ヨハネの黙示録八章1節~9章21節
第8章
8:1小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。8:2それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。8:3また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。8:4香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。8:5御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。8:6そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。8:7第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。8:8第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、8:9海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。8:10第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。8:11この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。8:12第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。8:13また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。
第9章
9:1第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。9:2そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。9:3その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた。9:4彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。9:5彼らは、人間を殺すことはしないで、五か月のあいだ苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりにさされる時のような苦痛であった。9:6その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。9:7これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、9:8また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。9:9また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。9:10その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。9:11彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う。9:12第一のわざわいは、過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。9:13第六の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、一つの声が、神のみまえにある金の祭壇の四つの角から出て、9:14ラッパを持っている第六の御使にこう呼びかけるのを、わたしは聞いた。「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ」。9:15すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。9:16騎兵隊の数は二億であった。わたしはその数を聞いた。9:17そして、まぼろしの中で、それらの馬とそれに乗っている者たちとを見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた。9:18この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった。9:19馬の力はその口と尾とにある。その尾はへびに似ていて、それに頭があり、その頭で人に害を加えるのである。その尾はへびに似ていて、それに頭があり、その頭で人に害を加えるのである。9:20これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。9:21また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。
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9:20これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。9:21また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。
8:1小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。8:2それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。天と地の間にちっとも音が聞こえなかった、この時に神の僕の中に勝利を得る者が「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。」神によって取り去られた。そして残されるクリスチャンには、与えられるのが大きな患難で、この難しい時代で本当に主の教えを堅く守る事が出来るか?又間違いなく敵キリストの迫害によって、投降しないのか?その肉体の苦痛や苛めに耐えられるこそ勝利を得る者であろう。
ここで言う本当の大きな災難が来ることですが;「半時間ばかり天に静けさがあった」
8:3また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。8:4香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。8:5御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。
上記の3節による「金の香炉」と「香」とは;聖書で香がお祈りの表われで、
ヨハネの黙示録5:8巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
クリスチャンには毎日のお祈りの香が必要ですが、この3〜4節による勝利を得る者が取り去られてから、彼らにはもうお祈りする必要がなくなる。だから神の前にお祈りを捧げられる今の時期にもっとお祈りした方が良さそうですが。
ヘブル人への手紙3:13あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
今頃の教会にはお祈りの上手なクリスチャンが少ない、もっと酷いのは洗礼を受け入れてから、お祈りをしない信者も多いし、何を祈るか分からない。
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クリスチャンとなって、主イエスは私達の為に十字架に釘付けされたことを信じてますか?もし信ずれば、では自分の難所を助けて下さらないわけがないでしょう?清めになって悔い改め、そして知識の認識と行いの実行力を組み合わせが出来るようにしなければならない。聖書の言葉を認識できれば神にお祈りの言葉も賢明になるでしょう。神を信ずることが信仰の基本であるが、信仰があれば、何かあっても信ずるお祈りを続けられるのが大切です;
ヘブル人への手紙3:12兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
自分が罪人と思って、お祈りを聞いて下さらないと思うかもしれないが;
ローマ人への手紙5:8しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
神は罪人に対する愛を示されたのである。
貴方はまだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神の愛は永遠に変わらないが、変わるのが我々ではないか?経年のクリスチャンの経験によって、信者が滅多にお祈りはしません。一つ言っておくが、人にお願いするよりも、神にお祈りをした方が宜しいかと思います。人にお願いするとお礼をする必要があるし、又 人の顔色をうかがわなければならない。遠い道路へ脚を運ぶこともないが只跪いて、お祈り、又お祈りである。
8:4香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。
上記の言葉の後、大きな災難が臨んだ。
8:7第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
地の三分の一が焼けたので、もしかしたら貴方の家まで焼ける可能性が小さくない。木の三分の一が焼け、植木を買わなくても好さそうです。また、すべての青草も焼けてしまった。これは非常に恐ろしい災難であろう、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきて、すべての青草も焼けてしまったと想像すれば、全地にはあっちこっとにやけどだらけではないか?幾らお金があっても残れないだろう。
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8:8第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、8:9海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。
これはまったく超自然の力ではないか?「火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた」。宇宙から隕石や何か飛来し、落ちてしまっただろう。この光景でもよくハルマゲドンの映画を目にしたことがあり、想像すればわかるだろう。
「海の三分の一は血となり」―このエネルギのパワーはどうなものでしょうか?この様な悲劇を招く、三分の一の海がなくなる。当時のヨハネはこのヨハネの黙示録を書く時にまったく宇宙知識のない時代だったのになぜ二千年後の光景が描ける?「火の燃えさかっている大きな山のようなもの」とは、流れ星をご存知ですか?隕石が大気圏に落ち、空気摩擦による燃え、通常、落ちる途中まで、すでに焼き払うことになるが、焼き払っていない隕石もあって、地津面に落ちたら、一つの隕石の穴を形成してしまう。ここの描きが、規模の大きな隕石であり、地面に堕ちても、大山のスケールがあるので、「大山」と呼ばれる。
火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、8:9海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。津波が起きて、大量の船が壊される。常に船に乗る人間が慎んだ方がよい。
このエネルギの破壊パワーだが、聖書による計算が頗る丁度適切であろう。これは「御怒りの大いなる日」。神はこの地球の人類を裁き始める;
ヨハネの黙示録6:17御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。
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8:10第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。8:11この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
これもまったく一つ目と二つ目のラッパと異なるが、宇宙から落ちてくる別の星であろう。第二号と第三号によるすい星が地球にぶつかるが、第三号の星が地球にない物質によって構成され、あっという間に溶けされ、伝染されるようになる。この星が大気圏を通過する時に、空気摩擦により、火が猛烈に焼かれるので、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
8:12第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。8:13また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。
一羽のわしが、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ」。御使が引き続き、五、六、七号のラッパを吹き鳴らそうとしているので、三回のわざわいだを言いました。前の三回のラッパがこれからのラッパと比べたら、これからの方が恐ろしい災いである。
9:1第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。9:2そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。9:3その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた。9:4彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。
いなごが額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。しかしこの時期に敵基督が既に現れた。額に神の印がない人たちには害を加えてもよいという命令だった。
後ろで敵基督の刻印が読める:
ヨハネの黙示録13:16また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、13:17この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
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七つ目の封印をあけようとする時に「半時間ばかり天に静けさがあった」。引き続き;
御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。その後、七人の御使いがラッパを吹き鳴らし始めた。
聖書の書き方順序は上記のように書かれたでしょ。今頃の教会にある信者にとって最も弱いのがお祈り事である。特に不信仰の悪を持ち、大きな災難に堕ち居ても、お祈りしようとしない、お祈っても助けてくれないと思いがちである。貴方はなぜ助けて下さらないと分かるでしょうか?なぜこのような考えが有るのでは?よく9章4節を見てください;
9:4彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。
上記の言葉に疑問があり、お分かるでしょうか?8:7第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。「すべての青草も焼けてしまったが、なぜ9:4彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、と、言い渡された。すべての焼けた青草が再び成長したのだから。よく山の火事による植物青草の被害があったが、暫く立つと、青草が再度に甦って成長した。
9:5彼らは、人間を殺すことはしないで、五か月のあいだ苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりにさされる時のような苦痛であった。9:6その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。
今の人間が死ぬのが怖いですが、その日になると、酷い苦痛なので、死にたくても死は逃げて行くのである。五か月のあいだ苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりにさされる時のような苦痛であった。全部3年半の大きな災難であるが、このいなごの災難が五か月の間を占めた。
その日に癌やアイズの病気よりイナゴからサソリに刺されることである。
9:7これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、9:8また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。9:9また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。9:10その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。
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その日の怖さを想像してください。ただ家に隠し、いなごの通りを待つだけで、しかし霊のちからによるので、いくら逃げが旨くても、逃げ切れないのです。だっていなごにさそりのような尾と針とを持っている。貴方はどう思いますか?そんなに恐ろしいだろうと想像した事が有りますか?いいえ想像してもその怖さが空前絶後です。早く悔い改めなさい。
9:11彼らは、底知れぬ所の使を王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポルオンと言う。9:12第一のわざわいは、過ぎ去った。見よ、この後、なお二つのわざわいが来る。
五号ラッパの災いが過ぎ去ったが、引き続き六号と七号の災いが来るのが間違いない。それも更に恐ろしいことになる。その日=三年半の大きな災難の中に、地上に三つの災いが降りッかかる。
一番目;五号御使いがラッパを吹き鳴らした時に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた。彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。
二番目;9:14ラッパを持っている第六の御使にこう呼びかけるのを、わたしは聞いた。「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ」。9:15すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。
人間の三分の一とは今の世界人口ではかると、約15億から20億の人間が死ぬことになる。
二番目の災いは完了の時間がヨハネの黙示録11:14第二のわざわいは、過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。
聖書の記載によって二番目の災いが過ぎ去って、七つの鉢を行う過程で、基督と敵の戦いが起きる。
9:13第六の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、一つの声が、神のみまえにある金の祭壇の四つの角から出て、9:14ラッパを持っている第六の御使にこう呼びかけるのを、わたしは聞いた。「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ」。9:15すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。9:16騎兵隊の数は二億であった。わたしはその数を聞いた。9:17そして、まぼろしの中で、それらの馬とそれに乗っている者たちとを見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた。9:18この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった。9:19馬の力はその口と尾とにある。その尾はへびに似ていて、それに頭があり、その頭で人に害を加えるのである。9:20これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。9:21また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、盗みを悔い改めようとしなかった。
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9:20これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
上記の言葉によって、どうして偶像を拝む人々が依然悔改めなくて偶像を拝み続ける。
聖書による偶像に論ずる時に、偶像が見ることも、聞く事も、歩くことも、言う事も何もかもできないと言われたが、上記の聖書の言葉の中に言う事ができないことを言わなかった。なぜなら第六号のラッパを吹き鳴らす時に、一人の話せる偶像が現れるのである。
13:14さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。
つるぎの傷を受けてもなお生きているのは敵基督である。前に殺されたが、甦ったので、地に住む人々を惑わし、先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。
ヨハネの黙示録13:15それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
兄弟達;後で詳しく説明するが、この敵基督とは二千六百年前にある旧約聖書ダニエル書9章による予言のヨーロッパ連合の主席のことである。サタンの敵基督が現れてから、彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。
テサロニケ人への第二の手紙2:3だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。2:4彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。
上記の聖書によって、この偶像が敵キリストで、話せるものであり、聖書は神の言ですので、漏れる事がない。
ヨハネの黙示録9:20これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
このヨハネの黙示録の9章20節による、「見ることも聞くことも歩くこともできない偶像」の言葉だが、「言うこともできない偶像」の言葉を提起なかった。聖書の創世記〜ヨハネの黙示録まで、偶像を論ずる時に、ヨハネの9章20節と13章だけ、「言うこともできない偶像」の言葉を提起なかった。
その日になっても、人間が自分の手で造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
獣の像が話せる以外に、他の偶像と同じ「見ることも聞くことも歩くこともできない。悪魔が獣の像に話せる力を与えるだけで、人々を惑わすことになる。
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このヨハネの黙示録を読んだ事が有る方であれば、もしその日に獣の像を見ても、怖がる事がない。主の教えを忠実に守れば、苦痛に我慢強く耐えれば、必ず勝利を得る事が出来る。もし迫害を受けるとしたら、肉体の生きる人間から迫害を受けることによるものである。
なぜ聖書にこれほど信仰があるとは、数十回も読んでいたこそ、神による光照らされることになった。聖書には非常に慎み深さかつ厳粛で、千六百年に渡って書かれても、ちっとも前後矛盾の事がなかった。