スミルナにある教会の御使への手紙
ヨハネの黙示録2:8スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。2:9わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。2:10あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。2:11耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。
エペソ教会の時代では使徒時代とも呼ばれていた。約50〜60年の短い間しかなかった。それに続くのは、スミルナ教会である。「スミルナ」のギリシャ語の意味は「没薬」で、受けようとする苦しみを意味する。スミルナ教会の発展時期は約三百年間の長い歳月が続いた。
ところで10節の「あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう」とは、神から見れば、三百年が実に短かったのではないか?この時期にキリスト教会はユダヤ人とローマー帝国の迫害に置かれていた。
私達が知っている通り、ローマーに円形競技場があり、当時に多くのクリスチャンが中に入れられ、素手で、獅子と格闘の歴史が知らない人も少ないでしょう。スミルナ教会について、この時代にある教会の歴史及びその発展を延べ、当時のクリスチャンの苦しみを隈なく説明します。
ヨハネの黙示録2:8スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。2:9わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。
苦しみを受ける方や、殉道したクリスチャンを慰める為に私は先に貴方達の為に殉道し、そして、甦ったのです。恐れるな;主は自己紹介の言葉を読みましょう; 私は『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、』
スミルナ教会はクリスチャンが十字架に釘付けされる苦難を表したことである。そのような患難や迫害の環境によって、、聖徒達が常に主は一体私と共にいますか?と疑いやすくなるだろう。ですので主は言われた;私は『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、』
主イエスは十字架に釘付けされてお亡くなられたのですので、ここで特にスミルナ教会の聖徒には「自分が死んだことはあるが生き返った者が、』と自称し、それで聖徒達も主の御名によって勝利を得られる。
主は言われた【わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている、しかし実際は、あなたは富んでいるのだ。】 ここでの貧しさの意味は霊の謙虚さであり、霊の貧しさとは霊において、なにもないことを意味する);しかしここにある貧しさは、肉体の貧しさを意味する。
なぜなら迫害される聖徒達の生活が正常に仕事が出来ないので、常にいつか釘につけされるか?戦慄に怖くて、正常に働けないので、収入がなくて貧しい。
「しかし実際は、あなたは富んでいるのだ。】肉体生活が貧しくても、心での支えが主であり、全能の神の栄光が照らして下さるので、心に有る喜びと霊の世界の喜びが大いに満たされるので、幸せが感じられる。
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主は言われた:「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている」(しかし実際は、また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。
使徒時代が過ぎ去っていても、多くのユダヤ人は物凄くクリスチャンを迫害し続いていた。使徒であるパウロの言われたとおり、福音が異邦の民に向けられるようになった。
ローマ人への手紙11:25兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
ですのでイスラエル人は救われなかった。彼らは主が肉体に宿った時も主を迫害し、殺害したが、主が天に昇ってからもクリスチャンを迫害し続けた。
「また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。」
主は肉体に宿った時に、ユダヤ人をサタンだと言ったことが有り、なぜなら主を殺そうとしていたからである。
どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。
ヨハネによる福音書8:40ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。8:41あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである」。彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。8:42イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわされたのである。8:43どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。8:44あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
ヨハネによる福音書では主が言われたことばであった;主はユダヤ人を悪魔と責め、天に昇ってから、ヨハネの黙示録で、再度この言を言われました;「ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。」
聖書にある66巻では、創世記からヨハネの黙示録まで、記載される内容が一貫して、矛盾な事がありませんでした。「ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。」
ヨハネの黙示録2:10あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。
スミルナ教会の信者のすべては迫害を受けて、死んでしまったことではない。「あなたがたのうちのある者をためすために」只一部の人だけが、殺され、獅子によって食いちぎられ、又獄に多くの人が入れら、教会全部が迫害さに陥ったのである。
「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。」
しかし全教会が試練を受けて、その試練を超えなければならない。試練を合格できるのは、忍耐強く、労苦を気にせず、そういう気迫があって、初めて忠実な聖徒であることを証明できる。
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小さい時に他人の家で家庭礼拝を参加する時の光景を覚えてますが、屋根が雨漏れていたので、雨が降れば、バケーツで雨の水を貯めた。今に生活が豊かになって、エアコンや家電製品などすべてが揃えてますが、神に仕える当時の仕方がもう目にすることが出来ない。人間とは貧しい生活から豊かになって、次第に神から離れていき、あの極上の愛が世間の金に移り変わって、主を愛することを考えるだけでもなくなるだろう。ローマーのパチカン聖ペテロ大教会のように、あんな立派な大教会であるのに、中にある座席は全部サタンーの席になって、偶像だらけとなった。というので、霊のある教会の変化について、建てた教会の外観と正反対で、ますます綺麗な作り方の教会であれば、霊のない方向へ変わっていき、簡易な建て方の教会なら、霊のある教会と言えよう。
これは多くの霊のある人の話しによる経験談ですが、ここで神は言われた;あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。兄弟達;恐れるな;主は言われた;貴方がおそれてはならない。
悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。
「死に至るまで忠実であれ。」一体死ぬまで忠信の人がいますか?答えはおります。
ダビデは艱難の時に本当に勝利を得られたが、一旦王となって、生活がのんびりできて、朝寝坊で、このような暮らしの中にかえって罪を犯してしまった。これもそうですが、人間がのんびり生活ができれば、主を愛する事が難しくなる。貧しい時に余計な金がないし、娯楽や付き合いの余裕が出来ないので、常に教会の集会を参加する事が出来る。十円があれば、九円を献金しても易しいでしょうが;千万もあれば、百万円も奉げれば、出来るだろうか?
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若い時に百円も持てば、全部献金しても惜しくないが、一億でもお稼げば十分の一に当たる千万をささげる時の心境は非常に大きな試練でしょう;神に利息の計算をするかもしれないが人間の気持ちが次第に変わっていって、冷淡になりやすくなる。
神はここで言われた『死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。2:11耳のある者は得た御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。
ヨハネ黙示録2章8〜11節まで、苦難にあう教会や信者達に言うと同時にスミルナ教会の光景を予言された。この第二の死によって滅ぼされることはない』。御霊の言を見て見ましょう。
ヨハネ黙示録20:14それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。火の池とはなんですか?
イザヤ書66:22「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と主は言われる。66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
ヨハネ黙示録20章の教え通りに死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。そしてイザア書では;新しい天と、新しい地がわたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」と言う記載があった。
しかしイザヤ書66章にある「あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる」とは救いを得られたクリスチャンを指すことではない。
「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と言うのは、これらの子孫はすべて血の気のある肉体人間であり、新しい天と、新しい地にいるすべての人がクリスチャンでも誰であっても死ぬことがない.
元々アダムが罪を犯さなければ、死ぬことがなかったが、神は仰せになった;
創世記2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。だが神は
詩篇90:4あなたの目の前には千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
そしてアダムは千年を超えていなかった;930歳でなくなり、千年も過ぎ去ればきのうのごとく、その日で食べてからその日でなくなる。
イザヤ書にあるすべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる
66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。 186
新しい天と、新しい地にいる時に新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。礼拝を終えてから「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見るー彼らの生き生きしている火の池にいる苦しい様子を見る。
聖書によると「そのうじは死なず、その火は消えることがない。」これこそ大変恐ろしいことです。火の池にあるうじは、一匹や二匹だけではなくイザヤ書にある記載を見ましょう;
イザヤ書14:11あなたの栄華とあなたの琴の音は陰府に落ちてしまった。うじはあなたの下に敷かれ、みみずはあなたをおおっている
これは火の池の光景である;そこに陥った人々の全身の口や目や鼻や耳には、うじで満ち溢れて、どうして日々の生活に耐えられるのでしょうか?聖書によって「そのうじは死なず、その火は消えることがない。」
火の池にいる貴方の体のいたる所を虫が噛んだりして、痛くて痒い。又火山内部の高温の火によって体が焼かれるので、その苦しみをお分かる?特に痒さに耐えられるというと、人間だって痒さには最も耐えがたいことです。火の池で数え切れないほどのうじに噛まれてからの痒さが骨まで痒くなり、痒くてたまりません。もし 神から火の池にある光景のビデオを見せてくだされば、見るだけでいい、体験する必要がない。その光景を見た貴方であれば、なぜ主の福音を述べ伝える必要があるか?お分かるであろう。福音を述べ伝えるのは火の池に陥らないようにするためである。
人間は主イエス・キリストを信じ、洗礼を受ければ、第二の死によって滅ぼされることはない』。ところで神はスミルナ教会への手紙の中から教えて下さったことによると、クリスチャンとしては依然第二の死によって滅ぼされることがある』。聖書によって、神は私達の為に千年の国の冠を用意して下さったことを知ったのです。救いを得るのが恵みであって、只誠にイエス・キリストを受け入れれば、学歴が低くてもお金がなくても、赤信号違反、脱税や殺人しても、救いを得られる。第二の死によって滅ぼされることはない』。しかし千年の国の冠については「天国」と呼ばれるが、天国へ行きたければ懸命に努力しなければならないのです。
マタイによる福音書11:12バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
救いを得るのは恵みであって、主イエスが神の子であることを信じそして主イエス・キリストが十字架に釘付けられたことによって私達の罪を許して下さる事を信じれば、努力しなくても霊魂が救われる。唯で救いの福音のこの恵みを得られるが、「天国」という所は神の千年の国を指して言うので、即ち千年の婚姻のうたげである。その天国とは冠を賜って下さる事であり、一生懸命に努力して、好い結果が出て、主に認められれば、天国に入れるのです。「天国」と「神の国」が異なるが、天国とは即ち千年の婚姻の宴と喜びであり、子羊の宴である。
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神の国とは神の全体の国を指すのである。千年の宴の喜びと新しい天と、新しい地を含められる。白い御座の裁きの後、新しい天と、新しい地には、神の恵みによって、主イエス・キリストを信ずる人であれば、入れるようになる。即ち「イエスを信ずる方は永遠の命を得られる」と言われます。
ヨハネによる福音書3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
多くのクリスチャンが主を信じてから相変わらず悪行を行うので、神は善と悪を区別するために、千年の宴の喜びのご褒美を用意して下さり、勝利を得られる人こそ、この子羊の宴に入るのを許されそう。
例えば:いのちの冠を与えよう。神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう、千年の宴の間だけあります。
千年の宴の喜びの冠を受けられるかどうか?どっちか違いますかというと、聖書にとって、千年の宴の喜びに入れないクリスチャンであれば、裁きの後、すぐでも「暗い所」や火の池に所に投げ込まれる;
マタイによる福音書25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
さもなければ、第二の死によって滅ぼされることになる。「暗い所」とはどういうことを指すであろうか?試験の合格は60点であるが、59点しか取れなかったので、不合格と認定され、暗い所に投げ込まれる。そこで何もする事がなく、唯千年の宴の終わりを待つだけである。皆さん;想像してください、やることはないですよ、人と人の付き合いもなく、只真っ暗の中で待つだけです。もっと深刻なのは、火の池に投げ込まれる人であれば、苦しみの日々である。
肉体生命の時に悪行を多く行なっても悔い改めなかったクリスチャンには、このような罰を受けることになり、そしてゆっくり千年の時間の終わりを待つほかに何も出来ません。
コリント人への第一の手紙3:13それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。3:14もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、3:15その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。
それは本当に火の池に千年の間でその苦しみを体験するのですが、そのうじは死なず、その火は消えることがない。もう一度下記の聖書を読みましょう;
66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
これは『第二の死によって被害になる。』なぜなら千年後、貴方が火の池より出てきて、新しい天と、新しい地に入るので、第二の死によって滅ぼされることではない、只『第二の死によって被害になるだけです。』 所で、必ず千年がたってから出られるかどうかと言えば、これは神のみ分かることである。聖書にはない言葉であれば、我々が勝手に言わない方が宜しいかと思います。しかしヨハネの黙示録によりクリスチャンあっても『第二の死によって被害がある。』耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。
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勝利を得られないクリスチャンであれば、第二の死によって被害を受けないという保証がありません。神は誰でも受けろと言っていないが、でもはっきり言えば、必ず誰かそれを受けることなる。
必ずしも失敗したクリスチャンが入るとは限らないが、正しく裁きの神様であるため、聖書の言によれば、間違いなく誰かそれをうけることになるであろう。よく考えてください;火の池の苦しみが限りなく延々と続くので、毎日火に焼かれ、うじに噛まれ、そして救いを得ていなかった人であれば、この苦痛を永遠に受けるであろう。
イザヤ書によると 66:23「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。66:24「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
主イエス・キリストの救いを軽視し、信じていない人であれば、その日に火の池に陥った教材見本となり、すべての血の気の人々の負の教材として、神に逆らう罰を火の池で受けてもらうことになる。サタンまでも同じように火の池に投げ込まれるので、神の国で、誰も神に逆らうことはしないであろう。その時に火の池を拡大され、火の池の博物館と呼ばれる。人々にそれぞれの行為のファイルがあり、DVDを見ているように諸々の一生の経歴を記録されている。殺人や、放火や詐欺や脱税など、最も大変なのは、他人から福音を述べ伝えてもらう時に聞く耳を持たない事で、教会に行っても洗礼をお薦められたが、平気で断ったなど、確かに洗礼寸前まで一歩の距離しかなかったのですが、止めてしまった人が多くて本当に惜しかった。結局このような人が火の池に行くしかなかった。
ここで第二の死によって滅ぼされることではないと第二の死によっての害についの区別がはっきり理解するひつようがある。聖書は甚だしさで、非常に慎み深くて、一つの文字でも間違って漏れることがない。福音を述べ伝えるにあたって、戦争のようで、たやすいことではない。霊魂の為に暗闇の悪魔と戦うことであるが、所で人間が非常に愚かで、常に邪霊の運行によって、易者にお金を払って、占ってもらうのが好きである。私達はここでイエス・キリストの福音を述べ伝えても、聞く耳を持つ人が少ない。詩篇を読めば分かるが、イエスを信じてどれほど幸せであろう;
詩篇23:6わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
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なぜ易者に自分将来を聞くのか?神はここで言われた;必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。もし貴方はとこしえに主を信じれば、もし占いが何もかも分かれば、自分でも苦労する必要がないのではないか?何故、路上の端に体が縮んで座って、寒さに耐える苦労が必要があるだろうか?さっそくどこで宝くじを買って当たればいいではないか?ところで貴方が主を信じれば、そして戒めを守れば、必ず神からの恵みといつくしみとが伴う。
首相官邸が物凄く大きいですが、神の宮が更に広くて大きい。ホワイトハウスやクリムリン宮殿が神の宮に比べる毛頭もない。神の宮は宇宙の中心であって、永遠である。 わたしはとこしえに主の宮に住むであろう。 いくら首相官邸であっても、2年〜4年ぐらいしか住めないであるが、私達は主の宮に永遠住めるであろう。今日、私達の名刺にある肩書が首相官邸と印刷されれば、はばを利かすだろうが、神の国には入れたら、名刺の肩書を神の宮の誰か様と印刷すれば、どんなに違うだろう…それは永遠ですよ、よく考えてください。ところでいくら聖書に照らし合わせても、歴史や考古学などの証拠を聞いても、信じがたい貴方にとって何か手助けが出来ないかしら?只一つの方法があり、本当に世界情勢や歴史の流れや考古学に伴う証拠等を真剣に勉強し、教会に来るように勉強すれば、御霊も貴方に霊の智慧をお与えるでしょう、誠心誠意をもって、追い求めを努力しない限り、恵みが偶然という事がないのです。
多くの方が初めに主イエス・キリストを追い求める時に、よく何かによって攻撃されたので、怖がって教会へ行き続かなかった。例えば、教会へ出かけようとする時、何か夫婦喧嘩となることや、子供が風邪をひいたとか、自分の体の調子が悪くなって、めまいとか?約束があるとか、色んな不具合が起こり、それによって教会へ行くのをやめた。もしこの様な状態があれば、主イエス・キリストの御名によって、宣告しなさい;「私は主イエス・キリストの御名によって、いかなる邪魔でもさせないで、教会へ真理を追い求めますと勇敢に言う。そしてサタン、悪魔に下がりなさいとお祈れば、主が必ず見守って下さるので、頑張ってください。特に貴方にはなにか弱点があれば、サタン、悪魔が特にその弱点に向けて、攻撃する、何回にも弱点を攻撃されるかもしれないが、毎回主の御名によってお祈れば、貴方も実感で主が貴方と共におりますよ。アーメン。御霊はここで言われた;苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。
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