聖書ヨハネの黙示録講義ー(上)作者:呉明憲兄弟


第九講義―テアテラにある教会の御使への手紙




テアテラにある教会の御使への手紙

ヨハネの黙示録ニ章18〜29節
 ヨハネの黙示録2:18テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。2:19わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。2:20しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。2:21わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。2:22見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。2:23また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。2:24また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。2:25ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。2:26勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。2:27彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。2:28わたしはまた、彼に明けの明星を与える。 2:29耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。
 四番目の教会;テアテラにある教会の時代まで来て、次の言葉にあるの前後順序の変化がある;「御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」という言葉は「勝利を得る者を呼びかける」の後ろに置かれた。この前にエペソ、スミルナ、ベルガモの三つの教会に「御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は」御霊がこの順序で仰せになった。次の教会テアテラ勉強する前にこの部分を比較してみましょう。
先にエペソ教会を見ましょう;
ヨハネの黙示録2:7耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。先ず御霊が諸教会に言うことを聞くがよいがあって、そのあと「勝利を得る者には」がある。
次に2:11耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。ペルガモ教会にも同じような言葉をした。
 又2:17耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。又同じようになる。
 上記に引き続き;テアテラ教会から御霊は先に「勝利を得る者に呼びかける」その後、諸教会にも言われる。
 テアテラ教会に対する御霊は「勝利を得る者を呼びかける」の後、諸教会に言われる。
2:26勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。2:27彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。2:28わたしはまた、彼に明けの明星を与える。 2:29耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。
209

 サルデスにある教会にもそうだった;
  3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。3:6耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

 続きまして、ヒラデルヒヤに有る教会にも
  3:12勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。3:13耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

最後、ラオデキヤにある教会をみましょう
  3:21勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。3:22耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。
 
  通常聖書を読む時にこれを見逃すだろうと思います。これから今までの気持ちを整理して、よく考えてください;神の言は霊であり、いのちであるため、一つ一つの文字をよく噛んで味わうすべきではないか?これが人間の心の奥にある霊が神様の御言葉によって悟りを開いてくださるだろう。真面目に聖書を読むのが大事である。市販される本を読む時とまったく別の次元を考えて読んだ方が宜しいかと思います。
 
  なぜなら前の三つの教会にそう言う言い方をして、後の四つの教会に正反対で言われたうのである。先ず前の三つの教会につき、エペソ・スミルナ・ベルガモの光景が比較的に好い方であり、信者達が御霊の仰せになる言を聞き入れてくれる。聞き入れてから、実行に移って、そして勝利を得るものとなる。ところで、後の四つの教会がテアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤの信者の光景が悪くなって、勝利を得る者以外には御霊の言を聞き入れてくれないので、正に主による予言 された教会の光景であった。
 
  教会に三十年余りも居た私にとって、長くも言えないが、短くてもいえない。三十年の間に多くの信者を見てきたが、いくら話してもまったく聞き入れてもらえなかった。だからこの四つの教会にある勝利を得る者こそ御霊の言を聞き入れてくれるので、その呼びかける順序が変わった。なぜなら不合格であればいくら話してあげてもきいてくれないから。勝利を得られる者とはどういう人であろうか?聖書には詳しく書いてある。
 前には三つの教会;エペソ・スミルナ・ベルガモの教会に述べましたので、次に後の四つの教会の光景を見て見ましょう:元々私達の信仰の光景は神様の責める通りであるが、神の教えを聞き入れてから、悔い改めれば、まったく新しい人間に生まれ変わって、これこそ勝利を得る者になれる。神の戒めを守って、謙虚な気持ちで、強がる人であっても、神は何よりも偉大である為に、自我を切り捨て、神の戒めを守り切れば、そして忠実に福音を述べ伝えれば、これこそ勝利を得る者になります。
210

  これから四つ目のテアテラ教会を勉強しましょう;
 先ほど述べたのですが、テアテラ教会では、御霊は先ず勝利を得る者に呼びかけをしてから、教会に向けて言われた;耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。テアテラとは、ギリシャ語の意味は香りの祭りであると言います、最大の特徴は線香で祭ります。  更に主イエス・キリストの神格を聖使徒の類に格下げをした。しかもマリアと使徒達を持ち上げ、使徒達の偶像を創って崇める。
  しかも今になってもおなじである。ヨハネの黙示録の予言の通りにロマ・カトリック教教が主の再来まで続くのである。
 ヨハネの黙示録2:18テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。

  主は常に「人の子」と自称するが、どうしてここで「神の子」と自称しただろう?これがテアテラ教会では主イエス・キリストの身分を聖使徒の類に格下げをした為である。
 主イエス自分を「神の子」と自称したもっとも大きな原因はテアテラ教会では、主イエス・キリストである神格を人間の格に下げた為であった。主イエスは人間のマリアの肉体の息子ですが、マリアと言う人間を神格のイエス・キリストの上に置くとは、大間違いである。聖書の殆どの所には、ヨハネの黙示録の第一章でも神の子を人の子と呼んでいた例;「1:13それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」只テアテラにある教会の御使への手紙によって、御霊は主イエスを神の子と称する。これはわざわざテアテラ教会の人々に主イエスは天と地を創造される神様だと教える為である。
 だからここで。主は自称した;『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。』ここにある二つの形容詞があった;『燃える炎のような目』 と 「光り輝くしんちゅうのような足とを持った」。特別にテアテラ教会の光景に向けて神の裁きと観察を伝えるのである。
 2:19わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。
 カトリック教の暗い時期には人々に聖書を読み許せなかった。カトリック教会が多くの善行を行ったが、ロマ・カトリック教の腐敗の中心が主に幹部達にある。カトリック教は世界各地で修道院を創られ、自分の罪と戦う修道士達が一生修道院に閉じ込んでるる。例えば;16世紀のマチンルーテルなど、多くの善行をおこなった。しかもその外にカートリック教のイエス会がいたる所に行って病院を創設したり、貧乏人を助けたりする。カトリック教では主イエス・キリストを愛する宣教師や信者が少なくありません。テレサシスターはカトリック教のシスターであり、自分の一生が貧困な環境に居て、貧乏人を手伝ったり、救済したり、主に自分の一生を奉げて、そしてノベル賞を受賞された。
211

  実にテアテラ教会の行った善行はサルデス教会より多かった。サルデスの善行があんまり少なかった。
 2:19わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。
 確かにテアテラ教会による多くの救済や寄付の善事を行いました。カトリック教の発展の歴史を勉強すれば、聖書のカトリック教に対する予言が 非常に奇妙で、完全に予言の通りとなった。
 テアテラ教会について、千年余りの歴史の中で、十字架の東しるしのようで、大勢の兄弟がすべてを放し、神の為に十字軍に加入し戦場へ駆けた。教会の為に兄弟達もすべてを手放しが出来る。カトリック教が非常に金持ちであって、信者達が神に仕える熱心さや神を畏敬することにも非常に素晴らしいところがあった。
しかし残念ながら、教会の指導者は腐敗が極めであって、これもあんまり知られていない事である。更に信者達に聖書を読まさせてくれないので、教会もついに下記の聖書の言の通りに陥った;
 ヨハネの黙示録2:20しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
 イゼベルという女はイスラエル王であるアハブの妻です。イスラエル国民を偶像に拝ませる事を誘った;
 列王記16:30オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。16:31彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。16:32彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。16:33アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。

  カトリック教では、「イゼベルの教訓」とは「姦淫を行う事」と「偶像にささげたものを食べさせている」であるが、彼女は多くの外れの懲らしめることを教会の中に持ち込んだ。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。ここでの責めごとが偶像を拝むことを指すのである。
 イゼベルの教えによって、「姦淫を行う事」と言う意味は一人の女が二人の夫を擁することである。主の救いを受け入れて、教会の肢体となり、教会はキリストの新婦であるので、救いを受けた人が只一人の夫がいるべきで、それは主イエス・キリストである。ところでカトリック教は政教連合であるため、教会と世界を一つにされ、自分の夫に対する教会の行いが不忠をさせる。
 姦淫を行うことは権力闘争と言い、「偶像にささげたものを食べさせている」とは偶像を拝みになる。ヨーロッパにあるカトリック教の教会では偶像をおかない教会がありません。偶像の前に並ばれている線香の光景を見ると、台湾やバンコクのお寺の偶像と全く同様である。
イゼベルの教えによって、神にイスラエル人が罪を犯した。カトリック教も同じように偶像の本質が同じ意味で、悪魔から来るものであって、形式においていくつか仏教と異なる事があっても、本質は同様である。
212

  カトリック教の偶像は「ST」によって始まって、即ち「Saint」=聖の意味で;聖ペテロ・聖パイロ・聖ヨハネ等である。亡くなった聖使徒であれば、偶像をお造りになって、教会の中に設置され、線香で祭ってます。更に聖徒達を描く作品や彫刻される偶像を崇められることによって、、教会の歩みもだんだん歪みになる
  だからカトリック教では殆ど聖書を完全に理解し切れなかった。「バラ経」「使徒聖書」を大いに使われる。さもないと部分的な聖書の言を組み合わせにした聖書の言葉を用いるなど、勿論聖書の本意から多く外れる。カトリック教としては信者にこういうものを読ませているので、全教会の信仰光景もますます悪くなる一方である。
 ヨハネの黙示録によって言われるのは神の責めごとであるが、当時使徒ヨハネがこのヨハネの黙示録を書いた時、テアテラと言う教会はまだ存在されていませんでした。しかし神はここでの予言によって、このテアテラ教会の発展と光景を完全に予言通りになった。
 2:21わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。

  聖徒らはよくない光景に陥る時に神は必ず私達に悔い改める機会を与えて下さるが、悔い改めなかった私達であった。御霊はヨハネの黙示録では七つの教会に悔い改めてほしいと伝えられた。私達は中々悔改めようともしない。なぜなら神は既に言われた;悔い改めてその不品行をやめようとはしない。神は先に私達の先の陥りを教えてくださっても、それを聞こうともしない人間の愚かさである。
 申命記では当時モーセーはヨルダン河の東でイスラエル人に向けて警告された話は500年後の列王記にあるイスラエル人の信仰光景が正にモーセーの言われたとおりになった。神は常に悪業を起こる前に警告をてくださるが、くれぐれもしないようにと繰り返てくださっているが、人間が中々それを聞く耳をもっていなかった。
 エペソにある教会の燭台が取り除かれた原因は悔い改めなかったためだった。兄弟達 神の前にいる私達は悔い改める事を学ばなければならない;
 使徒行伝2:37人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。2:38すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
 第一重要な事は悔い改める事である;悔い改めるとは、心より変わること、そして悔い改めてから同じ過ちを犯さない事である。善の人間になれば、善事を行う人間にもなれる
 もし神の言が私達の耳に入っていても、棘に刺されたような気がするが、我々の行為に好い影響を与えなければ、神の言であっても自分の役にも立たなければ、意味がない。
 ペテロ当時の話によって人々に感動を与えたが、行為がどうすれば好いでしょうか?第一は悔い改めることである。「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
霊のある順序は悔い改めから始めであって次に主の御名によってパプテスマを受けることである:いくら悪い光景に陥っても主は私達のことを知っているので、最も重要なのは悔い改めるである。
213 

 使徒行伝2章にある悔改めると言うのは、殺人や放火の悔い改めをいうものではない。使徒ペテロのメッセージを聞いた方は殆ど敬虔な信者であって、世界の各地から来たユダヤ人だった。パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、2:10フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者もいる。こう言った方が五旬節の日を守る為に遥々遠い異郷の地よりエルサレムに戻って来られた。彼らは当時の交通不便に気にとらわれずにエルサレムへ向かって神を拝みの為に旅の苦労や危険や長い旅にかけるお金のことを気にせず、神への畏敬を示す為に戻ったのである。こう言った方の連中であれば、誰でも殺人や詐欺もしていなければ、何を悔い改めるというだろう?神の教えの深い意味によると、心は神に向けの第一歩は心より悔い改めることを指すのである。
 
  兄弟達;ヨハネの黙示録にある悔い改めるとは、異邦の民に向けて言うことではなく、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」これは御霊が諸教会に伝えたことである。悔い改めなさいと異邦の民に言っても役に立たない。ところでテアテラ教会に言う事になると諸教会に言っても聞く耳を持つ人がいるか?だから勝利を得る者にだけ呼びかけざるを得なかった。
 どうして使徒行伝にあるこの聖書の言を言い出して読んだのだろう?御霊は今の神の教会の中に勝利を得る者にしか呼びかけなくなった。初めの教会―エペソ・スミルナ・ベルガモでは御霊は教会の皆に向け言われてから、勝利を得る者に呼びかける。ところで;テアテラ教会の中から勝利を得る者でなければ、神の言を聞いても分からないほど鈍いのです。
 よく見つけた勝手な考え方を持つ信者であるが、神の言であっても神に属し、自分なりの行いなら自分で考えて行動すると思う人がいる。こういう考えを持つ人であれば、実に恐ろしい考えである。どんな結果を招くのか目に見えてくる。 
「2:21わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが」。神は肉体の私達に常に悔い改める機会を与えて下さるが、裁きの日になると、もはや、悔い改める機会がなくなる。だから神に助けて下さるようにお祈りなさい:なぜなら神は言われた;「悔い改めてその不品行をやめようとはしない。」
214

  ヨハネの黙示録2:22見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。
  「見よ」とは神の言われる意味は現世でも神の裁きを受けるのです。何を見させて下さるのですか?

 「この女を病の床に投げ入れる。」これだけではない;「この女と姦淫する者をも、」「悔い改めて彼女のわざから離れなければ、」「大きな患難の中に投げ入れる。」
 このような患難に耐える価値がない。クリスチャンにとって、二つの患難がある。一つ目は罰を受ける価値のない患難で、二つ目は使徒ヨハネの患難です。「ヨハネの患難とはイエスの患難である。
 罰を受ける患難とはわがままで自分なりの道しか歩かない自我中心の強い人であり、悔い改めない人を指すのである。神からのしつけが必要である。
 ここで言うテアテラ教会の失墜について、神は見逃すわけがないので、ここでも言われた;
「大きな患難の中に投げ入れる。」
 2:23また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
 誰かの話しを聞いたことが有ります;生きる毎日で、誰にくっ付いて見習えば宜しいかと思います。私は聖書をよんでから三十年にもなったが、このような教えは聖書にはなかった。誰一人の行いのせいで、神の裁きを受けられる;「あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう」。神は又言われた;こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。だから「この女の子供たちをも打ち殺そう」。

 神は教会に対する権力がある。神の呼び召しによって、このような信仰の光景にいる信者達が神を畏敬しなければならない。だからテアテラにある教会の御使への手紙による初めの言葉は『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。』一つは鑑査、もう一つは審判、しかも直接自分が神の子である身分を表明された。ある日;すべての教会は、わたしが人の心の奥までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
 主に従う方であれば、神への畏敬の心を持つできであって、神を畏敬であれば、主イエスの中にある患難を体験することを誇りに思うであろう。イエスの中にある患難とは、神をあかしする為、謙虚で、自我を捨てる。そして一緒に教会に仕える為、主イエスのことを第一に考えるべきである。主イエス以外に誇ることが一つもありません。
215

 そして 御国と言う意味は何ですか?と聞く方もおりますが;
ヨハネの黙示録1:9あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている;
苦難と忍耐を理解できますが、神の御国とは権力であり、神にも私達の体に権力がある。今日の教会は神の権力の表しであり、教会=御国で;神の言は教会の中に地位があり、信者が神の言を守りますので、所謂「御国」と言います。
  主イエス・キリストは私達の王であることを認める私達であるが、神は私達の体に権力があるので。私たちも戒めを守らなければならない。では次の主の言を読んで、自分が神の戒めを守っていますか?言い聞かせてください。
 マタイによる福音書5:38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
 多くの方がこの言葉の意味をよく理解できないので、疑問を持っていますが。又次の言葉を読みましょう;
 5:40あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。5:41もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
 はっきり言えばもし、誰かあなたの右の頬を打つなら、貴方がほかの頬をも向けてやることが出来るでしょうか?難しいだろう。ところで、若い時の私は主に向けてお祈りをしたがそんなこと誰か出来る人が居ますか?
 兄弟達 御国と言うのは、言い訳できるものではない。もし言い訳が出来れば、御国ではなくなった。神には私達の体に権力と地位があるので、御国が私達の体に現れることになる。世の中に常にパートナと兄弟達と友人との間に問題が起こり、その時に貴方の右の頬を打たれるか或いは相手の右の頬を貴方が打ったのか?これは人生の付き物で、常に学習をしなければならないが、いつかきっと主の教えを守ることができるようになれば、実行出来るのが大事である。神の言を守れば、御国の教えをまもることができるので、福の有る人間である事は間違いないであろう。
 
 ヤコブの手紙1:22そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。1:23おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。1:24彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。1:25これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
 これからどうやって神の教会を建てるでしょうか?教会を建てる最も力のある武器は神の言を私達の体に現れ、行動で御国の戒めを守ることです。
 もし、主イエスの中に苦難があっても忍耐強く出来る方であれば、もしだれか自分の右の頬を打たれれば、ほかの頬をも向けてやることが出来ると思います。しかし逆に言えば、自分の過ちによって、右の頬を打たれるべきであれば、神からの賜りがなくなるのではないでしょうか?
216

  他人に笑いごとにされるかもしれないが、主に従う私達であれば、この明らかな道理を求められる。今の教会の中に多くの助け合いが出来るのが見え、これは神の栄光の表しであり、兄弟達のの間にある謙虚と愛と寛容によるものである。
 コリント人への第一の手紙12:27あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
又言われた;私達のからだに調和をお与えになったのである
コリント人への第一の手紙12:24麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。12:25それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。

  実際、体は一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし私には足の役割をおあたえになれば、わたしは足の責務を果たすべきで、余計な文句を言うべきではない。
 また、もし耳が、わたしは目ではないから、体に属していないと言っても、それでも、体に属さないわけではない。もし体全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、体全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、体に備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこに体があるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、体は一つである。目は手にむかって、「お前はいらない」とは言えず、また頭から足に向け、「おまえは要らない」とも言えない。そうではなく、むしろ、体のうちで他よりも弱く見える肢体が、かえってそれが必要なのである。
 神の前にいる私達の霊のある生命は言い訳する事が出来ない。創造主は全能者で、神を畏敬し従うことが最全な道である。しかも主イエス・キリストは肉体に宿って、人間の為に支払った犠牲も私達にとって、見習う模範であるに違いない。だから、聖書を読んで、信仰を追い求め、早くも確信がつけば、最も早道が悔い改めることであると理解すべきである。そうすると神からの光が照らして下さって、霊の喜びと感動をお与えて下さるのである。
 2:24また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。
217

 

「また、テアテラにいるほかの人たちで」と言うのは誰の事ですか?そして多数或は少数を言われるであろうか?「ほかの人たちで」とは少数の勝利を得る者であると言う。。大多数の人々が神の裁きを受けることになる。
少数の勝利を得る者;即ち「まだあの女の教えを受けておらず」。「女の教え」とは:偶像にささげるものを食べるや聖書を読まぬこと及び贖罪券を売る事である。「まだあの女の教を受けておらず」の方であれば、勝利を得る者になる。
「サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う」。カトリック教のメッセージの内容につき、終始に眩惑で、特に神父らは世界のどこに居てもラテン語で聖書を読みます。非常に怪しいことですが、なぜラテン語を使う必要があるのですか?旧約聖書はヘブル語で、新約聖書がギリシャ語なのに、神父さんとして、ラテン語を知らない信者に向けて聖書を読んでも、例えば読み間違っても誰も理解できないのである。
 16世紀宗教改革者であるマチンルーテルが初めに聖書に触れたた時、既に神父さんとなって、そして神学博士への勉強を始めた時期であるが、聖書をもらった時、まさか聖書とは、こんなに66巻があると思わなかった。毎回ミサーの時に常に使用される言葉を繰り返すばかりだったので、あんなに厚みのある聖書なのにカトリック教が僅かしか読まさせてもらえなかった。
 すべての信者が神の言を慕っているが、聖書はカトリック教によって千年余りも隠され、人々に公開しなかった。敵のサタンが聖書を怖がるので、カトリック教に聖書を千年余りも封じさせられました。マチンルーテルは、聖書の全てを読めることによって、自分でも不思議に思い、聖書をよむことによって、腹から水が流れて来るような気がして、、自分には、憧れた霊のある言への渇きを満足させられたと同時に、今まで知らなかった自分の愚かさをも発見した。
218
  
  マチンルーテルは修道院に居る時に困難な環境に置かれる場合、常に聖マリアにお祈りをしてきた。「聖の母マリアよお助け下さい」と言う風に告白した。その後聖書が読める時期まで来て、やっとマリアにお祈っても救ってくれるはずができなかった事を知り、マリアと自分が同じ人間であることに気が付きました。マチンルーテルが元来、神父であり、聖書を読んでから、神の言を理解でき、そして還俗をして、ある修道女と結婚した。カトリックは従来神父の結婚が禁止されていた。
  聖書のテモテヘの第一の手紙4:1しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。4:2それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。4:3これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。この兄弟は本当に素晴らしかった。
 神はここで言われた;「わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。」当時の教会では暗かったので、テアテラ教会にある勝利を得る者には、ほかの重荷を、負わせることはしない。
 実に言うとその後の教会光景はますます悪くなっていく一方である。勝利を得る者にとって、賜りが大きくなるにちがいない。光景の好い教会では、勝利を得る者の賜りがそれほどおおきくないだろうが、なぜなら霊の光景の好い教会から出る勝利を得る者の数が多いであろう。
  
  2:25ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。
 主の励ましによって、主が来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。この聖書の言から分かるようにテアテラ教会は、主が来る時までその光景が続いているのです。
  神はエペソ教会に言われた;もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。ずっと悔い改めなかったので、エペソ教会がいつの間にか消えていった。スミルナ教会とベルガモ教会も過ぎ去ったが、テアテラ教会は主が来る時まで存在し続ける。
 ということによって、主が来る時までテアテラ教会の光景もそのままあり続けて、偶像を拝み及びマリアを崇めると香りの祭りなど、主の再来の時まで続きます。しかしテアテラ教会には、勝利を得る者がいる;「わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。」カトリーック教には多くの修道院があり、修道院にいる修道士が毎日真面目に苦役として働きながら、自分の罪を悔い改め、神の教えを真面目に守るような日々である。こう言う方が賢明で、愛情が深く、自分の罪以外に見える事がない。もし神から光がさしてめぐり照らせば、他人の悪い所を気にしなくなるし、人の罪を裁かないでいるであろう。パウロはダマスコ近くまでに来た時、突然;
 使徒行伝9:3ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
それ以来パウロは人を裁いた事がない。常に謙虚な気持ちで人に接してきた。しかし、その前に、いかに人を常に裁いてきた。
 使徒行伝9:1さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、9:2ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。
219

  パウロのような大使徒でもどれほど謙虚な懐であるか?彼の手紙を見て見ましょう;
 コリント人への第一の手紙2:2なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。2:3わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。2:4そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。2:5それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
 パウロは大学者であるが、知恵に溢れる話しが言える。神は唯人間に愚かな言葉だと思わせる言葉によって人間を救うので、パウロが神の僕となって、自分の誇りをすべて切り捨て、謙虚を持って、霊と力との証明によったものである。
 2:25ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。
 兄弟達;自分の持っているものを堅く保っていなさい。私達が教会への愛着の気持ちを持って、昨年がどのように仕えたが、今年も昨年と同じように仕えるできであるし、守ることをも大事にし続けなければならない。このまま主が来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。ちょっと落ち込んだ時でも、自分が主の救いを受け入れた時の光景を思い出しれください。主への愛着と霊の成長への憧れをそのまま堅く保つようにそれを捨てることがないように、かつ冷たくならないようにそうなれば、勝利を得られるのです。
 
 2:26勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
 権威とは王様となることです;この王様という権威が大きくて、神は賜った権威のある国である。神は私達が生まれてから、それぞれに合う環境に置かれる私達が主に従い、戒めを守れ、そして勝利を得られれば、永遠の世界に入って神の賜る冠を下さることができれば、どれほど凄いことだろうねと思います。
 2:26勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
 地上の法律の変更が出来、憲法までも変えることができますが、神の言はちっとも変わる事が有りません。
 マタイによる福音書24:35天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
  神の言の一画は永遠に変わることがない;
 ルカによる福音書16:17しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。
 ですので即ち主の言は命令でございます。私は常に兄弟達に貴方は勝利を得る者ですか?と聞かれます。今主の言によって、勝利を得る者の標準を理解しましょう;
220

  2:26勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者にはー勝利を得るものとなります。
 例えば:2009年に主に仕えて勝利を得る者となったが、2010年になって主の戒め及び仕えを放棄すれば、悪劣な環境に置かれて、そして、挫けた。その後、主の道から逃げてしまった事であれば、主のわざを最後まで持ち続ける者にはなれなければ、勝利を得る者にはなれない。
 テモテヘの第二の手紙4:10デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った。
 パウロの伝道生活が苦しかったので、逃げてしまったデマスであるが、結局今まで守ってきた事を中途半端で投げ出した。現実な世界にいるクリスチャンの中にこのような人間がいるので、実に非常に惜しいことである。
 クリスチャンには霊のある生活が常に主を仰ぎ、強い信仰を固く保つ事である。主は私達の体には地位があれば、即ち勝利を得る者となれる。主は割れた;わたしのわざを最後まで持ち続ける者には勝利を得るものとなります。
 2:26勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
 この「諸国民を支配する権威を授ける」;諸国民を支配する権威を授けられるとは、どれぐらい大きな国だろう;
 ルカによる福音書19:16最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。19:17主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。19:18次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。19:19そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った。
 上記の聖書の言に並んでヨハネの黙示録には「諸国民を支配する権威を授ける」と言う神の言である;18世紀の兄弟教会が聖書を解釈した内容によると、実は既に黙示されるように私たちに光景の悪い教会にある勝利を得る者への賜りがより多い事を教えて下さったのである。

 ヒラデルヒヤにある教会の光景がよくて、主を愛し易すくなる。なぜかというと教会に入る初信者にも兄弟姉妹達の愛が届くので、相思相愛の教会の教えによって、退かれたり、転んだりなどする事がなかった。ところでテアテラにある教会の場合であれば、偶像を拝む環境の下で暮らす信者がどれほど難しいだろう。テアテラ教会には権力闘争で、髪の真理が語られなく、神の真理を語る人であれば、唾を吐かされ、裁かれる。このような教会光景にいる信者であれば、誰か引き続き主を愛せる?教会の為に奉げたものを破壊される場合、誰か引き続き教会へ行かれますか?
 ヒラデルヒヤにある教会にいる貴方であれば、主を愛すれば、褒められ、喜ばれますが、テアテラにある教会に居る場合;主を愛すれば、迫害を受けたり、苛められたり、更に殺害される恐れもあります。兄弟達 必ず慎みますように主の教えを守ること、そして主が来る時まで持続する、主は言われたが、「諸国民を支配する権威を授ける」

次の聖書の言はもっと物凄い;
 2:27彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
  このような権威を得られる原因は地上に居た貴方の努力によって賜ってくださるのです。なぜなら共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっていることである。次の言葉を見てなんとなく奇妙ではないかと思わないでしょうが
ヨハネの黙示録1:9あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。
 ヨハネはなぜここで「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの福音や万人の救いの為にあずかっていると言わなかった。
何時ごろの集会で、ある兄弟は言われた;「私達が順番に主に感謝のことを述べましょう」
 出席した兄弟姉妹が順番に述べました。一番目の方は「今日、お祈りを答えてくれた、赤信号を無視し、罰金されるべきだったが、お祈りを聞いて下さったので、罰金されなかったと証しをした。類似のあかしが続いた。私の番になると「はっきり言えば、共にイエスの苦難にあずかっていることを感謝すべきではないかと私は述べました。  
びっくりさせてくれるのは遠い昔の兄弟達の信仰の心得と今の兄弟の信仰の心得の違いがこんなに違いがある。我々の模範である使徒ヨハネであれ、マチンルーテルであれ、いつも思っているのが共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっているとのことでした。
221
  
 ある讃美歌の内容:「貴方に傷跡がなければならない」。私達は知っている通りに主イエスは地上でどれぐらい傷つけられたでしょう?又常に不合理の待遇を受けられた。創造主である主は地上に生まれる様になれば、どこに生まれれば適当であろう。勿論超大国の皇帝の宮に生まれるべきではないか。純金のベットの上に大事に扱ってもらう僕たち。  しかし主イエスはベツレヘムの馬小屋に生まれたが体に布で包まれるだけで、それが私達の主である。
全能者の神であるが、こんなに謙虚で肉体に宿った。今の私達はなぜ日々謙虚に暮らせるか?その第一の原因は神と言う模範があったし、教会の中に誰か年輩者やお金持ちとかと言う事に関係なく、教会に仕えるとは、神に仕えることになりますので、神から祝福される行いであれば、次の通りになるだろう;
 ミカ書6:8人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
  主イエスとヘロデ王のどっちが偉いでしょうか?ヘロデ王が主イエスを殺そうとした時にヨセフに連れられ、エジプトまで逃げました。「これこそ主イエスの苦難と言います」
 マタイによる福音書2:13彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。2:14そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、2:15ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。

 ヨハネの黙示録2:26勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
主イエスは私達の模範となられた。

 クリスチャンとなった方であれば、よく知って置くべき事は、神の教えに向けて従うしかないのである。聞く耳を持つ事が大事だし、行うことがもっと重要です。神を畏敬する方であれば、神の箱にさわるべきではなく、神の証しに触れるべきでもないがなぜなら神であるので、その以外に理由がございません。
 私たちはテアテラ教会の悪い光景;「偶像を拝み・姦淫を行い・イゼベルという女を、そのなすがままにさせている。」と言う事を見ていてもこれによって、テアテラ教会を裁く事ができるかしら?いいえ絶対裁くべきではない。テアテラ教会は神の金の燭台ですので、神自身だけテアテラ教会を責める事が出来るが
私達は裁く資格がありません。私達は神の権威下に素直に服従すべきです。
222

  クリスチャンとなってから長い歳月が経ちました。そして一つ深い心得があり;神の教会は私達の死の上に建てられる。私達は死ななければ、命が働かない。
 コリント人への第二の手紙4:10いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。4:11わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。4:12こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
 死は私達のうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。「自我を切り捨て」。建てが教会の中に成就され、そして神は兄弟の肉体の中に大いに運行できる。自我をそのまま生かし、大声で、相手を威嚇するようなことではなく、自分の盛んな血の気を切り捨て、いつくしみを愛し、へりくだってこそ神は教会に起き上りを建てることができる。
 霊の有る言の事ですが、主イエスは何を言われたのですか;
 ヨハネによる福音書12:24よくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
 私達は常に主に申しますが;「主よ 私達は好い種になりたい、そして30倍、60倍、100倍の実を結ばせる。知って置くが実を結ぶ過程には先ず死ななければ、死によって私達の肉体に命が働くことになる。
「砕く」とは何でしょうか?自分には学歴があって、経歴があり、霊の有る体験も多いが、誰よりも強いと思うかもしれないが、こう言ったことをすべて謙虚に変えなければならない。大学の時に主イエスを信じてから8年となった時に、ある兄弟に主の救いの福音を述べ伝えて、主を受け入れてくれた。当時の地方教会は人の叫びの運動を率いるこに力を注いでいた。ねこもしゃくしは喉元を大きく広げなければいけなく、声をからし力を出し尽くすまで、そして教会の隣の隣人達まで聞こえて、多くのクレームも散々来た。そういう行いが完全によい証しができなかった。当時に教会に通った私を教会の皆が嫌った。なぜかというと私が叫ばない為でした。このような叫びが正しくはないと分かっていても、教会の集会だから行かなければならない。私はいつも最後の席に座っていた。教会の兄弟姉妹の叫び声を聞いた私にとって神経質となり、常に頭がひっくり返すようになるが、ただし忍耐し続ける。しかしあの主を信じ始めた兄弟も、皆に見習ってよく叫んでいた。当時の私は彼にこれが正しくはないと言う勇気がなかった。
223

  この兄弟は2年後信仰上の困難の問題があって、私を訪ねに来たが、聖書を開いてよく説明してあげると、彼はまさか聖書の中にこんな豊富な事があると知らなかった。信仰と言うのは単に叫ぶだけでできるものではない。
主に従う方であるなら、よく霊のある道への進み方を知らなければならない。
 マタイによる福音書7:13狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。7:14命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
 ある20世紀初めの中国の尼託声(ニトウセイ)兄弟はある詩の歌を書かれた;「主:貴方の為に苦しみを受ける機会があんまり少なかった」。天使は神の神跡を賛美できるが、マリアだけで主イエスが涙を流した様子を見届けた。
 ヨハネによる福音書11:32マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。11:33イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、11:34「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。11:35イエスは涙を流された。
 御座にいます神の栄光は非常に輝きであって、すべての人々が神を賛美に行かれますが、主イエスは地上で苦難を受けた時にペテロさえ彼を認めできなかった。先ほど言われた20世紀初めのニトウセイ兄弟のことですが、あの詩の歌で「主の為に苦難を受ける機会が少な過ぎて、僕の私には将来への期待を急がせないように、又将来になる時に今日の過ちを悔しい思いをする」
 今の私達は常に主よ早めにおいで、私が苦しいので、早めにおいで下さいと叫ぶようにお祈りをする。本当に主の再来後、主の為に苦難を受ける機会がなくなり、その時に悔しさが残るだけになる。だからよく今の機会を大事にしなければならない。
 歴史上、王となる前の時期に王の側につく忠誠な人はその後、仕える人が王となった時に、もっとも重要なポストを賜られるでしょう。だから現世に言う暫くの軽い苦難;
コリント人への第二の手紙4:17なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

 永遠の重い栄光を、あふれるばかりを得たければ、このしばらくの軽い患難を見軽くすべきであろう。特にこれは「主イエスの苦難を認知する必要がある」。世に出会ういやな事が大勢にあるが、それが主からの機会だと思えとも言いたいのである。
 兄弟達 私達がもっと主に見習い、主に似て来るように、そして少しでも主のように傷跡があれば、好いので忍耐強く、主の戒めを守り、挫けていても絶望しないように続いていつも主を愛することができるし、昨年も今年も将来も同じである。さてお互いに頑張りましょう。
 2:27彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。
 はっきり言えば、神の前で私自身がすべてを砕かなければ、どうやって他人を砕く事ができるでしょうか?「鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように」。これは徹底的な権威である為、主からこの権威の杖を授かる事が出来れば、どれぐらい信用されているだろう。現世の私達の命なら、その権威を得る資格がないので、試練に試練を重ね、将来への準備を揃えておくべきである。
224

 だから神はテアテラ教会のような環境を起こして、この悪い環境下にこれらの兄弟達を置かれて、ここで苦難に耐える精神力を覚え、更に神に忠実し、愛し、そして畏敬できるまで鍛えられて、試練に合格出来る者に権威の冠を賜る。
この権威は縦横無尽の如く;彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように。勝利を得る者が現世の時に神によって、粉々のように砕かれ、壊されて、主の為に自我のすべてを思い切り離せて、又主に仕えられるのである。こうしてこそ神より権威を与えられる。この権威は只数十年だけではなく、永遠である。なぜなら貴方は主が来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていて、主のわざを最後まで持ち続けられて、そして勝利を得る者となった。その時こそ貴方にはこの権威を持つ資格ができる。
 キリスト教の真義を言えば、命の表しである;この命の現れるポイントは上にいる人が下にいる人間に仕えることである。今日の世界では地位の低い人間が地位の高い人間に仕える。家庭だけ上下の順序がある。例えば;子供が大会社の社長となっていても、相変わらず貴方の息子であり、家庭で親孝行すべきであるが、これは命の上下と言います。
 
  マタイによる福音書20:25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。20:26あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、20:27あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。20:28それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
 命の上下と言うのは、身分の高い方を身分の低い方に譲るべきである。これによって、神の前で、分量があると見られ、反対に何もかも自我意識で思いやりのないを行いであれば、神の前に分量がないと見られてしまう。  
 コリント人への第一の手紙:「4:15たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。4:16そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。
以上の手紙は当時の教会を責めたパウロの言葉である。
225

  昔教会の難所に出会ったことがある;教会に仕える二人の長老は激しく口喧嘩していたが、その場に着いた私がやっと両者の言い分を聞いてから、二人に神は貴方二人を長老と立てた目的は、教会の兄弟姉妹を導きするためであると思うが、ここで喧嘩するお二人の姿を見てしまう兄弟達に損を与えるでしょう?又皆が神への信仰と愛を弱めることになるでしょう。もし誰かこの状態を見て、羊の群がれから離れていたら、狼に噛まれてしまう恐れがあるのではないか?これらの羊が十字架の血によって、償わされたのである。神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さったことを思えば、貴方達二人として、もっとお互いに思いやりがあって、愛を表さないのか?
 私は誰か良し悪しと言っていなかったが神の十字架の愛の話しを聞いた二人の長老は涙を流して神に悔い改めた。
 人生には色々があって、一々すぐ解決できるとは限らないが、主の来る時まで忍耐強くしなければならない。はっきり言えば、当時、地方教会に居た私であるが、常に苛められたことがあったが、誰にも言わなかった。いつもの通りに集会を参加しに行きました。私も他人から変な眼で見られ嫌われていたことを知っていたが、わたしがちっとも気にしなかった。ある日、主が立って私をあの場所から引き離して下さった。
 主に従って、他人に役立たない事を言う必要がない。言っても意味がありません;私達には正確であれば、別に損をしても素直に従えば、栄光の冠を賜って下さる。例えば、頑張って教会にピアノを奉げたが、教会から感謝の言葉を届かなくても、主は記念して下さる。こう言う時こそもっと頑張って奉げられれば、賜って下さる冠が益々大きくなるであろう。
 マタイによる福音書6:1自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。6:2だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6:3あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。6:4それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
 攻撃されても、迫害を受けても、依然として主の教えを守り通せば、神は教会の信者の霊の成長をさせることになり、祝福も賜りも多くなる。
 神から各教会の御使への手紙によって、前の20節でも述べたように、教会の御使いが多いので、、即ち主に従う者であれば、教会の御使いとなれるのですが、教会の御使いとしては、悔い改める必要がないか?答えは必要である。又忍耐強くする必要がないか?答えは必要である

。尚主のご命令に従う必要がないか?答えは最後まで守るべきである。
兄弟達お互いに励ましあって、そして主のことを信じて、前へ向かって頑張りましょう;主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
226

  あなたは先見性を持っていて、物事に的確判断でき、経験もあって、又聡明であり、事情を重点的に把握でき、すべて人より頭一つが抜きんでいる。こういう方なら世界に行けば随分通用できると思う。
 しかし今日は教会に来られた貴方が、へりくだってあなたの神と共に歩むことができれば、どれぐらいの信者の方に影響を及ぼすだろうか?計り知れないでしょう。
  主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべこの兄弟のように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。サタンにしては、「恐らくまったく理解できないだろうと思います。この人なら何でも分かるのになぜ主に従うのか?尚知識もあり、経歴も多いのに誰にも負けないぐらい自負心が有るはずだが、知識や経験の為に、従うことではなく、神を神である事を信じているしかない。」主の救いを受け入れてから長くないですが、聖書に対する悟りもあり、牧師のメッセージの良し悪しの区別もできて、なにもかも見通しがいい方だし、判断も正しい。
このような優秀の方であれば、主を信じ、そして聖書をもっと悟れば、更に主を畏敬することになる。しかし人間の悟りには主からの慈しみがなければ、そして自分の血の気の性格を修正しなければ、いくら知識、経歴の豊富であっても、パリサイ人のように霊のある世界の真実が体験できないだろう。
 下記の内容について、だれにとっても好い勉強になるので、信仰と言うのは、目の見える事に気が取られ過ぎれば、神の奥義の有る祝福を理解できなくなるでしょう。
ヨブ記1:8主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
  サタンの返事を見ましょう;
ヨブ記1:9サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。1:10あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。1:11しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
  結局一日の間にヨブの十人の子供と牛、羊及び不動産など全部奪われて、貧乏人となったが、すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
  ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
ヨブ記2:3主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
サタンの返事は次の通り;
2:4サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。2:5しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
2:6主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
2:7サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。2:8ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
  上記にあるヨブ記の例によって、私達は主に従う時、主は私達の好い行い事には誇れることを届けてくださらなければ、逆にサタンから私達の行う悪事の為に、神の前に来て、私達を訴える機会を与えないように努力すべきである。
227

  神はキリストの中にある私達の従順、忍耐、苦難と私達の身体にある地位を誇りに出来るようにクリスチャンとしての私たちは務めるべきである。主イエスは肉体に宿った時の人々に向けて言われた言葉が素晴らしかったであろう。しかし依然死へ向かって行かなければならない。主イエスには能力があるだけではなく、奇跡何でも行える。方言などどんな言葉でも言えるが、主イエスこそ「言」=「word」。主イエスにしては出来ない事がないですが、なぜか十字架に釘付けられなければならないのか?主イエスはこの世界を救いに来たためである。主には出来ない事がないのですが、どうして十字架を選んだでしょう。
 兄弟達 聖書の意義を理解できるのが賢いといえよう。最終的に教会に役立つのは、十字架の上にあるイエスの死によるものであり、主の信者としては;主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
だからここでの賜りは次の通りになる;
ヨハネの黙示録2;27彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
羨ましがれるエペソ教会に比べたら如何なものか?                             ヨハネの黙示録2;7耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。
エペソ教会にある勝利を得る者には与えられる賜りものは、これだけと思えば、ところでテアテラ教会にある勝利を得る者には与えられる賜り物は「彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。」
しかも人間の世界のように短い数十年しかできない権威と言うことではないですが、神からの賜りが永遠であることを忘れないように。我々はいかにも勝利を得なければならないので、頑張りましょう。
だから教会の不理尽に耐えられる方であれば、その賜りが更に大きいであろう。
 真理の教会に居て主に従って、エペソ教会のように羨ましがられる光景の中で勝利を得る者達は一緒に神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べに行かれるのも喜びますが、この鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるという神の賜りをテアテラ教会の勝利を得る者にお与えになるのです。
ヨハネの黙示録2;28わたしはまた、彼に明けの明星を与える。2;29耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。
 「明けの」と「明星」とは「明けの」―朝や前面の意味で、「明星」―神の子供のいみです。神は明けの明星をテアテラ教会の勝利を得る者に与える、そして神の国では、非常に前面の(高い)地位にある
もうひとつを注意する必要がある;聖書の中にあるサタンが
 イザヤ書14:12黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。
 なぜサタンを黎明の子、明けの明星と呼ばれるのですか?彼は初めて創造された天使である。
 ここで主は言われた;「わたしはまた、彼に明けの明星を与える。」その意味はこの教会で勝利を得る者には将来神の国で大きな地位を賜られるので、彼らに鉄のつえを与えることになる。
228

  出来れば、鏡に照らして見てください;自分の今の光景をよく反省しましょう。このような権威を得る資格があるでしょう?まだまだですよ。もっと心身とも粉々に砕かれなければ。地上にある人間は神を体験する経験がなければ、一つの小さい教会を与えられるだけでも問題多いのです。。必ずこのような光景を他人の問題だと考えないで、自分の身にあると思いながら、自分の光景がいかがなものか?と考えましょう。もし百人の教会さえ皆を旨くお導きできなければ、将来どうやって神の国で諸国を治めるでしょう。
 ヨハネの黙示録2:29耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。私達は本当に注意深く聞いて実行する必要がある。教会に失望や挫ける時にテアテラ教会の光景を思い出して、そして神に助けてくださいとお祈りすべきである
229

TOP

フッター



フッター