ヨハネの黙示録第七章
7:1この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。7:2また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、7:3「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。7:4わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。7:5ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、7:6アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、7:7シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、7:8ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。7:9その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、7:10大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。7:11御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、7:12「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。7:13長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。7:14わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。7:15それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。7:16彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。7:17御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
今まで六章まで読みましたが、一つ目の封印〜六つ目の封印を解くまで述べました。只それがダニエル書の終わりの一週の前半まで入って、大災難の気ぶりは既に出て来た。第七章では正真正銘の大災難に入る前に即ち終わりの一週の後半が始まる前に一般言われる災難の前に印を押されたものも事に言及するのもこの時期に当たるのです。
神は全三年半で神の宮の再建をさせ、後の三年半の時に敵基督の出現によって、神の言がすべて成りである。正真正銘の大災難が七つ目の封印を解いてから来る事になる。だから私達は聖書をよく勉強するものの考えでは終わりの一週の前半が一つ目の封印から六つ目の封印までであるが、後の三年半の始まりは七つ目の封印が解かれてから、七つのラッパがあり、それぞれに一つの大きな災難を示す。七つ目の封印を解いてから、七つのラッパ、
七つの鉢など終わりの七週の後半に大災難が起こる事になる。
マタイによる福音書24:7民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。24:8しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
アメリカとイギリスはアフガニスタンを攻撃するのも「国は国に敵対して立ち上がるであろう。」イラクの北方連合がタリバン政権を攻撃するとも民は民に、敵対して立ち上がるであろう。聖書より大災難が非常に恐ろしいことで、兄弟達愚かな人にならないよう賢く行いましょう。
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今のクリスチャンのご両親は非常に子供の勉強成績を重視するが、子供の永遠の命に関心を払っていない。地上にいる子供の前途しか関心がない。本当に永遠の前途に眼が向けていない。子供に永遠の命や将来にわたって御怒りを逃げる方法をを教えないことによって、クリスチャンとなれても自我の価値観と神の計画に完全無関係と言ってもいいほどである。六つ目の封印が解かれてから、七つ目の封印を開く前に神は勝利を得る者に印をおされるのである。この神の幻が七章に有る。
七章から分かるように神は大災難を落とす前に地上にいる勝利を得る者に印をおされるのである。聖書によるこの件の発生時期はこの時期である;ルカによる福音書17:34あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。17:35ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔17:36ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。17:37弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。
ヨハネの黙示録7:1この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。7:2また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、7:3「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
この言葉の意味はなんでしょうか? 「地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。」。この事はの平行真理は地にも海にもすべてのきにも、吹きつけてもいいですが、
わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
この意味は神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまえば、四人の御使が地と海と木とをそこなう事が出来る。ここで四人の御使の行動を暫く待つようにと言う意味をする。なぜなら引き続いての大災難が物凄いので、愚かな人類への罰を与える前に神に喜ばれる人に先に印を押される。これらの人々は神の僕である。自分に聞いてみて、貴方は神の僕ですか?それとも神は貴方の僕ですか?難しい事が有れば、主にお祈りするが、主よ明日の試験に旨くいい成績が残れるようにとお祈りして、主は貴方の家政婦みたいになるが何事が有れば、主にお祈りをし、用がすんだら、主を倉庫にしまっといてしまうことになる。
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まあ家政婦の場合、まだ給料をもらえるが、主はいつも只で貴方の好き嫌いにも関わらず、只で働く。もし努力しないで、お祈りだけで何も旨く行けるとすれば、公義とは何だろう?主は公義の神である。しかしもっとも恐ろしい試験が終わりの週にあるのが間違いなく、もし今しっかり神を知らないぶりが続ければ、後になって形容しがたい苦しみを受けられるでしょう。
7:3「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。これを済ませたら、地の四方の風がすぐ臨むだろう。
7:4わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
地球にあるイスラエル人の数が恐らく千四百万人を超えている。上記の聖書によると、平均百分の一の人しか印を押されなかった。しかもイスラエル人はユダヤ教信者で、今になっても主イエス・キリストを受けていなかったが、この民族が神の国度に置かれる計画の中で最も早く選ばれた神の子供であり、比例方式から考えれば、イスラエルにある勝利を得る者が異国の民にある勝利を得る者に比べれば、多いか最低でも同じぐらいだろう。だから全世界にあるクリスチャンの中に千人の中に一人の勝利を得る者がいるかもしれないが、それは歴代から主の再来の時にすべてのクリスチャン総合の数による推測することですが、各教会の光景にもよって必ずしも限りません。
例えば、大学の入学試験にも各高校と各塾の入学率もその室に依って変わる。しかしヨシュア記に記載されるエジプトから出てくるイスラエル人には、二十歳以上の男の人が六十万人がいるが、最後にカナン地に入れたのが二人しかいなかった。非常に低い比例でした。
主の再来の時に全世界のクリスチャンの中にどれぐらい勝利を得る者がいるだろう?今の全世界のクリスチャンの数はカトリック教と基督教を合わせると大凡二十億ぐらいの統計があるが、もし イスラエル人がカナンに入る比例を精算すると30万分の一となるが、しかし聖書の言葉を参考にすれば、7:4わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。この一節の聖書より分かるように主の再来の時に地上のイスラエルにある勝利を得る者が十四万四千人がいるので、この数によって計算すればよかろうと思います。
もし全世界にあるイスラエル人の総人口が千四百万人もいれば、割る十四万四千人で、即ち百分の一となり、これ比例を見れば、三十万分の一より楽観過ぎるのではないか?
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前に言われたとおりに各教会にある勝利を得る者の計算の配分がこの平均方式で計算されるものではない。各教会の光景によるものである。どれぐらい自信がって、一流大学に進学できるか?どんな高校に居るかによって決めるだろう。又その学校の教育方針について、学費を受け取ってから、しっかり教えてあるか?又守るように監督するかにもよるのです。
マタイによる福音書28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
どんな教会にいるが、どんな教えを受けるカ?又どうやって神に仕えるかによって、その日に聖徒毎の結果が異なる。
カトリック教は約七億人から10億人がいるが、勝利を得る者がどれぐらいいるだろう?教会の光景は三流高校のような状態で、聖書の勉強をしないし、神の真理を知らなく、又勝手に聖書を解釈する。すべて人為的な儀式によっておこい、神の教えを守らないし、更に神の御心を知らない。非常に愚かである。その教会にいる信者がどうなるのか?
下記の聖書によって、神は自分の民をこのカトリック教から早く離れるように、さもなければ、その罪にもあずかることになる;
ヨハネの黙示録18:4わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。
私達教会の牧師は常に教えていただいた;「現世で永世の暮らしを経営する」。兄弟達;勝利を得られるか?自分が千年の火の池に投げ込まれるか?に関わらず、もっと永世の暮らしにある自分の成就と地位にも関係がある。
勝利を得る比例が高くはないが、どこかの教会に集中するかもしれない。一つの教会に高い勝利者を出す条件であれば、先ず兄弟を裁く事が出来ない。すべて愛を持って付き合うのです。
ヨハネの第一の手紙4:19わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。4:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。4:21神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。
目の見える兄弟を愛さないものは目の見えない神を愛せないのである。
ヨハネの第一の手紙4:8愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
7:5ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、7:6アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、7:7シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、7:8ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。
上記の聖書を読んだ若い時期に実に面倒くさいとおもったことがあったが、なぜ各部族の合計で言えば宜しいではないかと思います。しかしよく神の言を勉強すれば、分かるようになった。元々イスラエルには十三部族があるが、一般十二部族と言い、原因はレビ部族が含まれなかった為だった。イスラエル人は出エジプトをしてから、レビ部族が神の産業に帰すことになった。
民数記3:11主はまたモーセに言われた、3:12「わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。3:13ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である」。
しかしヨハネの黙示録になると、レビ支派にも印を押される1万二千人が居た。更に説明すると、イスラエルにある祭司の仕事もレビ支派による動いている。レビ部族には産業がないが、万軍の主はレビ部族の産業となる。
申命記10:9そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。)
だからレビ支派は=今の牧師、伝教者、神父の身分に当たる。レビ支派以外、其の他の支派がすべて働くことによって、神の宮に奉げられるものが提供できるのです。しかし聖書明記のようにすべて1万二千人となる。
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ヨハネの黙示録の七章の5節から8節までから分かるように伝道者と一般信者の勝利を得る比率が同じである。神に仕える仕事を主な仕事と位置付ける人は勝利を得る比率が一般の信者と同じ比率である。伝教者の方が勝利を得やすいということではない。
ルカによる福音書17:34あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。17:35ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。〔17:36ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。
聖書の教えによって、どんな仕事に付くかどうでもいいが、世界のどこに居ても勝利を得る機会が有ります。
イスラエル=ヤコブは十二人の子供しかいなかったが、なぜ十三個部族も有る?ヨセフの二人の子供―即ちエフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにヤコブの子とします。
創世記48:3そしてヤコブはヨセフに言った、「先に全能の神がカナンの地ルズでわたしに現れ、わたしを祝福して、48:4言われた、『わたしはおまえに多くの子を得させ、おまえをふやし、おまえを多くの国民としよう。また、この地をおまえの後の子孫に与えて永久の所有とさせる』。48:5エジプトにいるあなたの所にわたしが来る前に、エジプトの国で生れたあなたのふたりの子はいまわたしの子とします。すなわちエフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにわたしの子とします。
マナセ部族とはヤコブより出てくると見られ、エフライムはヨセフ部族の代表とします。だからヨセフ部族は二つの部族に分けれられ、六節のマナセの部族には一万二千人、8節のヨセフ部族にも1万二千人、即ちヨセフ部族の合計が二万四千の勝利者となる。
でもイスラエルには十三の部族があるはずですが、印を押されるのが一つの部族がいなかった。ここで神の奥密があるが、ダンの部族がなかった。
&創世記49:16ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。49:17ダンは道のかたわらのへび、道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、乗る者をうしろに落すであろう。49:18主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。
ヤコブは十二人の子供を祝福し、その中にダンの部族に及ぶと、「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」と言われた。ヤコブの予言によるとダンの子孫が必ず「道のかたわらのへび、道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、乗る者をうしろに落すであろう。」という霊の有る意味はダンの部族が人の足を引っ張ることを指図する。
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ダンのような人でも教会の中によく見つかるが、教会が何をやろうとしても、ダンのような人間に裁かれる。例えば;「週末がなぜ休まないのか?週末でなぜ福音を述べ伝えるのですか?」このような話しをする人であれば、即ち「道のかたわらのへび、道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、乗る者をうしろに落すであろう。」だからヤコブは言われた;「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」
このような人なら火の池に投げ込まれやすいので、本当に神の救いを待ち望む。兄弟達前で言われたとおりに教会は金の燭台で、教会を裁く事ができない。もし教会が前へ進もうとする時に、貴方がかえって脚を引っ張る事でもすれば、貴方がダンとなり、この部族には勝利を得る者が一人も有りません。ヤコブは創世記でダンの予言をしたが、ヨハネの黙示録で明白に予言が的中した。この間の開きは大凡四千年が有ります。
聖書は非常に慎み深くて、取り違えのローカルがなく、聖書を読めば読むほど神を恐れることになる。もし人間が創世記からヨハネの黙示録までのような小説でも書けば、特に間違いだらけだったでしょう。
歴代のイスラエル人は十二の部族があると言い、ヨハネの黙示録では、一つの部族が取り除かれたが、従来に計算に入れていなかったレビ部族を入れたので、人類の終わりの1週の時に勝利を得る部族は依然十二の部族が有ります。先ほどよんだイスラエルの勝利を得る者には十四万四千人が印をおされたので、神の言が非常に正確で、その日になると、間違いなく十四万四千人の勝利者が取り去られる。
勿論神は印を押されるイスラエル人数は十四万四千人で、即ち12かける12=144となり、非常に完全な意味であるその日御使が神の僕の額に印をおされ漏れる事がない。
七章5節から8節までユダヤ人のことを述べたが、引き続き、異邦の民による勝利を得る者についての
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7:9その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、7:10大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
ここで「救は」を言います。この救いは教会を指していうのです。イスラエル人には救いがないのである。
「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、」。この9節による人々はイスラエル人以外の全世界にいる勝利を得る者である。今の福音は地の果てまで述べ伝えられた為、全世界のどこにも勝利を得る者がいる
台湾のクリスチャンは全人口の2%しか居なかったが半分ぐらい教会の集会に参加しない。後の1%の中に比較的に慎むのも5%ぐらいですので、台湾のクリスチャンより勝利を得るものがごく僅かしか居ないだろう。神である主を認識できれる方法は聖書を読むしか方法がない;テモテヘの第二の手紙3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。3:17それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
他人がどう言おうとも、名牧師が何を言ったとか?法王が何の教えを述べたとか?にも関わらずに大事なのは聖書に一致しなければならない。もし聖書の通りにならなければ、この人を気にしなくてもよかろう。ただ聖書の言を信ずれば宜しいかと思います。神は真実なものとすべきであり、人類が偽りものである。ローマ人への手紙3:4断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
聖書は何を言えば、その言われる通りに成るが、聖書の意味を正確に理解できれば、聖書には間違いが一つもないことも証明できる。聖書の真は神の保証があり、神は永遠に不変の神である。神の保証とは、マタイによる福音書5:18よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
神の言をしっかり覚えて、了解できれば、いくら神学院の院長とか名牧師とか、人間の誰よりも神の言が永遠に正しいのです。もしも誰か聖書を四十年も研究し続けていたので、聖書が間違いだと言っても、この話しを信ずることができるだろう;
ガラテヤ人への手紙1:8しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。
伝道の道とはなんでしょうか?ヨハネによる福音書1:1.初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
この「道」とはイエス・キリストであり、キリストが神の言である。宣教師とは、ヒト専ら神の言を伝えるひとである。
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もし貴方は伝道者と自認しながら、哲学、文学、科学など論じ、聖書の言葉に従って言わなければ、いくら話しても役に立たない。神の言と比べられるでしょうか?伝道者であれば、神の真理を述べ伝えれば、責務を果たす事が大事です。
ヨハネによる福音書1:1.初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この初めに哲学などなかった。言は神と共にあった。言は神であった。
聖書には、特にヨハネの黙示録の中に御使いが話す時に、必ず神の全能と創造を賛美するが、神の救いを知らない為だった。人間こそ救いを知り、人間だけ神の救いを賛美する。神の救いを知る人であれば、クリスチャンである。
7:11御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、7:12「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。
10節による聖徒達のお祈りと賛美の内容は救いであり、彼らは神の救いを経たので、御使いとの認識が異なる。
御使いが救いに対する主観の認識がないので、賛美の中に神の救いがげんきゅうされない。即ちはっきりしているが、私達の神への賛美の中にもし救いを信じてなければ、その救いによる主観の認識が生まれてこないので、天にいます私達の父より見れば、意味がない。もし貴方が神に対するちっとも認識していなければ、心霊と誠実からの信仰ではなくなる。御使いがなぜ救いをいわないのか?又あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が救いを賛美するのか?これら救いを賛美する言葉を聖書に入れる神だった。人間は神が天地の創造を見たことがないため、神の創造能力を認識なかったが御使いが神の創造能力を見たことがあるので、認識が出来た。
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子供だけ父親の慈しみを認識する。社員達が社長の厳しさだけ分かる。社員の社長への賛美は賢い、見通しがよい、上手な投資など賛美するが、一旦社長が家にもどると、子供が父親の慈しみを言い、今日は自転車を買ってもらって、明日にバイクをプレゼントしてくれ、又明後日にフエラリを買ってくれる。片っ方は子供の賛美、もう一方が社員の賛美、両方の賛美が異なる。
7:13長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。7:14わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、代価を払った。その白い衣を簡単にもらえない。
ヨハネの黙示録3:18そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
財物や時間上の奉げには重要で、只で玉越しに乗って天国に行ける者ではない。彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、主の言葉を彼らが守ったから;
ヨハネの黙示録3:10忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
神の言葉を守るのに忍耐が付き物である。宇宙に神がおり、悪魔もいるが悪魔は極力に私達を破壊しようと思え、神もそれをお許しになって悪魔がたって主を愛する人達を迫害するが、その目的は主を愛する人達への試練のためであるー主の言葉を堅く守ること。ある日、主イエスの受けた洗礼と発見し、パプテスマ教会が起こるだけで、迫害される。教会は聖書の洗礼の教えに基づいて行うだけで、この戦いがどれぐらいの人が死んでしまう。マチントートは新約聖書のロマ人への手紙を読んで、「信仰によって義と称する」を回復する為に当時の贖罪券を販売するロマーカトリック教の法王による迫害を大いに受けられた。その時のロマーカトリック教は地上にいるすべての王を抑える白であるため、ヨーロッパ全体がたってマチンロートを迫害する。だから神の言葉を守れば守るほど大きな患難に陥りやすい。例えば、姉妹に言ってあるが;教会で説教の時に必ずおおいをかけるべきである。しかし誰も気にしない。そしてこの言葉によって私が嫌にされてしまう。今日は本当に神の言葉を尊重する人が滅多に会えない。
コリント人への第一の手紙11:6もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。
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もし真面目に主の教えに慕って行えば、必ず代価をはらうことになり、患難と言う。しかし現世で神の言葉や真理の為に、苦難を受け入れる人であれば、主も、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
今日は勝利を得る者となりたい人の心に神の言葉があってこそ、実を結べるが神の言葉や真理の為に、苦難を受け入れなければならない。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」 彼らの好い行いが小羊の血による成ったのです。
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ヨハネの黙示録7:15それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。7:16彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。7:17御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
勝利を得る者の涙は神の為に流したなみだであり、主に仕えて受けた苦しみがなければ、涙が有る筈はない。私は若い時期に出会う教会の幹部兄弟が非常に厳しい性格で、集会に遅れたら、室内に入れるのを許されない、室外に2時間も立ちっぱなしとなる。しかし私は相変わらず集会に耐えずに行きます。もし貴方なら又教会に来られますか?多分;NO−なぜ来ない?構わないと思うだろう。
もし学校の授業やお仕事に遅れたら、学校の先生や上司に外に立ちなさいと言われててもあなたは決して振り向いてすぐ歩きかねるだろう、なぜなら自分のッ成績や将来にかかるから。当時室外に立ちなさいと言われても、神の真理を追い続けたことで、神の憐れみによって、聖書の言を認識ができるようになる。
今の教会は神への畏怖と真理の尊重に戻るできではないでしょうか?神の言が厳粛で思いなさい。救いを受け入れたばかりの時に、本当に神の言葉をよく知らなかった。しかし一旦神に仕え始めると、あの祭司のシステムが容易いものではないーあれは尊い祭司である。まさか今のように賛美礼拝の時に、遅れる人もいるし、寝る人もいる。兄弟達;神に仕えるのが代価を払う必要が有ります。
「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。」人類の祖先アダブが罪を犯してから、人類にとって最も恐れているのは餓えである。
創世記3:17更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
カインは父親のアダムから一生、苦しんで地から食物を取ると聞いた時に、アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
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当時の羊が食べ物として食う事が出来ないが、神に羊を奉げる為である。だからアベルの仕事にはちっとも経済価値がないですが、神に喜ばれる。なぜアベルの生活の生きがいは神の為である。
しかしその日になって、神は私達にもはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはないように守って下さる。続きましては
「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはないよう、又涙もなく、悲しいこともない、残念なこともすべてなくなる。兄弟達、御使いに涙がなく、人類こそ涙が有ります。神は人類に与えられる担が実にかるくはない;人間には涙があると言うのは、私達は神の作品である。
エペソ人への手紙2:10わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
この作品とは神の傑作と言う意味です。エペソ人への手紙にある第二章は非常に重要で、神から人間に救いを賜りと論じ、神から見れば、人間が神の傑作で、神の手によって、彼の血と聖霊よる創造されるものである。
聖書の説明に基づき、非常に明確で、私達のような材料を選んだのが神によるもので、神は更にこの材料を作品と変えた。バイオリンを制作する時に、木の材料を選び、川を剥いてから、必要なサイズを切ります。そして乾燥の室内に何年間を起きっぱなしで、晒し、水分と必要のないものを取り除いてから、最後、組み合わせて、ペンキを塗るなどを得てから、やっとバイオリンの制作を完了できる。しかし完成する前に、その制作過程において誰一つも好きなものではない。必要に応じ、六つの穴を掘らなければならない。私達は神の手に長い間を得て、やっと完成できるのです。聖書に記載される香りの木のことを高貴な人性と例えている。神の手によっての制作が最後になって傑作となって完成される。
もしクリスチャンは救いを得てから、卒業同然だと言う事にも考えれば、それははっきり知れいる事が貴方に対し、材料だけ選んで、現世で作品にすることがないですが、審判日になってから、火の池に投げ込まれて、鍛えてやることになるだろう。
現世では、貴方を作品にしようとする時に、貴方に色んな環境をたって、苦難、裂き等を体験させるこそ、17節のように成れる;7:17御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
彼らには涙や患難があり、前では言ったが、彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、主の道を忍耐強くまもり、神のご命令に従うこそ、涙を流すように代価を払ったのです。
今日少しの代価を払って、主に従うが、貴方にはまだ期待できそうで、願わくは神の手による貴方を傑作にできるようにお祈りましょう。
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もし貴方には完璧でちっとも苦難を体験した事がなければ、貴方に必ず問題があり、又神の彫刻の刃物がまだ始まっていない。もし神の彫刻の刃物はずっと貴方に臨んでいなければ、貴方には災いがあり、将来に彫刻される所が火の池になりそうです。その時間の長さも並大抵ではなく、最長1,000年になり、受ける苦しみが更に恐ろしい。
ヨハネの黙示録の7章にある勝利を得る者が取り去られる時期が、大きな災難が起こる前である。「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。以上の行動が終えてから、大きな災難が始まる。
その日に主を愛する母親が取り去られたことに気が付けば、残される父と僕らであれば、大変だと分かっても間に合わないだろう。一所懸命に聖書を捜しても、見当たらない。母親に持って行かれただろう。なにしろテーブルの上に置いても飾りものの様で、役に立たない。例えば、聖書があるとしても読んでも意味が分からない。どうすればよいか?
一つ目の封印から六つ目の封印が解かれた後、一つの神の幻が終えてから、七つ目の封印が始まる。七つ目の封印に7本のラッパがあり、これは大きな災難となるだろう。
一つ目の封印から六つ目の封印まで大事と言えないが、七つ目の封印の一つ目のラッパが吹かれると、海、地、木、すべて滅ばされる。海を滅ぶと、船が壊れ、地を滅ぶと、部屋が焼かれ、木を滅ぶと、大地に美味しい空気がなくなる。即ち多くの人々が死んでしまう。
兄弟達 ミレリアムの時にサタンが底知れぬ穴に1千年も投げ込まれるのがミレリアムの特徴で、ミレリアムの計算方法は主イエス・キリストの再来の時から始まり、即ち小羊の1千年の宴である。新郎のイエスはお見えにならなければ、宴がはじまらないが、新郎が着くと、ミレリアムの始まりである。
しかし西暦1999年の時に全世界のいたるところで、ミレリアムが近づいたと大騒いだ。ミレリアムとは第七千年の事で、即ち第七日の事である。
ペテロの第二の手紙3:8愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。3:9ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
ミレリアムは千年となり、1年だけではない。ミレリアムの始まりから、永世まで勝利を得る者は王となって臨む。兄弟達よ悔い改めなさい、「現世の努力で永世の暮らしを経営する」。神の計画によって、異邦の民すらミレリアムのことを知ったので、それでは主の再来が近づいたでしょう。又自分の信仰光景を問い直して、火の池に入る機会が低くないでしょうか?頑張れ兄弟達。
常に聞いた話ですが、私は信仰に真面目で、礼拝を欠かすことがない。それは実に笑いたくなる。世間の標準で、自我中心の暮らしと通じ、主イエスを一つの飾りとして家にも聖書の言葉の額が飾られるが、もし貴方は本当に主イエス・キリストを自分の家の頭であると思えば、貴方が僕であるべきではないか?
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家政婦は誰の言いつけを聞くのですか?それとも家政婦自分が勝手に決め付けるでしょうか?残念ながら私達の人生には自分の決め付けによって、動いているのです。仕事が旨く行かない時に、主に仕事を辞めるので、新しい仕事を捜してくださいとお祈りをし、貴方自分にとって主は僕、貴方こそ主人であるのではないか。
仕事を捜す時に主は紹介所であり、結婚相手を求める時にも主は結婚仲介所で、国家試験に参加する時も主は塾となる。考えて見ると、すべて主にやってもらえばベストではないか?では主の名前は万能の家政婦と呼ばれるようになるのではないか?兄弟達;貴方がこの様にしているでしょうか?それとも仕事を変える前に、先ず主に仕事を変えても宜しいですか?と聞く事が重要であるが、何をやろうとしても、先ずやっても宜しいかと主に確認すべきである。もし何もかもう甘く出来れば、喜ぶが、一つの事が思うように行けない時にすぐさま主に文句を言いつけて、礼拝に行かなくなるし、気が弱くなる。兄弟達よもし自分の信仰生命がまだこんなに幼稚であれば、早めに悔い改めなさい、さもなければ、必ず第二次の害を受けることになる。
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