き

ヨハネの黙示録17:18あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。

この女は大いなる都のことである、又この女のすわっている七つの山であり、地の王たちを支配する大いなる都のことである。地の王たちを支配する大いなる都のことですが、歴史上ではそんなに多くではありませんでした。少なくとも、アメリカのニューヨークや、ロサンゼルスや東京やパリではない。歴史によって、中国北京、ロシアのモクスワ、ドイツのベルリン、パリなどまあまあ候補に挙げられるが、しかし、歴史上におき、最も適当なのが、ロマーである。

候補がいくつか出したが、北京、モスクワ、ロマーの三つから分析すると;七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり。この言葉の説明したように、この都は七つの山に建てられたロマーであり、只ロマーだけこの聖書の条件にあうのです。だから聖書のおしえによって、この獣がロマー帝国である。引き続き;七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。

ヨハネの黙示録17:9ここに、知恵のある心が必要である。七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。

では七人の王とは?次の聖書を少しの手がかりが出来る;

ヨハネの黙示録13:1わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。

先ほど、七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことであると言ったが、この頭には神を汚す名がついていたと言う意味は、この七人の王が神を汚すことである。ロマー帝国には全部十二人の帝王―シザが現れた。今まで歴史上の記載によって、六人のシザーが自分を神と自称したので、この六人のシザーは七つの頭にある六つの頭であり、即ち、七人の王の中にある六人の王である。

次の聖書にもどりましょう;

ヨハネの黙示録17:10そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。

上記の聖書の説明によって、ヨハネの時期に七人の王の内の五人はすでに倒れた。使徒ヨハネの時から遡って、五人の王を自分が神だと自称する王の名前が記載されていた。そして、六人目の王がまだヨハネの時におり、その名はシザのタベセン(音読)皇帝である。それにもう七人目の王がまだ来ていない。

歴史を見れば分かるように、フランス、イギリス、ドイツ、イタリアなどの前身がロマー帝国であり、即ち、一旦分かれたが、再度一つのヨーロッパ同盟国家となった。言い換えれば、これらの国家が又一つの国家となり、即ち十角であり、それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって。

ヨハネの黙示録17:12あなたの見た十の角は、十人の王のことであって、彼らはまだ国を受けてはいないが、獣と共に、一時だけ王としての権威を受ける。

58

 

 引き続き;

 ヨハネの黙示録17:13彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。

上記の言葉によって、歴史上、一時散り離れる十国(聖書の十と言うのは、多いこと)が再び統一を予言した。

聖書が今から二千六百年前に既にロマー帝国の分裂を予言された;

ダニエル書2:41あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。2:42その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。2:43あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。

ダニエルによる予言について、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかし最後になって、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう、ヨハネの黙示録によって、再度連合となるように予言された=

ヨハネの黙示録17:12あなたの見た十の角は、十人の王のことであって、彼らはまだ国を受けてはいないが、獣と共に、一時だけ王としての権威を受ける。

ヨハネの黙示録17:13彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。

「彼らは心をひとつにしている」とは、戦争を経ていないで、一つになる意味である。

  ヨーロッパ連合の討論をし始めの時に、多くの人が反対だった。不可能だと思うから。

上記の聖書を読んでから、神の言であるので、間違いなく成ると信じた。これからますます強くなっていくが、とてつもなく強くなる前に問題が起こり、その問題を解決するたびに強くなっていく事が間違いないのです。だからヨーロッパとは、復興されるロマー帝国である。

一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があり、と 又 底知れぬ所からのぼって来る獣について、この二つについて、何か違うでしょうか?

一匹の獣が海から上って来るとは、地中海より来る、これはロマー帝国の範囲が地中海の周りである事を意味する。地中海から来る権力=即ち、復興のロマー帝国である。

底知れぬ所からのぼって来る獣について、敵のキリストであり、彼は復興のロマー帝国の王であり、即ち、七人目の王である。

もう一か所の聖書を見ましょう;い、

ヨハネの黙示録13:3その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い

その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、死ぬほどの傷を受けた頭は、七人目の頭で、即ち七人目の王である。もし、この死ぬほどの傷を受けた王は先ほど説明した六人の王の内の一人であれば、このような甦る事実には歴史に記載されるべであるが、死んだ前の六人の王が誰一人も甦られなかった。だから、この死ぬほどの傷を受けた王が必ずまだきていない七人目の王である。しかしなぜ死ぬほどの傷を受けたのでしょうか?極めて簡単の成り行きで、彼はイスラエル人に肩よりをした為、アラビア人に恨みを買ったので、仇を討つ為に、暗殺されることbになるでしょう。死んでから、前に述べた5人のうちの一人が底知らぬの穴から来て、この暗殺される第七位の王の体につけ、

ヨハネの黙示録17:11昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって、ついには滅びに至るものである。

59

 

 だから七人目の王が真の復活とは言えない。真の復活は霊魂体の復活で、敵キリストの復活が偽りの復活と言えよう。主イエス・キリストの甦りに見習って、敵キリストが偽りの復活にし、全地が全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い。肉体を見ると確かに死より甦った。

聖の父対悪魔の父サタン、聖の子イエス・キリスト対敵キリスト、御霊対邪霊、先知対偽りの先知の四つの対立によって、最後の1週の時に完全に現れる。敵キリストが死から甦る以降、シザに変え、彼の数字は「人の数字である」。

ヨハネの黙示録13:18ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。

そして、その数字は「六百六十六である。

聖書による教えたこの数字がはっきりしているが、これはその数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。」それは一人の名前である。既にヨハネ時代の前にあるシザー五つのロマ皇帝の事であり、、又七つの頭の内の一人であるため、見つけ出したのがシザーナイル皇帝になる。

 ギリシャ語にあるそれぞれの文字の母音は一つの数字で、シザとニロとを加えると、即ち六六六である。これは18世紀の頃、既にその意味を判明され、19世紀ごろの教会の兄弟姉妹達が、その内にヨーロッパ連合が生まれると予言した。しかもイスラエルが再建し、復国となる。以上のことですが、すべて聖書において、大きな予言である。

 ニイトウセイ兄弟の1920、30年代のお祈りの内容を覚えてますが、イスラエルの国が再建されること、結果として、イスラエルは1948年で、復国となった。しかし教会は1930年代からこの予言の実現の為にお祈りを奉げた。

  我々は1970、80年代の時から、聖書に対する理解によって、その内にヨーロッパ連合が復興されるロマー帝国となる。すべて実現された聖書の予言によって、今年2010年からヨーロッパ主席(大統領総統)が出てきて、又我々にとってもっと期待したい主の再来についての予言のことであるが、その前に最後の1週が敵キリストが現われ、世界のクリスチャンに多大な迫害を与えるなど、その内に必ず予言の通りになると確信する。

 この選び出されるヨーロッパ連合が必ずしも真の敵キリストとは限らない。ダニエル書による;

ダニエル書7:7その後わたしが夜の幻のうちに見た第四の獣は、恐ろしい、ものすごい、非常に強いもので、大きな鉄の歯があり、食らい、かつ、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは、その前に出たすべての獣と違って、十の角を持っていた。7:8わたしが、その角を注意して見ていると、その中に、また一つの小さい角が出てきたが、この小さい角のために、さきの角のうち三つがその根から抜け落ちた。見よ、この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった。

だから敵キリストが、元の十人の王の内のひとりではなく、真の敵キリストが現れる時に、元の十人の王の内の三人の王を滅ぶことになる。

60

 

 「その中に、また一つの小さい角が出てきたが、この小さい角のために、さきの角のうち三つがその根から抜け落ちた。見よ、この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった。」

しかも彼は殺されることにあたって、甦られてから、八人目の王となり、これで彼が敵キリストだと証明される。甦った八人目の王には五人目の王の霊魂が入り込んだ。シザーナイルが狂人で、歴史にある有名な暴君で、ロマーを焼き壊した。只詩を書く為に必要な霊感を作り出したい。歴史にあるロマーを焼き壊す事が小規模で、人類の最後の一週の時に甦る彼によって、もう一度ロマー(パチスカンの城)を焼き壊すことになるが、ヨハネの黙示録十七章に記載される。11章7節に戻りましょう;

ヨハネの黙示録11:7そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。

我々は既に底知れぬ所からのぼって来る獣が敵キリストだと分かった。彼と二人の伝道者と戦って、両方とも神跡を行う。これは正にCF映画を見るだろう。敵キリストが彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺したが、敵キリストの終焉も近付く。

11:8彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。

大いなる都とは、主イエスがこの都で十字架につけられたのである。主イエスはエルサレム都の外のゴルゴタに十字架につけられたので、この大いなる都はエルサレムを指す事である。この時期にエルサレムが既に敵キリストの統制にされ、この二人の伝道人は聖の都エルサレムで殺される事になる。

なぜなら ソドムや、エジプトにたとえられている;聖書によって、エジプトが世界を示し、荒野とはクリスチャンが救いを受け入れてから、試練を受ける。カナンとは、牛乳と蜂蜜の基督を表すのである。クリスチャンとなって、海を渡って=洗礼を受けたこと;エジプトを出てから、世界を離れる意味をする、そして荒野に入る。

多くの人がクリスチャンと成ってから、聖書による神の恵みを受けていないと考えるが、いいえ、そうではありません。只まだ頂いていないだけです。神の恵みを賜って下さる為、試練を受けなければならない。我々は旧約聖書を読んで、イスラエル人が荒野に入ってから、常に不信仰で又神を試した。ここで、反省してください、当時のイスラエル人のように行ったでしょうか?

61

 

  イスラエル人がシナイにある山の前で、神がモーセに現れた

それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。(出エジプト記19章2〜8)

民数記14:1そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。14:2またイスラエルの人々はみなモーセとアロンにむかってつぶやき、全会衆は彼らに言った、「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。14:3なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。

兄弟達 もし貴方も体の調子が悪い、虫歯で痛いや物事が旨く行かない時に会う時に、クレームを言わないでしょうか?イスラエル人のように一旦荒野に入ってから、困難にぶつければ、信仰が完全に失ってしまうでしょうか? だから神はイスラエル人に言われた;貴方達は荒野で10回も私を試した。貴方の前でどれぐらい神のしるしを行っても、相変わらず不信でした。

民数記14:22わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、14:23わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。

神の行ったしるしを見ながら、不信の私達である。すべてのことを用意して下さる神にちょっとしたことで、すぐ信仰を失う人が多い。クリスチャンの多くが物事も旨く行けば、無事にいられるが、旨く行かなければ、主に疑いが生じる。神がどこにいますか?と疑うのです。まったくイスラエル人と同じである。

彼らは荒野にいる四十年の間に、身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。ということを感謝しなかった。

申命記29:5わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。

尚マナと肉が食べられることも記念しなかった。こういうことについて、神のしるしではないか?一旦水がなくなると、すぐでも文句を言ったりし、マナのことを感謝する気持ちが全然ない。水がなくなれば、神の前に、モーセと一緒にお祈り求めればよかろうではないか?何しろ私達の神は全能で、信実であるので、必ず水を賜って下さる。皆集まって、主を賛美し、お水を下さいとお祈り求めれば、必ずお水を下さるので、なぜ文句をいわなければならないのですか?

私達では、クリスチャンとなって、殆ど文句を言う日々ではないか?イスラエル人が荒野に四十年も居て、そして常に文句を言うのが古い自分のことと言えよう。古い世代が荒野に倒れて、死んでしまい、新しい世代が生まれ、新しい人となり、その時にやっとカナンの美しい地に入れる。ある日、我々の古い性格、罪のある自分が、荒野に四十年も居ながら、だんだん死んでいき、消えていくが、早い時期にクリスチャンと成った方が良さそうですが、なぜなら、歳がとればとるほど、神を認識する事が難しくなり、荒野に四十年も入ざるを得ないので。

四十年間、天のマナを頼りに暮らし、マナとは神の言である。そして、周りの環境には、暑さ、大風、渇き、敵があり、このような環境下で、新しいクリスチャンの成長をさせ、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

エペソ人への手紙4:13わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

聖書をよく読めば、この神の意思を理解できる。

62

 

だからイエス・キリストを信じ、洗礼を受け、海を渡り、荒野に入る私達がこれから四十年の試練を受けることになる。しかし海を渡ったイスラエル人ですが、カナンの地に入るのは計算すると十一日で十分なのに、荒野に四十年もかかるとは考えられないでしょう。これも信仰が有るかないかによることで、信仰があれば、十一日で、その牛乳と蜂蜜の美しいカナン地に入れると言う霊の有る意味です。問題には、信仰が有りますか?なければ、荒野で試練を経てから、この荒野の事を考えると、我々の神に対する信仰や認識も荒野に居るお陰で、信仰の命がやっと円熟と成れる。さもなければ、聖書の言を本気で信ずるなら、貴方がすぐでもカナンの地に入れる。もしそう言う信仰がなければ、荒野にて試練を重ねることによって、成長の霊の命が付けば初めてその成長意味が味わえる。

「彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。」エルサレムが神を拝むことろだが、ソドムや、エジプトにかわってしまう;エジプトとは、世界の意味で、ソドムが逆らう意味である。ソドムの罪が極めて大きいので、滅ぼされた。聖書にあるソドムの意味は同性愛の意味で、全都の人々が全部同性愛なので、非常に恐ろしい。

「彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。」

彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。ここで、この都とは、エルサレムを指す意味。兄弟達よ 霊のある人とは、決まり事ではない。牧師や神父や伝教師に限って言うことではない。誰でも同じだが、ちょっと気をつけなければ、ソドムやエジプトに変わってしまう。

11:9いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。

もしかしたら変なわびしさの言葉を読んだと思わないでしょうか?前では色んな映画でしか見る事が出来ない光景を読んだが、例えば、口から火が出て、敵を焼き殺し、又天から雨が降らせない、水を血に変えてしまうなど、本当に聖書を信ずる事が難しいかもしれない。

しかしこの聖書の予言故事には、一件の特別な事を言いました。この二人の伝道人が1260日にわたって福音を述べ伝えたが、即ち敵キリストの統治下の1260日である。この間に敵キリストが彼らを迫害し、追い続ける外に、世界の多くの人も彼らを逮捕しようとし、追い殺そうとする。所で、この二人の伝道人が物凄く強いので、口から火が出て、彼らをおい殺そうとする人を焼き殺す。

この聖書の言葉を読んだ時に、西遊記の孫空と牛魔王のような戦いで、真実ではなかろうと思う。クリスマスの夜にサンタクロースがプレゼントを枕の横に置く話しと全く真実なことと言えない。それはお母さんからプレゼントしてくれたことが分かる。では

私はどうやって下記の言葉を信じたでしょう;11:9いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。

 

63

  確かに聖書を信ずる事が非常に難しいですが、この二人の伝道人が1260日に渡って、福音を述べ伝えたが、最終的に底の知れぬの穴から登って来る敵キリストによって、殺されたが、11節の言葉を引き続き読むと、二人の伝道人が甦ることになる。殺されてから、甦るまで、たったの三日半だけである。

11:9いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。11:10地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。11:11三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。

では上記の聖書による最も特別な所がどこでしょうか?

彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。

9節の言葉による当時の世界(ヨハネの時代)で、考えられない見解の言葉。

11:9いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。

二人の伝道人が死んで三日半の間に、「いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々」=全世界の人々に当たる。全世界の人々が彼らの死体を眺めることが当時の知識と見解では可能でしょうか?勿論、不可能ですが、でも今2010年の技術なら、簡単でしょう。CNNやインターネットの生放送など、極めて簡単なことになった。アメリカの911事件もそうだった。1機目と2機目の間に16分の差があり、ツインタワにぶつかる2機目の生放送を見る事が出来た。全世界のいたるところで、同時に同じ時間台で同じ起こり事を見る事が出来た。

人類はこの技術を開発される時期がインターネット1990年代以降のことで、80年代にはまだ生放送で、現場に方つけるのに、時間がかかり過ぎ、あっという間に起こる事が生放送には間に合わない。飛行機で現場に着けば既に終わってしまう。しかし二人の伝道人が三日半の間、いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が彼らの死体をながめる。聖書は早くも同時生放送の技術が開発される予言し、さもなければ、どうやっていろいろな民族、部族、国語、国民が彼らの死体をながめるでしょう。これも全くアメリカの911事件と同じで、911事件の時に全世界の人々もテレビのまえで、現地の状況を詳しく見る事が出来る。

 二〇〇〇年前の交通、通信技術によって、二人の伝道人がエルサレムで、殺され、その消息が亜細亜やヨーロッパやインドや中国、日本に伝える時間がどれぐらいかかるか、ご存じだと思いますが、当時のヨハネが二〇〇〇年後の技術を書かせるのは神しかおりません。

神は全能者であり、信実であり、公義である。この様な事実を見せて下さるのに、なぜ神に忠実な信仰を持つ事が出来ないでしょうか?又信ずる事が出来ないでしょうか?しかしよく考えて見ると、信じなければ、損するのが自分だけだから、神は依然神である。

64

 

「いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々」=全世界の人々に当たる。二千年後の全世界の通信技術と経済活動を予測できるのが神しかおりません。と言う事を胸に包む必要が大事である。神の事を認識し、聖書にあるすべての言葉を信ずるしかない、一旦信ずれば、守らなければならない、何しろ、人生には二つの事を理解する必要が有り、肉体生命のある限り、肉体生命が尽きる後の自分がどこへ行くかを考えなければならない。この世に

易者や予言者と自称する人間がいるが、そう言う人には、何を予言できるのか?お金の為に予言すれば、すべて自分の利益になる人であれば、偽りのものしか言えない。

三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。全世界の人が同時に生放送を見る予言こそ、真の神である。愚かな人間よ、早めに愚かより醒めろ、真の神であるので、信じなさい、そして悔い改めなさい。この様な世界同時にインターネットにより生放送の技術は1995年以降、開発されたが、2千年前に神は既にこの事を予言された。主イエス・キリストこそ、神である。

65

 

 11章9節〜11節の言葉を読んで、心に浮かんでくる神の全能の栄光である。真の神でなければ、この様な予言が出来ない。予言と言う所だが、神の定める通りに世界が動くであろう。もし少しでも智慧があれば、鳥肌が立って、戦慄するだろう、そして、早くも悔改めて、教会へ行くことになれば、さもなければ、死んでから、成仏ではなく、成鬼となるだろう、そして、地獄の火の池に投げ込まれるだろう。

 もしヨハネの黙示録を信ずる事が出来れば、聖書の全部を信ずる事が易しいことでしょう。児童の漫画には、よく口から火が出て、敵を焼き殺す漫画があり、実際に人間の世界で、行いと、信じられないと思うが、しかし、二千年後の通信技術を予言するとは、人間のできる技ではない。二千年前に、南アメリカから、船でエルサレムまで、恐らく半年ぐらいがかかるだろう。この聖書の言葉による予言は二つが有り、今日の世界テレビ技術の発展とボイング747の飛行機の航行技術で、千キロ/1時間の飛行距離ができる。必ず、この予言を感動しない人がいれば、貴方霊魂がどこへいくかしら。

11:10地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。

理由はなんですか?「地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ」。この言葉の意味は、全世界の人々が二人の伝道人のことの放送を知ったのです。二人の伝道人が殺されてから甦るまで、只三日半だけで、通信技術の進歩で、あっという間に、全世界の人が分かったので、皆喜んで、プレゼントを贈り合い、二千年前に出来なかった事が、2010年の現在で、インターネット技術により、あっという間に全世界に広がる。

66

 

  今はこの言葉を読んでも可笑しいと思わないが、二千年前に、更に百年前でも、それを読んでも、何と言うか不思議に思うだろう。

 所で、聖書には、敢えてこんなに書ける。19世紀の時に、上記の聖書言葉を疑問視するが、まさかだと思う人々だったが、だから18,19世紀の時に、多くの人が聖書を疑う。三日半の間に全世界の人々に、この事をお知らせるのに、インターネットの技術しかなかった。これも高価格ではなく、一般の収入でも買えて、使用できなければならない。今のインターネットが正にポピュラとなって、殆どの人が使えるようになった。

昔の時代では、火の煙で敵の襲撃を連絡しあい、それでも只一つの消息しか伝え出来なかった。

11:11三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。

上記の聖書の言葉によって、理屈でいえば、想像もつかないほどだった。二千年後の科学、通信技術、又三日半の間に、生放送を通じて、見る事が出来て、そして、互いにプレゼントを送り合い、正に真の偉大な神である。もしこの上記の聖書言葉が50年前に書いたとすれば、恐らく大した事ではないと思うが、正に二千年前に書いて。例えば、百年前に書いたとすれば、凄いではないか?百年前では、ボイング747のような飛行機がまだ現れていないのである。

神は二千年後の予言をしてから、世界が神の予言する通りに動いて来る。これこそ神のしるしである。だから11節の言われる通りに三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がった。これは必ず間違いなく実現されるだろう。

11:12その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
67

 

  彼らの敵とは、敵キリストと地上でクリスチャンを迫害する人々である。二人の伝道人が殺される前に色んな災いを持って、世界に攻撃を仕掛けたので、全世界を彼らの敵に回した。同じように、彼らは殺されてから、、彼らの甦るまで、CNNが生放送をし、全世界がそれを見た。

11節の聖書に書かれたとおりに、非常にはっきりし、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。短い言葉で、文字がいくつでもないが、深い意味が含まれる。

 11:13この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。

この都はエルサレムのことで、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。元々、二人の伝道人が敵キリストに負けてころされたが、クリスチャンにがっかりさせられるでしょう。しかし彼らは、必ず、肉体の死を経たなければならない、そして、3日半で、甦る。その日になると、合格できない最後の1週に残されるクリスチャンに信仰と力をお与えるようになるだろう。そして、改めて、我々の神は真の神であると自信を深める。

 11:14第二のわざわいは、過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。

第二のわざわいは、第六の御使が、ラッパを吹き鳴らした。ラッパを持っている第六の御使にこう呼びかけるのを、わたしは聞いた。「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ」。すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。
68