ペルガモにある教会の御使への手紙
ヨハネの黙示録2:12ペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。2:13わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。2:14しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。2:15同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。2:16だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。2:17耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。
スミルナ教会の発展の歴史は約300年間で、多くのクリスチャンがロマ帝国から迫害された300年間のことである。ロマ帝国の皇帝「君士坦丁皇帝」はクリスチャンとなり、スミルナ教会時代が終焉を迎えた。それからキリスト教はロマ帝国の国教となり、教会歴史もペルガモ教会の時代に入り、ペルガモ教会の発展歴史も大よそ百年弱で続いたのである。
特にヨハネの黙示録にある七つの教会に対する神の予言を読めば、本当に奇妙な神だと感じる。しかし神は前もって教会の発展の流れにつき、聖書を通して教えてくださったので、結果としては、教会の発展の歴史も完全に聖書の予言のとおりに起こった。兄弟達;聖書はこのまま書かれたので、歴史が予言の通りとなって、正に全能の神である。
ヨハネの黙示録2:12ペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。
第一章では使徒ヨハネは主イエス・キリストの特徴を見てのべた;「口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており。」この鋭いもろ刃のつるぎは神の言である。実に神は七つにある教会の御使への手紙による内容は、即ち現在の教会に最も乏しいところである。この長い二千年の間に教会発展の姿が益々混乱となり、もし神の教えを守らなければ、神の真理も忘れて、失ってしまうであろう。例えば;洗礼の儀式の簡略化である;聖書の教えが浸水の礼であるが、ペルガモ教会になってから点水の礼に変えられた。その後のテアテラ教会はお金の為に贖罪券の販売を行った。こういう事を作ったきっかけは神の言を守らなかった人間の仕業であるので、この様な光景に対し、神はペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。
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2:13わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
ロマ皇帝もクリスチャンとなった時に自然の流れによって、宗教と政治の結び付きができる。問題も多くなり、教会に大勢の問題を作り上げた。教会には権勢があるので、権力闘争も付いてきた。教会で信の話しをすれば、生き延びにくくなり、神の真理を勇敢に言う人が迫害されたり、殺害されたりするので、歴史上において、クリスチャンを迫害する二つの段階があり、第一;スミルナ教会の時にローマー帝国による迫害であり、もう一つはペルガモ教会から後のテアテラ教会まで、政教連合の為に権力のない真のクリスチャンが権力のある偽りのクリスチャンの迫害を受けた。それともローマーカートリック教の迫害を受けるとも言える。
事実に言えば、ローマーカートリック教はローマー帝国よりクリスチャンをもっと多く殺害された。当時の政教連合によって、教会の真理を伝えない権勢の実力者に反発する人間を火の刑にかけるほど犠牲者が多く出た。聖書の真理を話す自由を信者に与えない当時の専制ぶりについて、当時の『ドン・キホーテの?記』の作家「サイハンテイシ」が幻の寓言の表現方法で、描いた自分が悪魔と戦う毎日だったことをこの『ドン・キホーテの?記』にある寓言を通して表現されたことによって、後世に名が残したこの偉大な作家がついに宗教の権力者の手によって、葬られ、火の刑にかけられた。
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『ドン・キホーテの?記』の内容は正に次の聖書の内容の通りに;
ヨハネの黙示録2:13わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。
ペルガモ教会には本当に多くの敵が忍び込んで、サタンの座席となった。ロマ皇帝自身はクリスチャンであることを認めてから、すべての悪行が染み込んできたのである。当時の教会が大いに墜ちた。このような場所では「あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスが・・・・・・」これは一人の名前ではなく、多くの人を意味する。当時教会の光景を見過ごせなかった多くの聖徒が勇敢に正義の声を発し、神の真理を公言されるほど、人々に教会の光景がこうなったべきではなかったと呼びかけていた。
「あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
神はペルガモにある教会の御使への手紙で、サタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。ここで「わたしに対する信仰を捨てなかった」と言う意味は、キリストの名を認め続けた。なぜかと言うとイエス・キリストの御名は、ペルガモ教会の時から、信仰土台からだんだん退廃され、テアテラ教会の前身となり、主イエス・キリストの御名も漸く捨てられ、後のロマーカトリック教会となった。又イエスの代わりに聖の母マリアを崇められるようになって、この時期から、テァテラのロマ・カトリック教となり始めた。
教会の権力者は母親が子供より偉いと思うので、マリヤを崇められれた。このようおこないが神の真理に反したことであって、神様は黙ってルはずはない。兄弟達;十六世紀の宗教改革者;マチンロートは言われた;困難の時に聖の母マリヤにお祈りっをし、イエス・キリストに向けてお祈ることではなかった。
聖の母マリヤに祈れば適当でしょうか?又、私達のお祈りを聞いて下さるのですか?いいえ;それは不可能です。四福音書で主イエスがアリヤに向けて、話した言葉を見て見ましょう;1回目は主イエスが12歳の時でした。イエスは会堂へメッセージを聞きに行かれたが、マリヤが彼を探しに行った。主イエスの言われた内容;
ルカによる福音書2:49するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。
2回目はガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ヨハネによる福音書2:3ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。2:4イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わ
たしの時は、まだきていません」。イエスの言われた意味は;私の時がきていないが、なぜ神のしるしを行わせるでしょうか?
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3回目の時に、主イエスは会堂で人々を教えている時;
マタイによる福音書12:47それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。12:48イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。12:49そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。12:50天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。
若い時に上記の聖書を読んでいた時、驚かれました。これは何を意味しているでしょうか?後になって、だんだん分かってきた。主イエスはこのような話をした経緯につき、その内に教会には難しい状態に置かれ、真理に反し、マリヤを高く崇めることになると先見の明があった。
主は肉体に宿った時にわざわざこのような会話を交わした。なるほどロマーカトリック教から十六世紀の宗教改革者マチンルーテルまでである。十六世紀の宗教改革者―マチンルーテルは言われた;困難の時に聖の母マリヤにお祈りをしたが、イエス・キリストに向けてお祈りをした事がなかった。マチンルーテルは神父であり、伝教者としてさえ信仰の過ちを犯したが、普通の信者であれば、尚更ではないか?もし聖書を読めば誰にお祈りすべきであるのか?言わなくてもお分かるはずである。
マリヤが誰の霊魂を救うことも出来ないし彼女は唯普通の人間と同じように肉体の命が尽きたら、陰府にはいくことになるので、なぜ人の霊魂を救えるかしら。イエス・キリストだけ神である;「今いまし、昔いまし、常にいまし」ですので、主イエスだけ私達の霊魂を救ってくださる。主は甦りの神であるのですが、カトリック教が今になってもマリヤの偶像を設置し、線香で、この偶像を信者に拝ませるのです。
主はヨハネの黙示録二章13節で言われた;わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。
神の言とは何でしょうか?「信仰によって義と言われる」であるがペルガモ教会がこの「信仰によって義と言われる」を捨てただけではなく、信者を欺き霊魂の贖罪券まで販売を行ってしまった。
戯の言で人々を欺いて言われた;皆のポケットにある金の摩擦の音が将来永世で貴方を告訴するであろう;貴方の先祖、ご両親の霊魂が硫黄の火の池で苦しんで叫んでいる声が耳に届いていないか?なぜなら親族の貴方としてはケチで贖罪券を買うお金を出し惜しいからである。
しかしもし贖罪券を買ってもらえば、ご両親や先祖の霊魂が地獄の煉獄の苦しみから免除されるであろう。贖罪券の販売について非常にでただめの作り話で、お金を稼ぐ目的で、行った悪行である。しかし、もし信者は聖書に記載されてある「信仰によって義と言われる」ことを理解すれば、カトリック教にとって贖罪権の販売によって、お金をもうけることが出来なくなるであろう。
カトリック教はなぜそんなにお金持ちの教会となったのかというと、歴代の積み重ねで信者の銭を搾取したことによるのである。それは非常に正しくない行為で、又 教会としては人々に神様の福音を述べ伝えるべきであって、人々に永遠の命をお導きすべきではないか?
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教会は霊魂の救いの福音を述べ伝えるのに、信者からお金をもらうベきではない。信者としては自分の感動や信仰によって、決めるできであろうと思います。
イギリスには一人偉大な信者がいて、その名が「ジョウジ・ムラ」と言います。神からの黙示によって、彼が孤児院を創設された。彼は言われた;私が本当に孤児院を創設したくて創設したではないが、只この地球には一つの事を証明させてもらいたいのです。即ち主にお祈りだけすれば、心にあるやりたい事や願い事が必ず達成できるようにし、他人に助けをお願う必要がない。神に彼と共に仕える人には共通の原則が有り、それは絶対誰にも孤児院にはお金が必要だと告げられない事である。お金が不足の場合、口外できない掟である。神に断食でお祈っても好いが、共に働く以外の人にお知らせるべきではない。
ある日、孤児院には既に食べ物がなくなったが、あるお金持ちの貴婦人が孤児院を参観にお見えに来て;こっちの孤児院の各方面では非常に旨く運営されているそうですねと言われた。彼女がこんな大勢の孤児がいることを見た時に、多くの経費が必要だと分かった。孤児院の全体参観を済ませたこの貴婦人から聞かれた;こんな大きな孤児院であるので、銀行に大勢の貯金がなければ、やっていけないであろう。接待係はその話しを聞いて答えた;そうです、神は天に一つの口座を用意して下さったので、お金が永遠に足りるのです。その回答を聞いた貴婦人が非常に感動されて、即座に5ポンドを献金された。百年前の5ポンどですので、大金だと言えよう。この5ポンドは、決して接待係りはお金がないので、献金や助けてを求めたということではなかった。それは貴婦人が自らから献金をしたのである。天に居ます私達の父が永遠に足りる口座を用意して下さったのです。確かに間違いなく神はこの貴婦人を通して、お金を持ってきていただいた。
ジョウジ・ムラは言われた;一生にかけて約60年間、毎日いつも、どこにいでも神を仰いですごされた。神様からのご援助には、1回も遅れることがなかった。よく考えてください、それが大勢の孤児のお食事のことであって自分一人ではなかった。その描いたことを読みながら、涙を流した私だった。彼の信仰の強さが並大抵ではない。
ジョウジ・ムラの神に対する仰ぎにはいくつかエピソードがある。ある日 同僚から明朝のお食事の金がないと告げられた彼は;当日にも孤児院に来訪客がいなかったし、夕方になっても最後の郵便配達の時間も過ぎ、こんな時期になっても小切手などの献金もなく、何の援助もなかった。一体真実な神はどこへ行かれたのでしょうか?兄弟達よ、我々の信仰は神を仰ぐことであり、お金を仰ぐことではないです。しかしジョウジ・ムラと共に頑張る同僚達が遂に不安になって、信仰が弱くなったが、ジョウジ・ムラは同僚達にお金が既に来ていると言われたが、どこですか?どこですか?と同僚に聞かれたが、ジョウジ・ムラはお金が確かに来ているがどこにあるか?知らないけどと答えた。一体お金はどこにありますか?
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夜中まで近くなると隣の男の方がブザーを鳴らしに来た。「これは貴方達の手紙ですか?と隣人に尋ねられた。まさか郵便配達人のミスで違うところに届いた。開いてみると小切手が入っていた。
小切手を受け取った同僚は、喜んだ;明朝の食事代が解決した。ジョウジ・ムラはこのように神へ仰ぎによって、永遠に欠乏したことがなかった。
ジョウジ・ムラは六十年間にわたって、合計数百万ポンドの援助を受けたが、その中に一人の援助者が黙々多くの金を奉げていたが、誰もだれかを知らなかった。実に黙々と献金を奉げた人がジョウジ・ムラ本人であった。彼個人は多くの兄弟達からの献金があっても、彼が黙々に個人の金を孤児院に奉げられたのです。数十年でも一日の如くである。
ジョウジ・ムラは亡くなられる時に、同僚のお祈り会で、あるメッセージが残された;「私達をお導きするのはジョウジ・ムラではなく、御座にお座りになる神様である」。ジョウジ・ムラの日記の記載によると、彼は主に60年間も仕えていたが、この一生の間に四万余りの願い事を神にお祈って、そして叶えてくださった。一年に365日、一日に1回を聞くが、どれぐらい時間が四万回のお祈りが聞けるでしょうか?十年に3650回、100年に36500回、ですので、ジョウジ・ムラは1日最低でもお祈り求める事は3回以上がありのではないか?そしてクリスチャンに霊の有る人と霊の悪い人の区別がお祈る時に神がどれぐらいアーメンをして下さったことによって見分けられる。
ジョウジ・ムラは晩年の時に孤児院もスケールが大きくて軌道に乗れたので、余裕ができて、あちこちに誘われ、あかしのメッセージを行った。彼の話によって、自分は元々伝道者になりたかったのですが、孤児院を創設された。神は彼を四、五十年を鍛えてから連れ出してあちらこちらにあかしのメッセージを行ってもらった。そしてある日のことですが;朝9時前にある教会につかなければならないが、船に乗るとロンドン全地に霧ができて、自分の手が前へ伸びてもその手が見えないぐらい大霧であった。ジョウジ・ムラは船のボスに言ったが、9時前につかないといけない。このような天気が誰も船を出さないと返事したボスであったが、では下まで一緒にお祈りましょう;十分が立って又船の上に戻ると、霧が見えなくなって天気が晴れてきた。これは正に神の仕業である。
ジョウジ・ムラにとって神は神であるが、私達にとって、神は伝説である。ということによって、聖書の言葉を理解できた;
ヨブ記42:5わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
実の話であるが;主に従うのも常にわたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、私達の経歴が浅くて、霊の事に対する理解が限られている。方言を言う人さえ神のことをも耳で聞いていました、又神について多くの霊の奥義が知らないのである。
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次の聖書の言葉によるは;「あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ」はっきり言えば、「主の忠実な証人達がサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ。」その時の貴方であれば、本当に主に対する信仰を捨てることはないでしょうか?目の前の試練を通せるかどうか?分からない人も多いだろう。
又その試練の時に神の言を思い切っていえるだろう?これも今の世界にいる貴方にとって、大きな試練ではないか?
ロマ・カトリック教が16世紀まで、教会を批判する人に火の刑罰をかける残酷な手段を採ってきた。このような環境の下で、貴方であれば、尚勇気を持って、サタンの悪行を行う集団に立ち向かえられるでしょうか?自分の目の前で「主の忠実な証人達がサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ。」その時主に対する信仰を固く守られるか?その時こそ本当に主の忠実な証人であるかどうかを確かめられるのである。
肉体に宿ったイエスの事ですが、主は言われた;私が神の子であると言われたから、十字架に釘付けられた。今の私達は人々に主の福音を述べ伝える時に例えば嫌な眼で見られても、恰好をつけられ、攻撃されても、悪口と背後でからかわれても、ペルガモ教会にある当時の環境と比べると大したことではない。
主の為にいくら悪い環境に置かれても心にあるのは、感謝で一杯があるべきではないか?さもなければどうやって主の使徒や主の弟子と呼ばれる?主イエス・キリストは当時ユダヤ人からこの人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるとからかわれた。
マタイによる福音書12:24しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。
兄弟達;異なる時代で、多くの人為的な行いによって制限されたり、制圧されたりすることがあるが、それはクリスチャンの敵であるサタンが非常に神の言を怖がるためである。だって神の言とは『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたですので』、更に敵にとって、もっとも怖がるのが主イエス・キリストの御名によるものである。我々の敵の願っていることは、貴方が神にお祈りしなように、貴方をそうさせるため、貴方を絶望させ、そして絶えずに攻撃する。
ペルガモ教会は政治と連合となってから、闘争が多発され、忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺されて、殉道者が続出だった。
ヨハネの黙示録2:14しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。
ここで責められているのは、クリスチャンである。クリスチャンとしt、偶像を拝むと言うことによると、どうなんでしょう?言われているのは偽りのクリスチャンではなく、ベルガモ教会のクリスチャンを指していわれたのです。「あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。」現にバラムの教とは何ですか?
民数記24:12バラムはバラクに言った、「わたしはあなたがつかわされた使者たちに言ったではありませんか、24:13『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
バラムはバラクにお金がいらないと偽りながら答えたが、自分の利益の為に主の命令に逆らった。上記の聖書の続きでバラムは言うべきではない事を言ってしまったのだ。
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民数記にあるバラムにつき、常に神の命令に逆らってはいけないと言ったし、イスラエル人を呪うなと言う神の教えを知っていても、自分の利益の為にイスラエル人を罪の罠に陥るようにバラクに一つ方法を教えてあげました。
民数記31:16彼らはバラムのはかりごとによって、イスラエルの人々に、ペオルのことで主に罪を犯させ、ついに主の会衆のうちに疫病を起すに至った。
バラムはバラクにはかりごとをしたことが異邦の民の女性を使って、イスラエル人の男子を誘惑をさせて、そして偶像を拝ませ、主に罪を犯させました。新約聖書にあるペテロ第二の手紙によって詳しく説明をした、下記のように;
ペテロの第二の手紙:2:15彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、2:16そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。
バラムは不義の実を愛し、たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけ。このまま述べたが、実際的にこの人が非常にお金がすきです。
バラムは異邦の民の預言者であるが、イスラエル人ではなく、神の僕であるには間違いないのです。バラクがイスラエル人と戦争する時にバラムを招こうとして、使者を遣わして言われた;イスラエルをのろってください。彼らはわたしよりも強いのです。あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることをわたしは知っています」。
しかしバラクがバラムの神がヤウエイと言う事を知らなかった。バラクの使者たちは占いの礼を手にしてお出かけし、バラムのもとへ行って、バラクの言葉を伝えた。バラムは彼らに言った;「今夜ここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたがたに返答しましょう」。
神はバラムに言われた、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。
バラムはバラクのつかさたちに言った、「あなたがたは国にお帰りなさい。主はわたしがあなたがたと一緒に行くことを、お許しになりません」。その後;
バラクはまた前の者よりも身分の高いつかさたちを前よりも多くつかわした。
しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
それで、どうぞ、あなたがたも今夜ここにとどまって、主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」。夜になり、神はバラムに臨んで言われた、「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。
『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
一人の先知として、神は1回目でいけないと言われたので、2回目に再度聞くべきではない。バラムはなぜ2回目も聞いたのでしょうか?ここには非常に奥義が深いのです。バラムは2回目も神に告げられる時に神はバラムに臨んで言われた;「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。(民数記22:19−20)
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22:21〜33明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。22:22しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。バラムは、ろばに乗り、そのしもべふたりも彼と共にいたが、22:23ろばは主の使が、手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見、道をそれて畑にはいったので、バラムは、ろばを打って道に返そうとした。22:24しかるに主の使はまたぶどう畑の間の狭い道に立ちふさがっていた。道の両側には石がきがあった。22:25ろばは主の使を見て、石がきにすり寄り、バラムの足を石がきに押しつけたので、バラムは、また、ろばを打った。22:26主の使はまた先に進んで、狭い所に立ちふさがっていた。そこは右にも左にも、曲る道がなかったので、22:27ろばは主の使を見てバラムの下に伏した。そこでバラムは怒りを発し、つえでろばを打った。22:28すると、主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」。22:29バラムは、ろばに言った、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」。22:30ろばはまたバラムに言った、「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」。バラムは言った、「いや、しなかった」。22:31このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使が手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。22:32主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。22:33ろばはわたしを見て三度も身を巡らしてわたしを避けた。もし、ろばが身を巡らしてわたしを避けなかったなら、わたしはきっと今あなたを殺して、ろばを生かしておいたであろう」。
22:34バラムは主の使に言った、「わたしは罪を犯しました。あなたがわたしをとどめようとして、道に立ちふさがっておられるのを、わたしは知りませんでした。それで今、もし、お気に召さないのであれば、わたしは帰りましょう」。22:35主の使はバラムに言った、「この人々と一緒に行きなさい。ただし、わたしが告げることのみを述べなければならない」。こうしてバラムはバラクのつかさたちと一緒に行った。
バラムは神に長い間従っても神はイスラエルをどれほど大事にしている事を知らなかった。バラクの所に来て、5曲の歌を歌ったが、イスラエルを呪う勇気がなかった。来る途中で主の使いに会っていたが、殺されようとされたのである。しかし バラムが帰ってからバラクにはかりごとをおしえてやった。異邦の民の女性でイスラエル人を誘惑することによって、主にイスラエル人を罪犯させられた。そしてペテロ第二の手紙で、バラムは不義の実を愛し、そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けたと記載されていた。
それではヨハネの黙示録では、「バラムの教訓」とはどんな意味ですか?非常に簡単な意味である;「人々を誘惑し、偶像を拝ませる」と言ういみである。偶像を拝みや占うなどとは、聖書によると、非常に大変な罪である。ロマ・カートリック教としてゃ、最も多く起こられる。ヨーロッパにある教会に立ち入れば、教会の中に多くの偶像が並べている事が見えてくる。例えば偉大な使徒の彫刻像;ペテロヤパウロヤマリヤの偶像である。聖書の戒めである十の戒めの第二条;
エジプト出記20:4あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。20:5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、20:6わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
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と言う神の教えに従って、家には刻んだ像にそれにひれ伏してはならない。又仕えてはならない。そう言った偶像を並べば、常に悪魔からの攻撃をうけることになるであろう。
中国人には最も好きなドラゴンー龍というのは実にサタンであることをご存知でしょうか?
ヨハネの黙示録12:9この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
龍というのは、ヘビがまだ墜落する前の姿だった。龍の四本の足を取り除くとヘビとなる。元々ヘビには脚がついてあるが、神によって呪われてから、脚がなくなった。
創世記3:14主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
家には刻んだ偶像以外にも人間の顔写真等、出来るだけ壁に飾らない方がよかろう。一般の生活写真など構わないですが、誰か様の個人写真、特に身分証明用の写真を壁にかければ、偶像に対する崇めるような気持ちになれば好くないでしょう。
私達は知っていた通りに「バラムの教訓」とは人間に偶像を拝がませることである。バラム教訓のもう一つ特徴があり、彼はお金に夢中で貪欲、不品行な行為である;今の神の教会にもこのような事がある。バラムはお金への欲張りの為に、バラクにイスラエル人に罪を被らせる為に偶像への供え物を食べることと異邦人の女性と姦淫をおこなうようにはかりごとを教えてやった。
偶像を拝む為、生んだ恐ろしい結果がご存じでしょうか?ギデオンという勇士がいて、即ち「ギデオン三百勇士」にあるギデオン士師です。 士師記にあるミデアンびとがユダヤ人を苛めて、戦争に仕掛けるので、神はギデオンに臨んで;イスラエル人を引き連れてミデアン人を追い出す為に戦うようにと告げた。(士師記8:1〜21)
ギデオンの七十人の子供が後になって、アビメレクと言う人によって、全部殺された。(士師記9:1〜5)なぜなら;
士師記8:22イスラエルの人々はギデオンに言った、「あなたはミデアンの手からわれわれを救われたのですから、あなたも、あなたの子も孫もわれわれを治めてください」。8:23ギデオンは彼らに言った、「わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます」。8:24ギデオンはまた彼らに言った、「わたしはあなたがたに一つの願いがあります。あなたがたのぶんどった耳輪をめいめいわたしにください」。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである。8:25彼らは答えた、「わたしどもは喜んでそれをさしあげます」。そして衣をひろげ、めいめいぶんどった耳輪をその中に投げ入れた。
エポデというものは、霊のあるもので、
士師記8:26こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。8:27ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった。
ギデオンはこう言うことをおこなったので、自分の七十人の子供まで災いにつながった。
ギデオンが拝んだものは異邦の民の偶像ではなくても、神に感謝するしるしとして、は戦争の勝利を記念する為にエボデを作られただけであったが、結局 それはギデオンとその家にとって、わなとなった。
ギデオンのような勇士でも、神の戒めの第二条に違反したことによって、その家族達の不幸を招いた。この教訓につき、願わく私達に神様の教えを心の奥に刻んでおきながら、慎しんで日常生活においても、常に戒めを守りましょう。
18世紀のキリスト兄弟会では、十字架さえ、教会の中に置かないひといて、全くヨハネによる福音書の4章にある内容である;
ヨハネによる福音書4:21イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:22あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。4:23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
偶像を拝むのがもっとも大きな罪で、聖書をよく勉強してから行動をとった方が宜しいかと思います。その次にもよく士師記にある神の言をよみましょう;
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士師記8:25彼らは答えた、「わたしどもは喜んでそれをさしあげます」。そして衣をひろげ、めいめいぶんどった耳輪をその中に投げ入れた。8:26こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。8:27ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった。
最後ギデオンとその全家族の死に方を理解しましょう;
士師記8:33ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたバアルを慕って、これと姦淫を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。8:34すなわちイスラエルの人々は周囲のもろもろの敵の手から自分たちを救われた彼らの神、主を覚えず、8:35またエルバアルすなわちギデオンがイスラエルのためにしたもろもろの善行に応じて彼の家族に親切をつくすこともしなかった。
ギデオンのもう一つの名前はエルバアルと呼ぶ。次に彼の家族の結末を見ましょう;
士師記9:1さてエルバアルの子アビメレクはシケムに行き、母の身内の人たちのもとに行って、彼らと母の父の家の一族とに言った、9:2「どうぞ、シケムのすべての人々の耳に告げてください、『エルバアルのすべての子七十人であなたがたを治めるのと、ただひとりであなたがたを治めるのと、どちらがよいか。わたしがあなたがたの骨肉であることを覚えてください』と」。9:3そこで母の身内の人たちがアビメレクに代ってこれらの言葉をことごとくシケムのすべての人々の耳に告げると、彼らは心をアビメレクに傾け、「彼はわれわれの兄弟だ」と言って、9:4バアル・ベリテの宮から銀七十シケルを取って彼に与えた。アビメレクはそれをもって、やくざのならず者を雇って自分に従わせ、9:5オフラにある父の家に行って、エルバアルの子で、自分の兄弟である七十人を、一つの石の上で殺した。ただしエルバアルの末の子ヨタムは身を隠したので生き残った。
エポデとはレビ人の祭司が胸にそれをかけているが、ギデオンはエボデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。結局、えらい事が起こった、自分の七十人の子供が全部殺されてしまった。
クリスチャンとなれた私達であれば、神に従うと言うが、実際には物事を知らないところが大いにあるのではないか?ギデオンのような霊のある方でも自分が何かの罪を犯したか分からないという;エボデを作って、イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった。聖書の言葉をよく理解する上で、行動をとった方がよかろう。中途半端の理解や区別のつかない智慧であれば、できるだけ早い時期に神の聖書の勉強を頑張るしかない。
ギデオンが好意で神に感謝と感恩のために、エボデを作ったが、国民がそこに出かけて、祈願をおこなった。最初にお一人で、日が立つにつれて人がだんだん多くなって、そして、最後、イスラエル全民が集まってきた。
出エジプト記20:4あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。20:5それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし。
ただし神はエルバアルの末の子ヨタムは身を隠させ、生き残させられた。兄弟達 偶像を拝むことが非常に重い罪で、クリスチャンである貴方が偶像を拝んでますか?ベルガモ教会の歴史から真実が分かるのは、クリスチャンと成れても、偶像を拝む方がおります。
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偶にクリスチャンの家に伺うことがあるが、壁やテーブルの上に色んな変な形の飾り物が有り、可愛いから集めてきたと言いますが、慎んでください、特に仏教、チベット教などの珠など、くれぐれも自分のわなとならないように。
ギデオンがエボデを作った;エボデは霊のあるもので、天の幕を作る時に神はモーセーに指示して作られたものであるが、祭司の胸に巧みなわざをもってエポデを作って、つける必要がある。これに二つの肩ひもを付け、その両端を、これに付けなければならない 。(出エジプト記28:6〜12)まさかこのようなものを拝んでも有事とは思いもつかなかったでしょう。だから当時の兄弟会で厳格に十字架まで設置しないように、恐らく十字架を設置することによって、ギデオンのエボデの様な事態にも起これば、怖がるのである。又神は人間に十字架を作れと言っていないし、これも人間が主イエス・キリストを記念する為に十字架を作ったのです。ベルガモ教会の歴史からクリスチャンの偶像への拝み事を見たので、即ちあらゆる事につき、神と聖書の地位より偉いと思えば、そしてそれを拝めば、偶像を拝むことにあたることになるであろう。
現在のクリスチャンは聖書にないもの、儀式や規則などを言いだし、そしてそれを崇めるが聖書の神の言を放置することは偶像を拝むことにあたる。又霊の有る人に対する尊敬が聖書の言より尊敬されれば、偶像拝みになる。だから慎みましょう;人間のアイドルなんがいらない。同じ肉体生命であるので、比べる必要がない。主を認識出来れば、それで人間の生きる限りにつき、最も大切なことである。世界の財宝、富、権勢より幸せだと自認すべきである。なぜなら我々は永遠の神の国で富ある。主に従っていて、首にも家にも何もつけて飾る必要がない、一すら出主に従うことや戒めを守ることがもっと重要である。時間があれば、ゆっくり出エジプト記をお読みください。偶像についての説明があきらかである。
2:15同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。
前にはお話したように「ニコライ宗の教」は聖教階級のことである。これは多くの教会には存在してあることです。聖教階級を簡略に説明すれば、誰かを見つけて、私達の為に神を崇める。要するに私達はお祈りすることができないですが、牧師だけできる。霊のあることを知らない私達であるので、主の僕を招いて、やってくれる。これは「ニコライ宗の教」と言います。
神の箱を新しい車にのせると同じ様に祭司らが肩で運ぶべきなのに、牛の車に乗せてしまった。教会では神の為のあかしであれば、教会のみなさんで相互に取り合わせることを求めるできではないか?そして必ず牧師一人で、すべてを囲うということではなく、兄弟姉妹で共同で盛り上がることによって、一心同体となれる。そうでなければ、ニコライ宗の教となる。
2:16だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。
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兄弟達;悔い改めなさい;今聖書の勉強をするように、神の教えを知れば、個人の生活や性格を変えるべきである。例えば;家にある龍の偶像ですが、高くても廃棄しなければならない。又他人にあげることもゆるされない。貴方からもらった偶像を他人が拝めば、貴方にも罪があります。
ギデオン自身がエボデを拝んでいなかったが、他人を拝ませたことによって、罠に陥った。それに自宅の壁にできるだけ死人や活人の写真をかけないように。ある兄弟が自分の身分証明の写真を拡大して壁にその写真をかけました。彼の家に家庭礼拝を参加に行って、その写真が非常に目立ち過ぎて、私が不安の感じをした。半月後彼が健康診断を受けたが、ガンという病気が発見されたそうで、三け月後に亡くなったのです。普通の生活写真なら別に構わないが、出来るだけアルバムにしまえば宜しいかと思います。特に拡大される写真を壁に飾らない方がベストである。なぜなら壁に写真をかけるのが霊魂世界に関わるのである。
さきほど言ったエボデのことですが、ギデオンとしては絶対にあのような悪い結果を招くことが思いもよらなかったではないか?戦争に勝った彼は敵から多くの金銀財宝を勝ち取った。彼は謙虚で、皆からのご擁立を断って、只神の事を思って、エボデを作った。、神に忠実であるが、神の戒めを犯された。結局彼の七十人の子供をすべて殺された。兄弟達よこれは霊魂世界の仕業であり、人間の成し遂げることではない。
クリスチャンとしては、必ず理解すべきである。即ち神の言によって、神に栄光がある。所で神の言によって、人間に栄光が有るということではない。だから偶像を拝むため他人を連れ込みすべきではない。
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家に写真や絵をかけても、自分の判断によってやれば宜しいが、我々は他人への干渉や判断をしないことが大事です。これらの事であれば、人間にとって難しいだろう。家に戻ってから検査し、よくないものがあれば取り除け、聖書に照らし合わせることが重要だが、又次の聖書をよく理解できるように
ヨハネによる福音書4:20わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。4:21イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:22あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。4:23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。4:24神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
だから慎みなさい;有る時に家に何かえらいことが起こる時に霊の事によって、何かないか?反省すべきである。主は言われた;悔い改めなさい
ヨハネの黙示録2:16だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。
神の言をきいてから、行動に移らなければならないと思いなさい。音楽を聴くことのように聞き流すべきではない。今まで知らなかった物事の罪について、一旦神の教えを聞いてから、罪だと分かる時にすぐでも悔い改めれば、幸いであるが、反対に聞き流せば、罪の重さが増えるでしょう。
例のエペソ教会のことですが、神はエペソ教会を責めました、そして悔い改めなさい、しかしエペソ教会が悔い改めなかったので、燭台をその場所から取りのけられた。
ヨハネの黙示録2:4しかし、あなたに対して責むきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。2:5そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
だから神からのしつけを自覚する時に、二つの結果が生みます。第一;前へ進みます。第二:後退する。クリスチャンの人生は横断道路の真ん中に来た時に丁度車が走ってきて、その時にも前進する?後退するかの二者から一つを選ぶことになる。神の教えが来る時に貴方が前進するか後退するか?賢明に考えましょう。
神の言を聞くことが重要であるが、神の言を講ずる時にもっと大事です。パウロによる一つの言葉が私にとってもっとも影響が大きい。
コリント人への第一の手紙9:27すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。
この言葉の意味は福音を述べ伝える方にも失格者となる場合もあり、必ず失格者とならないことはない。
ヨハネの黙示録2:16悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。
神の口の剣とは神の言である;今の地球世界で神の言は現世では勧告や励ましであるが、永世では裁くとなるであろう。永遠の世界では神の言が裁きにに当たることになる。経営者は部下にやれと指示した事は部下が言われた事をやらなかった時に、経営者が必ず部下を責めるでしょう。これも審判を受けること。将来主は必ず私達に聞きます;教えてあげたではないか?お祈りなさい。
マタイによる福音書7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。7:8すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
主に聞かれる時の貴方の答えは「はい、分かります」ではなぜお祈り求めないですか?なぜ教えた通りにやらなかった?この世の経営者の考えも自分の意思に従わない部下を首にすることが当然だと思うだろう。裁きを受けることもやむをえない。
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神の言はとてつもなくパワーがあるが;現世であればしつけや励ましであるが、永世ではさばかれるとなる。
だから;神は「わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。」
神は現世で私達を励まして下さる聖書の言であれば、永世で私達を攻撃するであろう。主イエスは肉体に宿った時、パリサイ人達が一日中モセの律法を持ち歩くのを見て、そして彼らに言われた;将来貴方達を裁くのがモセー律法である。
ヨハネによる福音書5:45わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
主イエスは彼らの真理の聖霊であるため、彼の為に助けの話しをするが、パリサイ人を訴える者は、あなたがたが頼みとしているモセーその人であり、律法はモセーからである。
だから永世になると主はイスラエル人にすべて教えてやったといったが、なぜその通りにやらないだろうと聞かれるであろう。
2:17耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。
主からの冠の賞とは物凄く栄光で「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。」マナとは霊の有る糧である。この糧が隠されている。ベルガモ教会の時期に多くの人が霊のある知識をよく知らなかった。当時の教会の押し瀬がよくなかったせいで、その中に本当に霊のある方が抜てきされないし、重視されなかったのである。。
このような方に「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。」このような事にも本人しか分からない。神は彼をお導き、主を認識させ、霊のあるマナーを得させ、彼の霊の成長を供給し続けると言うことは「隠れのマナ」と言います。
「また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。」
よく見掛けている飾りの書道の字や額や画などのことですが、人間がそう言うものを送り物にすることがすきですが、又学校で賞状を学生に送ったり、多くのベスト賞などを芸能人に贈られたりする。そして本人のサインや組織名やそれとも総理大臣の印等などがあります。もらった人もそれを大事にし、家の壁や飾り台の上に置いてある。それが来客にお見せする為、自分の誇りだとお知らせる。まあまあいいだけど、これこそこの聖書の言葉から学んだものではないか?
神は言われた;「白い石を与えよう」。この白石は何でしょうか?よく知らないが、最初に石とは易いものだと思っていたが、骨董品に対する知識が増えにつれて、段々分かったきた。赤いダイヤモンド、翡翠、玉などすべて石の種類に属するが、それが物凄く高価な石である。しかし中国大陸で遂にある「白石」を見かけたことがあり、その名は「羊脂白玉」と言いますが、その価額は高くて、想像もつかないほど高かった。
神からの賜り物はどんな白石だろう?イギリスのエリザベス女王の王冠とプレートの上に世界で最も大きな二つのダイヤモンドが有り、成分の極上の500余りカラットの大きさから分割されたものでした。それ以外に世界で最大なダイヤが三百余りカラットしかなかった。
主イエスはその日、賜って下さるものがこの500余りカラットのダイヤモンドより貴重な白石であり、そして『この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。
昔の時代では天皇陛下から国にある功労者への贈り物は常に額や彫刻のものを送り、その上に賜る功労者の新名や天皇陛下のサイン等も書かれて、この功労者の客間の真上に飾られ、一つの身分象徴とも言える。
神からの賜り物とは;「また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。これはどれほど大きな賜りであろう。これもピカソの絵や人間世界による六千年以来の誰からの贈り物よりずっと貴重であろう。それとも永遠に残される。主から下さる栄光の賜り物であろう。
『これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』
私達は現世で永世の世界の事を理解できるのが僅かしかなかったのですが、
ヨハネの黙示録2:9わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、(あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。
上記の(あなたは富んでいるのだ)と言う意味さえ想像もつかないであろう。ビルゲイツ様が世界一の金持ちであるが、これも神の言われる「(あなたは富んでいるのだ)」ことではない。ビルゲイツも他人と同様に肉体の命に限界がある。いくらお金があっても、その金がどこにも持っていけないのです。本当の富は永世でなくてはならないがこの世にいる時の自分が本当にイエスの教えに従って、神の国の為に頑張ったでしょうか?そして勝利を得る者は非常に栄光で神の永遠の国にはいることになる。
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