聖書ヨハネの黙示録講義ー(上) 作者:呉明憲兄弟 


第十一講―ヒラデルヒヤにある教会の御使への手紙


ヨハネの黙示録三章7〜13節
3:7ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。3:8わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。3:9見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。3:10忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。3:11わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。3:12勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。3:13耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

  引き続きヒラデルヒヤにある教会について論じよう;神によってこの教会が初めから、最後まで褒めまくられました。ところでずっと迫害にされ続けていた。今まですべての基督教が「兄弟教会」の存在を認めなかったので、我々はあんまり「兄弟教会」を聞いた事がないと思います。
 ヒラデルヒヤのギリシャ語の意思は「兄弟相思相愛」と言う;神は教会を判断するのは、愛が有るかないか?とのことである。いつ頃愛を表すでしょうか?相手の罪や恨みを受け入れる時である。
愛とはどんなものでしょう?
 コリント人への第一の手紙13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
主への愛によって、すべてを忍びする事が出来ます、
主への愛によって、すべてを信じることができます、
主への愛によってすべてを望むことができます、
主への愛によってすべてを耐えることができます。

よく旨く行かない時に、絶望感が出てきたが、主への愛によって、その自信や望みを取り戻せる。愛は寛容であり、愛は情深いで、すべてを忍び、もし私達の両親に愛がなければ、子供ごろの私達が成長出来なかったであろう。主に従う以上、愛を覚えて実行しなければならない。
誰でも自分の子供を愛するが、なぜ子供を愛するでしょうか?自分の子供だから。それ以外に理由が有りません。
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  神は創った人間を愛して、誰でも愛してぃださった。差別や偏りがなく、公平や公義である。しかし私達のような血の気が多い人間である以上に、好き嫌い性格が生まれつきながら、自分の口から人を愛する言葉を出すのに易しいかもしれないが、実際に行動に移さなければ意味がありません。パウロは愛への実行を繰り返すことによって、本当にキリストの中に愛と信仰を強めることができると言う教えがあった;
ガラテヤ人への手紙6:9わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
  
又詩篇の第133篇
ダビデがよんだ都もうでの歌
133:1見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。
33:2それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。
133:3またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。
 ヒラデルヒヤにある教会の兄弟達の間に相思相愛が満ちていた。神の望みは教会の中にこういう愛がみちることです。人間の間に付き合うと必ず摩擦が生じるが、こう言う時こそ愛の表しである。寛容で、思いやりを持つ付き合いであれば、神によってお互いに祝福されることになる。
 しかし神にこのような愛を賜って下さる必要ですが、人間の愛だって限界がある。偶にお天気屋さんのように一夕一朝で変わってしまうので、天に属する愛を賜って下さる前に必ず他人から損害や攻撃を受けることになる。世の中に自分には損がなければ、他人に損があっても、人様の傷を軽く見るや見逃します。しかし一旦自分がそういうことに合わされれば、とことん反撃することになる。だから愛を覚える前に損を受けてから本当に寛容を持つ事が出来るかどうか?その時に真実が分かる。
 コリント人への第一の手紙13:1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。13:2たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。13:8愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
下記の聖書からヒラデルヒヤにある教会のことを勉強しましょう;
 ヨハネの黙示録3:7ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
 「ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい」。ヒラデルヒヤのギリシャ語の意思は「兄弟相思相愛」と言意味で、兄弟愛のある教会の御使にこう書きおくりなさい。愛が生まれる最大のキーポイントが主の手にあることを忘れないで、主に愛を賜って下さるようにお祈りなさい。神の国へ行かれるのに愛がなければ入れないのです。神を信ずれば、戒めを守れ、そして戒めの中にある愛を覚えなければならないし、行いによって、証明するのです。
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  例えば、今日は物事が旨く行かなくても主に感謝し、旨く行っても同じように主に感謝すべきである。ドアの閉め開けが主によるもので、主を愛する者こそ有益になることです。
 『聖なる者、まことなる者』:もし主が聖なるものや真実でなければ、私達がどうやって他人を愛せるでしょうか?兄弟や他人を愛せる主な原因は主への愛によるものです。主は真実であるため、兄弟や他人を愛する時も真実で愛しなければならない。真実の信仰あってこそ、行いが付いてくる。

「ダビデのかぎを持つ者」というのはダビデは王であり、王のかぎより大きい鑰が存在しません。宇宙を掌握する権威はダビデの鑰ぎである。
「開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、」とは私達の状態に臨む環境であれば、開け閉めのすべてが主によるものである。
 例えば;この兄弟は格好が悪いのに、神は私の側に彼を置いて下さった。この兄弟を神から賜ったことを理解してから、彼を愛する気持ちに変える。彼に関わる性格や生活の問題を見る必要がなく、見る必要としているのは誰から彼を私の所に置かれるのである。  
 ある人、男の子を産みたいですが、その前に何人か女の子を産んだ。やっと最後に産んだ子は男だった。抱くたびにこの子の顔を見て、なぜそんなに皮膚が悪いと嘆いた。それで既に成長した何人の娘は言い返した。神は男の子を産ませたのに、包装が悪いと文句を言うのですか?
 人間が憐れみなもので、主を信ずれば、いくら環境がいやでも、この人が好きでなくても、心より愛を持てば、こうなる:
 ローマ人への手紙8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 人間は主を信じてから、先ず自分の過去の行いを反省し、神の前で一々過去の罪や過ちを悔い改めなければならない。どうすればご自分の自由ですが、勝手に一つの言葉で、過去の罪をお許しくださいというよりも一々自分の罪を明確に数えて、悔い改めた方が好さそうではないか?国家の法廷で、罪や刑期を宣告される時もで、詳しく説明されるでしょう?
 人間が怠け者で、霊の世界のことをよく知らない癖に、勝手に自我行動を取る。貴方の為に、言わせていただきますが;誠心誠意の悔い改めが祝福を受けられる。謙虚で神の前に跪ければ、涙を流す事が出来れば、こういう悔い改めが喜ばれるのです。
 だから主を堅く信じれば、病気でも、環境が悪くても、攻撃されてもただこの言葉を理解してください;
ローマ人への手紙8:28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
  上記の言葉の通りに守れば、愛と言うのは、役に立たない話しや余計な話しをしないのである。他人への愛を寛容で対応すること、苦しんでも主を感謝し、賛美すること、主の自分に対する意思を理解できなければ、自分には分かるように理解出来るまで神にお祈りを続けられるべきである。お祈りをしても、神は答えて下さらなければ、自分に何か対処しなければならない問題がないかと反省する必要がある。こう言うふうに愛を持って対処すれば、主の黙示が間違いなく入るであろう。クリスチャンとしてはなぜ信仰が常によわいのかと言うと、お祈ることをとことんまで出来なかったためである。多くの信者がお祈りをしても、神から答えて下さらなければ、それを簡単に引き下がる。自分の状態を反省し、そして正確に対処すべきである。クリスチャンとしては、お祈りを継続する事を知らなければ、いつたっても霊の成長が出来ないのです。
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 ヨハネの黙示録3:8わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。

  神は言われた;わたしは、あなたのわざを知っている、なたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
少ししか力がなかったにも関わらず、真面目に頑張れば、誠心誠意で行えば、これこそ主の求めることに答えられる。一人の未亡人の献金と同じ様に2円しかないのに、少ししか力がなかったにも関わらず全部神に奉げたことと言う聖書の教えを思出だせば、どうやればご存知であろう。
 神の言は私達に忍耐の強さを言われるのである。少ししか力がなかったにも関わらず、忍耐出来る筈ですが、それ以外のことを言わなかった。例えば;よいメーセッジをすることや豊富な知識及び正しい判断をする等と言った求めがなかった。只忍耐強く、主の為にすえう証しを堅く保つことしか言わなかった。これこそ永遠の命のあかしで、神の国の模範である。兄弟達;神の国には言い訳を言う必要がなく、大事なのは謙虚で神と共に歩む事である。 
 ヒラデルヒヤという教会は当時、迫害されながら、神の祝福によってアメリカという国が起こされた。その時、ヨーロッパ諸国のイエス・キリストの信者達がロマーカトリック教によって、迫害され、当時の野蛮人の土地と呼ばわるアメリカ新大陸に逃げ込んだ。一部の人たちが「五月の号」の船でアメリカ新大陸に逃げました。こういうヒラデルヒヤという教会の信者達は、カトリック教会に追い殺されかけながら、主の為に何もかも放棄してしまった。当時のアメリカ新大陸は何もかもなかった。こういう教会の兄弟達は主に対する信仰に基づいて、神の祝福によって、強いアメリカを建てられました。特にアメリカ大統領の就任の宣誓式と裁判所の承認宣誓にも聖書の上に自分の手を置かれて神に誓う儀式がある。主イエスを知らない哀れな日本人よ;人類の兄弟達よ、第二次大戦後のアメリカの技術や貿易やビジネスなどあらゆるアメリカの世界の長所を見習ってそれを吸収したが、なぜ最も大事なアメリカにある最重要な信仰を覚えられないでしょうか?これは本当の命の源であって、霊魂の創造の主である。目が見える世界のことばかりを見習って、目の見えない事ー信仰のことをちっとも真面目にその本当のアメリカを強くすることを理解しない。本当に惜しいのですが、願わくはこのヨハネの黙示録を日本人の方に真剣に理解してもらって、自分の愛する同胞に福音を述べ伝えるように努力してください。
 アメリカを祝福する神はアメリカを世界一強い国に仕立てた。人間の目から見れば、技術があるから、そうだったではないか?実にそうではないのだ。文明の始まりはヨーロッパの基督文明から、それにヨーロッパの基督教の信者が純粋の信仰を保つためにカトリック教による迫害を逃げる為にアメリカ(当時の呼び方は新大陸と呼ぶ)に逃げ込んだ。そして当時の兄弟達が主を第一に愛し、主を崇められた。引き続いて、基督の文明によって、この大地に祝福されて、最終的に強いアメリカが誕生された。この一部始終が偶然なことではなく、世界の一番強い国家となりたい国であれば、キリストを信じていない国家なら絶対になりえないのです。17世紀から世界一強いイギリスもキリストを信じた国家であった。この百年以来、アメリカが世界一強い国家となった。その後、又人間の最後の裁きを受ける前に、ヨーロッパが世界一強い国家となり、世界に君臨することになる。どっちでもキリスト教を国の信仰にする国家である。
  今の世界の経済の発展の中に、強い国とは、中国でもインドでも、ロシアでもブラジルでもなく、日本も世界一になれない。人間の意思で神の計画を変える事が出来ないのである。しかし、いくら本書の述べる事を読んでも、霊の世界の事だから、主イエス・キリストを畏敬しない人であれば、到底理解する事が難しいだろうと思います。信じられないでしょうか?でも聖書をよく勉強すれば、歴史や考古学の証拠が世界に示されているので、時間を作って勉強してください。自分の霊魂のためだから、さもなければ、自分の霊魂が地獄ゆきになるのが間違いない。
 当時のヒラデルヒヤという教会の信者達はいくら迫害されても主に対する信仰を堅く保つことができた。難しい環境に置かれても主を愛する気持ちを変えなかった。例えば「少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」。
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  私達は主イエスの行いを見習わなければならない。神はロマを転覆するため、御使を起こしていなかった。主イエスもパリサイ人を撃ち殺していなかった。今に主イエスの様式を学べば、主の言葉を守り、主の名を否まなかったとも言える。又引き続き:「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。」
 エペソ教会から今まで、ヒラデルヒヤという教会しか聖書の真理を完全に解釈できなかった。神は彼らに与えられた誰も閉じることのできない門を開いておいた。
 16世紀の初めにマチンルーテルから教会の信者に公開の聖書を与えられたが、所で誰もその内容をよく理解できなかった。しかし ヒラデルヒヤ教会からの開いた聖書を与えてくれました。
 多くの人達が聖書を読んでも理解できなかったが、ヒラデルヒヤ教会の兄弟達が聖書の奥義を理解し、その奥義の真理を解釈説明してくれた。なぜなら神はこのような熱心に真理の奥義を追い求める兄弟に奥義を喜んで教える下さるのである。
 地上の人がこの門を閉じたくても、敵のサタンがこの門を閉じようと思っても、無理です、主はだれも閉じることのできない門を開いてくださった。
 ヨハネの黙示録3:9見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
 主はここでユダヤ人をサタンだったと言われた。主イエスは地上にいた時にもユダヤ人を悪魔から出てきたものと呼んだ。
 ヨハネによる福音書8:44あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
 なぜなら上記の聖書言葉をヒラデルヒヤ教会にある兄弟達に言われるのですか?この兄弟達も主イエスと同様な足跡を歩んできたのです。悪魔によって迫害されたのです。ヒラデルヒヤ教会にある兄弟達を迫害されたのは同じ基督徒と自称しているが、なぜ彼らをユダヤ人と言ったのですか?元々ユダヤ人は神であるエホバ(ヤウエイ)を信じ、モーセの律法を信じた神に属する民族だったのに、こう言ったユダヤ人が主イエスを十字架に釘付けられた。しかもヒラデルヒヤ教会にある兄弟達を迫害されたのは同じな人間ですが、ユダヤ人を抽象的に論じるのです。要するに悪魔のサタンと言う闇の世界の邪悪との意味である。
 実に兄弟達を愛するクリスチャンがサルデス教会から既に少なくなったが、ヒラデルヒヤ教会にある兄弟達の間に兄弟の愛情を大事にしろという主イエスの教えを素直に守っていた。
 二十世紀になって当時が立ったヒラデルヒヤ教会の光景もすっかり衰えたが、その様な兄弟に対する愛も幻となっていたが、ヒラデルヒヤ教会が主の再来まで引き続き存在するであろう。又兄弟を愛するヒラデルヒヤ教会のような光景を持つ兄弟のことを指して言われるのである。
「見よ、サタンの会堂に属する者」すなわち、教会が立って起こす一群の悪魔の類が彼らを迫害するので。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ
 ここのユダヤ人とは本当のユダヤ人を意味し、主を愛するクリスチャンであるが、クリスチャンと自称する者には、愛のない偽る者たちが愛のある兄弟達を迫害する
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 ヨハネの黙示録3:9見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに。
 完全な意味は神を畏敬すると自称しているが、その実神を畏敬するものではなく、悪魔に属するものである。
 兄弟達;もし私達が偽るものによって迫害を受けなければ、私達も本当の信者であるかと自問すべきではないか?必ずそうとは限らないですが、聖書は言われた;肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。
 ガラテヤ人への手紙4:28兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。4:29しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。
 私たちは迫害を受けなければ、霊の有る人間ではないと意味するが、なにしろあんまり役に立たないので、迫害しても意味がないです。反対にきつく迫害を受ければ、霊の有る人間と言えよう。それがサタンにとって嫌な存在となる。でも反対になれば、貴方が悪魔の方になる可能性がないとも言えないでしょう。
 「こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するように」
 偶に考えた事があるが、昔、負かされた教会の事をしっかりやっていたけど、誤解されたり攻撃されたりするが、いつ冤罪を晴らしてもらえるかなと思いますが、上記の聖書を読んでから、慰められた気がする。本当に愛があってこそ多くの兄弟を受け入れたこそ、又聖書の真理を語るこそ、主によって記念される。
「そして、私が貴方を愛している事を、彼らに知らせよう。」兄弟達はこの言葉の真の意味につき、神は自分の僕に言われたことで、子供に対する言っている事ではない。神は我々を子供のように愛しているが、僕たちに対する態度が異なる。昔も今も同じですが、人間の世界の職場や組織の中にいる連中がトップの方に寵愛されれば、誰も寵愛される方に敢えて喧嘩を引き起こさないでしょう。なにしろ愛より大きいものがありません。
  ヨハネの黙示録3:10忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
  今に教会の一員となって、誠心誠意で神を愛し、神を畏敬し、そして戒めを守る方には神は必ず大災難を出会わせないであろう。
 「全世界に臨もうとしている試錬の時に」というのは、終わりの最後の一週のことを指すので、即ち主が再来の時である。
 「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから」というのは、現在生きている方に向けて言うのですが、よく自我反省するとよいだろう。他人に対し愛がありますか?口だけ言って居るのですが、実際に行いが伴わない。人の信仰の成長に関心を持ったかどうか?とにかく愛のある行動を起こすように、頑張るのである。
 兄弟達 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
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 「全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。」この言葉の通りにヒラデルヒヤ教会の光景も主の再来まで引き続くであろう。
 「全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。」
  
  マタイによる福音書24:40そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。24:41ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
もし最後まで耐え忍ぶ事が出来れば、救われる

 マタイによる福音書24:13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
将来のいつ間にか、全世界の人々に臨もうとしている試錬の時に神は私達を防ぎ守ろう。
 ヨハネの黙示録3:11わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
 ヒラデルヒヤ教会の興しは、遅かったので、主の再来の時期に近づいているので、彼らにとって、即ち主が間もなくくることになる。
 ミレリアムを議論する昨今、神は人間に対する一種の警告である。この世代では、私達があの5時になってぶどう園に入る者である。
 マタイによる福音書20:6五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。20:7彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
 兄弟達よもう時間の余裕がありません。主イエスが再来に近付いた。忍耐強く、信仰厚く主の道を堅く保つように自分の冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
 元々自分の冠だが、まさか誰に奪われるとはかぎりません。頑張って自分の持っているものを堅く守っていなさい。もし可愛い人だけ愛すれば、罪人の場合でも同じ態度を持つではないか?可愛くない人を愛する事が出来れば、賜りが有りうる。くれぐれも常に自分には、愛が歩かないかを反省できるように
 兄弟達よ;もうぐずぐずしていられない。残される時間が僅かしかなかった。人に愛を持って接してください。特にいやな人や常に悪意を持つ人に対してもなお更に愛を持って寛容してください。
 マタイによる福音書6:12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
その意味は他人からの攻撃や試練があっても、許してあげるとの意味である。
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  今に主に従っていて、栄光を誇る事があれば、すべて主に属するべきである。。主イエスはエルサレムにロバで入る時と同じように、群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷いた。
 マタイによる福音書21:6弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、21:7ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。21:8群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。21:9そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
 服はその通り栄光で、地位が高ければ高いほど彼の服はますます彼の地位の階級を示すのである。貴方は長官の上着を道に敷き、その上にお乗りになることが許されないであろう。はっきり言えば、大会社の社長で教会の為に掃除までやれば、その謙虚さが分かります。へりくだっての精神だけで、どれほど人に感動させられるか?それは主イエスの権威が彼の身体にある。お互いに励ましあいましょう;
 主はすぐに来る。自分の冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守りましょう。
 ヨハネの黙示録3:12勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。

  神はヒラデルヒヤ教会にある勝利を得る者に向けて言われた;「わたしの神の聖所における柱にしよう」。
 もし宮の柱が外に移されれば、宮が崩れてしまうだろう。だから彼は決して二度と外へ出ることはない。昔も今もよく言われますが、国の柱と言われる方であれば、国家を支える偉い人と言えよう。だからヒラデルヒヤ教会にある勝利を得る者が神の国度の中にある大黒柱と言えよう。教会の中にもっとも重要な事は愛であり、これこそ聖書の誡めである。

  引き続き;
「そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」
 この城は特別に言われるのは天から降りてくる新エルサレムである。誰か神の幻を見たことがあって、又天国に行かれた。実にこういう話をした者が聖書の内容をよく知らないので、たわごとと言えよう。大いなる日、栄光の神の国は新エルサレムが地球にあり、天上ではないのである。神も地球に住み、天上に住むではなかろう。
 ヨハネの黙示録21:1わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。21:3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、」
 今の地球には汚れ罪が多すぎ、天も汚れ付いた。神はこれを全部更新してから、新しいエルサレムを下って来る。
 「わたしの新しい名とを、書きつけよう。」ヒラデルヒヤにある教会の勝利を得る者のように神は:「そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」
 神によってendorseのものですが、小切手の上に書くことではなく、勝利を得る者の上にかかれるものです。どこに書くのか?額の上でしょうか?だれでも遠い所から見られる;三つの名前;「神ヤウエイ」「エルサレム」及び「主イエスの新しい名」である。この三つの名前によって、神の国で絶対の栄光や権威を持つものではないか?
 ヨハネの黙示録3:13耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。
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