第四講義 燭台の間に人の子のような者がいた ヨハネの黙示録一章12〜16
1:12そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。1:13それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。1:14そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。1:15その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。1:16その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
1:12そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
ヨハネはこの時期に既に九十歳余りでした、彼の経歴よって、主のことにつき、とても詳しいはずですが、パトモスという島でこの神の幻を見たことに当たって、神である主は彼に呼びかけた声に彼の反応は「わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。」
主は地上に居る時にヨハネと親しみで主の懐に愛嬌するヨハネだった。主イエスは最も愛する弟子であった。イエスは高い山に登られる時でも、ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて行った。そして彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
又イエスは甦ってから。四十日昼夜で。使徒・弟子たちと一緒にいた経歴はクリスチャンにとって、非常に珍しい体験でした;只当時の百二十人だけ、主イエスの甦りを目の前にして見て、四十日を共に暮らした。ところで、甦った時の主イエスの顔を見ても、イエスだと知らなかった。主自ら彼らに啓示してからやっと主イエスである事が分かりました。
ルカによる福音書24:28それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。24:29そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。24:30一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、24:31彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。24:32彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
又
ヨハネによる福音書21:4夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。21:5イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。21:6すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。21:7イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
そして、数十年をたってから、神である主からパトモスという島にいるヨハネに呼びかけたその声を聞いても、誰かをしらなかった。
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クリスチャンとしてはいつ人との接触にも謙虚で臨むべきで、何もかも分かるという傲慢をやめるできですが、既に九十歳余りで、人間性や霊性とも最高峰に居るヨハネは既にヨハネによる福音書、ヨハネの第一の手紙とヨハネの第二の手紙とヨハネの第三の手紙も恐らく完成させたではないか?ところで神である主に声をかけられる時にこのような光景だったとは、私達のような人間の考え方を遥かに超える霊の世界の奥密であれば、神様のような広さは私達にとって想像もつかないだろう。
ヨハネの黙示録第1章1:10ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。1:11その声はこう言った、次の一節で言ったが;「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、」 ここまで言えるのが、ヨハネはまったく自分に呼びかけたその声は誰の声かしらなかった。
ヨハネのような経験者は主と共に3年余りも居て、主イエスの行いを目の前にしてもある日、主よりこえをかけられる時でも主の事を知らなかった。これは人間として限られる器である。これこそパウロは言われた;
コリント人への手紙第一の手紙十三章で;13:9なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。13:10全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
ヨハネの一生で、これは新しい経歴であるが、主からの仰せである。しかもラッパのような大きな声がする。ここには一つも問題がある。続いての15節で;1:15その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
前では言ったことがありますが、私達が常に神様に背が向いて、逆らうものである。私達には自分の人生計画があり、自分の考え方及び自分の価値観がある;すべて神様の意思にに反している。ところであの日で「主の日に御霊に感じた。」−聖書には意味のない言葉が一つにもありません。例えば七つの教会と言えば、七つの府や七つの町でもなく、七つの都である;
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なぜ一つの都ーには一つの教会しかなかった;当時の地方教会は全てだったのである。今の東京ように多くの教会があるものではない。二千年前の教会の始めに一つの都には一つの教会しかなかったのです。違う場所の教会の間には交流があるが、誰かに属することではない。今のように本店、支店の呼び方がありませんでした。
「わたしは、主の日に御霊に感じた。」そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。1:12そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと。この節の「ふりむくと」とは、非常に大事で、クリスチャンが只主の声に振り返られれば、よろしいが、中々しない。背が向くと後ろに何かあるか?分かるはずがない。ギリシャ語の「悔い改める」の意味は「心の悔い改めることであって、心の振りかえることが重要である」。
ヨハネの黙示録一章12節の「1:12そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと。」その極意は常に十字架に向けることの大切さであり、背を向けると、十字架から離れてしまう。どっちか宜しいが一目瞭然である。
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どんな人であれば、主イエス・キリストの十字架を謙虚に持ち上げられるのですか?パウロは次のように言われた;
コリント人への第一の手紙二章2なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
パウロの一生涯では「私は」に対する基準の考え方が「自我」を中心にすることではなく、十字架を原点に神様に向けて、十字架を背負っていくことである。神様の言に従えば、これこそ自分に従うことになる。もし誰か神様に背が向けば、自分には立場がなくなり、「私は」の立場とはキリストである。
中国語の繁体漢字の「來」の作り方は実に巧みである;左右に二人で、真中に主イエスで、三人が十字架につけられるように連想させてくれる。この二人の強盗が一人が救われたがもう一人が救われなかった。
ルカによる福音書23:39十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。23:40もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。23:41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。主はどうこの強盗にこたえたのですか?
23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
よく考えてみれば、強盗が既に十字架につけられたが、もうなにもできないではないか?しかし「悔い改めることさえ間に合うでしょう。」主は悔い改める強盗に言った言葉をもう一度よみましょう;
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
ヨハネの黙示録1:12そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
実に聖書の中にある神様は教会への黙示の言葉を非常に大事していた。パウロによる各教会へ送った手紙によって;例;
モテヘの第一の手紙3:15万一わたしが遅れる場合には、神の家でいかに生活すべきかを、あなたに知ってもらいたいからである。神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。3:16確かに偉大なのは、この信心の奥義である、「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた」。
しかし ヨハネの黙示録による「七つの金の燭台」について言うと、教会への黙示だけではなく、七つの教会に対し、教会の信仰の光景をそれぞれの異なるが言及した。ヨハネはヨハネの黙示録で何回も教会について、神の幻を見た時の驚き、これほど霊のある人だけに、何もかも驚きの連続で、すべて初耳や初めである。
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今の教会の信仰光景はそれほどよいとはいえないが、神様は七つの教会に言われた中にサルデス教会に送った言葉が最も意味深いものである。テアテラ教会に出された言葉が悔い改めなさいと警告した。では、サルデス教会にとって主の言葉は如何なものでしょうか?次の聖書を読みましょう;
ヨハネの黙示録3:1サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。3:2目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
上記の聖書によって、神である主の御言葉の通りに、今の更正教会―長老教会・パプテスマ教会・ルーテル教会などを含まれている各教派のキリスト教会がまさに言われた通りである。【わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。】だからイエス・キリストを信ずる多くのクリスチャンは教会の光景が悪い為、転々と教会を変えたり、転んだりし、最後止めたりもしました。
ヨハネの黙示録1:12による七つの教会は、何を指すのでしょうか?それは七つの金の燭台である。例えば、教会の光景が好くなくても、神様の金の燭台であるので、誰も七つの金の燭台を批判することができない。御霊は言うことができるが、人間なら言う資格がないはずです。
ローマ人への手紙2:1だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
【すべての人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。】聖書は他人へのさばく行為と言動を厳格に禁止される。御霊に感じた貴方であれば、振り返ってみると目の前にあるのが金の燭台であって、非常に輝いている;もう一度言いますが、神様の教会は金の燭台である。
旧約聖書には一つ特別の記載がありバラクは、バラムをお招き寄せて、『きてわたしのためにヤコブをのろえ、きてイスラエルをのろえ』と。しかしバラムは言われたことばー下記の聖書をよみましょう。
民数記23:21だれもヤコブのうちに災のあるのを見ない、またイスラエルのうちに悩みのあるのを見ない。彼らの神、主が共にいまし、王をたたえる声がその中に聞える。23:22神は彼らをエジプトから導き出された、彼らは野牛の角のようだ。
私達は知っている通りにイスラエル人がエジプトを出てから、絶えずに罪を犯し、神に逆らって、不信仰であるが、彼らは神の産業であるため、誰もイスラエル人を批判すべきではないと聖書は記載している。ですので、教会を裁かないようにそして、もし自分は自分が今までに間違って、批判したことがあれば、早めに神の前で悔い改める必要がある。教会がどんな光景になっていても、神様の金の燭台であり、神様の前に金の燭台の地位があるので、勝手に裁くことができないことを心に記憶すべきである。
聖潔の基本は口にある。自分の言動、特に先ず罪を犯すのは口から出てくる為、必ず口を慎むようにするべきである。わたしたちは多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、体の全身をも制御することのできる完璧な人となる。言い換えれば、どんな教会であっても例えば、テアテラ―教会でもさばくべきではない。いつも霊の中で神の金の燭台を見るがよい。
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私達の眼の中に映る地上にあるすべての教会はいずでも美しいことである。主イエス・キリストの福音を信ずる方にも可愛い。すべての人、主イエスの御名を真に信ずる方であれば、すべて私達の兄弟姉妹であり、私は只「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている」。こうする事が出来れば、教会は一つに団結ができるようになる。
私たちは見ている教会の人々について、目の不自由な人や足に障害のある人や借金したものなど……思わずなぜ教会には、こんな人ばかりであろう。私たちの眼に映っている教会は金の燭台ではないようだが、敢えて本当に神の金の燭台と言える。当初ヨハネの黙示録を読んでも、非常に分かりにくかった。第一章では、金の燭台と言われるが、第三章ではすなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
ここで分かるのは、教会とは神の金の燭台であるが、十二使徒以降の教会の行いについて、主の教えの通りに行っていないことです。
【あなたのわざが、わたしの神の御前に完全であるとは見ていない。】。カトリック教会の洗礼儀式は、浸礼から水礼を点する洗礼に切り替えられ、神父やシスタの結婚を許されないことに勝手に決め付けたなど、まさに【あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。】。
兄弟達よ;私達が主イエスの一信者である為、勝手に主イエスの体にある教会を裁くべきではない。この金の七つ燭台というのは、この二千年以来、教会の発展歴史であり、その光景である。
誰かよく言いますが、キリスト教会はなぜ多くのの宗派に分裂された?キリスト教自体には問題がある。兄弟達よ、疑うな、この二千年以来の教会の発展について、神である主は既にヨハネの黙示録の第二章と第三章の発展を予言されたのです。今になって、長い歳月を通して、この二千年の教会発展の歴史に基づいて、全くヨハネの黙示録の予言通りになっていたのです。ここで証明されてのは、数百年や数千年後の人間の歴史に対する予言できるのは神であり、そして、予言の通りになったのも、主イエスこそ宇宙の唯一の神であることを証明された。
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基督教が分裂されたので、異邦の民がこれを口実にし、キリスト教を攻撃するとは、いかにも神の予言を知らない連中であろう;ヨハネの黙示録の予言の通りになったので、教会分裂こそ私の主イエス・キリストは神であることを証明できたことではないか? よしここで私達は見たヨハネの行動;1:12そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。1:13それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
ヨハネの黙示録では、七つの金の燭台は七つの教会を意味する;この七つの教会の光景が全部好いとは限りません。ばらつきでも例えばよしあしでも、依然として神の教会であるので、兄弟達がこの事を必ず理解しなければならない。使徒ヨハネはこのような年になって、初めて大きな神の幻を見た;自分の目に映ったのはサルデスにある教会に『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。『わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。』このような光景になっていてもサルデスにある教会は神である主の金の燭台であり、主が真中にいる。「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」
上記の「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」という聖書の言葉は私達にとって、非常に大きな助けである。私達は常に教会に自分の意向に合わないと批判する場合があるが、聖書の教えの通りに教会は神である主の金の燭台であり、「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」
以上の事を理解できれば、もっと慎んで欲しいですが。教会の集会に行くのになぜ遅れたのか?教会に対し、異議があるので、遅れたのでしょうか?もし 教会は神である主の金の燭台であり、「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」このことを理解できれば、遅れはしないだろう。もし首相から日曜日の朝7時に総理官邸においでと誘われれば、恐らく貴方が6時30分に早くも着くでしょう。貴方は絶対に遅れはしない。
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それでは私達の神である主は地上の首相に比べれば如何ですか?今の私達の弱点は金の燭台が見えないだけではなく、「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」に対す、よく見えなかった為であろう。私達は見えるのが人間のみです。
「それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。」
聖書の中に上着(服)は行為を表し、人間が赤裸々の場合、恥ずかしい行為を意味するのである。
ルカ福音書の15章では、不孝の息子が悔い改めて、父の所に戻ってくる内容がある。中にある父は聖の父を表し、不孝の息子は私達を意味し、この世に居る私達はまさに赤裸々で、恥ずかしいことであるので、不孝の息子の親は息子が戻ってくるのを見て、すぐでも彼に上着を被せるのです。あの上着とは、キリスト・イエスの義を表し、主イエスの義が、私達の不義を被ったのです。
ルカによる福音書15:21むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。15:22しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。15:23また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。15:24このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
ヨハネの黙示録一章 1:13それらの燭台の間に、足までたれた上着を着。『足までたれた』=主の行為が完璧である事を意味する。『胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。』金は神の性格を表し、胸は人間の意念と信仰を意味し、ここでの意味は主イエスの信仰、意念等など、聖の父とまったく同じである。
ヨハネによる福音書12:49わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。12:50わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。
上記の聖書言葉の通りに、ヨハネの黙示録の第一章の始まりには、同じような語りがあったのである。
1.1イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。
主の胸に金の帯をしめているが、私達の胸に複雑な心境をしめている、これは私達の意念や計画するつもりである。主は自分の話をしていないで、只聖の父の御心にしたがって行うので、胸に金の帯をしめているというのは、すべて聖の父の御心の通りであり、自分の意思何一つもなかった。
ところで、人間は百パーセントに自分の為に言い訳する、自分の胸に金の帯をしめていないが、一体何を締めているでしょうか?
というので、主の行いは完全である正直である;「胸に金の帯をしめている」。次は何でしょう?「1:14そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。」
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白髪とは高貴さを表し、通常席上では白髪の人間が、前の席に座るのである。人の髪が白くなればなるほど、他人の尊敬を集めるようになり、実に、日常の生活で、よく見掛けている。ヨハネの黙示録一章14節によれば、天に居るキリスト・イエスの髪は白髪であり、主は『今いまし、昔いまし、常にいまし』。最も輝きであるので、白髪は主イエス・キリストの栄光のイメージでもある。
ところで、今時に市販されるイエスの写真が殆ど白髪ではないので、もし自宅の壁にそれを貼ってあれば、早めに外した方が宜しいかと思います。十字架だけで十分である。以下の聖書によって、イエスの顔に対する形容がある。
イザヤ書53:1だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。53:2彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
「かわいた土から出る根のように育った」のような姿は好いとは言えないでしょう?又『彼にはわれわれの見るべき姿がなく、』【われわれの慕うべき美しさもない。】尚
ヨハネによる福音書8:56あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。8:57そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。8:58イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
当時の主イエスは只三十歳あまりであるが、多分年が老けて見えるのではないか。ユダヤ人たちはイエスに言った言葉がある;「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たことがあるのか?」。この言葉によって、考えられるのも、主イエスは地上に居る時の顔がきれいとは言えないだろう。しかし今のイエスの市販の顔写真は、凄くハンサムではないか?人間としては神である主の顔写真を勝手に描がくべきではない。
この言葉によると;【目は燃える炎のようであった。】とは、主イエス・キリストは一切を見抜くことができるし、人々の心を鑑査もでき、又いかなる人やことでも主をだましきれないことを意味するのである。主は貴方の顔や身分を見ることではなく、貴方の心を評価するです。願わくは兄弟達が神の教会の事を金の燭台のように見えて、又主の居ることも見えるように目を覚ます。私達の神は高貴であり、永遠である。
次に十分の一の献金の真理を述べましょう;献金は自分の心の誠心誠意によって、神の戒めに従って奉ゲルことである。決して無理やりではない。本意でなければ、価値がなくなる。自分の信仰の大小によって、神はそれに答える。なにしろ私達の信じている神は真の神様であり、全能者であって、全てを見通しである。
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ヨハネの黙示録1:15その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
聖書の中によく神の足を述べます。銅とは何の意味ですか?前に語ったことがあります。金は神の性格や生命を表し、聖の都新エルサレムが金で作られるものである。銀は救いを意味し、銅とは、裁きを表しである。それでは神の足は【炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、】それが一つ特別の裁きを示し、雑の物の参入がちっともできない。これこそ神の正しい裁きであり、神の御心はてすべて正しい裁きにに溢れる意味をする。
【声は大水のとどろきのようであった。】神の声は大きくて、大水のとどろきのようであった。前では「ラッパのような声」を述べた;聖書の中によく神の声は大水のとどろきのようである、又「ラッパのような声」を形容される。
ラッパとは一つの行動を意味する;一つの戦争;水は生命や養いを意味する。
人間への救いを講ずると、血の水を通して;
ヨハネの第一の手紙5:5世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。5:6このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。血とは、お許しを表し、水は養うのを意味する。
1:16その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
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この七つの星とは聖書にある意味の通り;すなわち、七つの星は七つの教会の御使である;
「口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており」=御霊の剣―神の言を取り
エペソ人への手紙6:17また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
と言うことで、主イエスの言―御霊の黙示は即ち【鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており】
【顔は、強く照り輝く太陽のようであった。】=通常、神の言が出ると、人間の思いを明らかにし、心の持つ意念を明確にされる 。
兄弟達;一人のクリスチャンとしては、キリストに対する認識や感ずることが非常に重要な人生の廻り角である。下記の聖書を読みましょう;
マタイによる福音書16:13イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。16:14彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。16:15そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。16:16シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。そして
マタイによる福音書16:17すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。16:18そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。16:19わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
主イエス・キリストはマタイによる福音書の16章で、初めて明確に言われた;イエス・キリストこそ生ける神の子基督であって、教会はイエス・キリストの御名の上に建てられる;又教会は【基督こそ、生ける神の子基督であるのを承認し、この土台の上に建てられる。もし私達は生ける神の子イエス・キリストを認識していなければ、又信じていなければ、貴方はこの信仰問題を見詰め直さなければならない、教会の基礎は神の子イエス・キリストを認識し、又承認する信仰の土台の上に建てられるのである。
新約聖書の始まりは四福音書であり、次に使徒行伝―五旬節の日がきて、御霊が舌のようなものが、炎のように分れて現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊は人々に諸々の国こ言葉を語らせ、色んな方言が出た。
使徒行伝2:1五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2:2突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。2:3また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。2:4すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
聖書の記載内容を計算し、この五旬節の日を守る為に、エルサレムには、諸々の国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいた。モーセー律法では信者達が毎年エルサレムへ神を拝みに行かれる祭りが3回もあるー過越の祭・仮庵の祭・五旬節の日である。それ以来いつの間にか誰によって、一生に必ず一度エルサレムに行かれると修正された。
次の使徒行伝を読みましょう;
使徒行伝2:6この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。2:7そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。2:8それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
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例えば;生まれてからずっとユダヤ地に住んでいたユダヤ人であれば、パンフリヤ語を話せるわけがないが、パンフリヤから来られた聖徒達はエルサレムにいる使徒の内にパンフリヤ語が話せる人を見て、非常におかしいと思った。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。 当時その場に居合わせたペテロは言われた
使徒行伝2:14そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。2:15今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。2:16そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、2:17『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。2:18その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。2:19また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。2:20主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。2:21そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。
ペテロは又ダビデが言われた予言を述べて;
使徒行伝2:25ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。2:26それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。2:27あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。2:28あなたは、いのちの道をわたしに示し、み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。
下記の聖書はダビデ王が詩篇の中にお祈りをした言葉であった;「あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。」それで、ダビデは既に朽ち果てたがあの朽ち果ていないのは主イエス・キリストの甦りを指して言われたのです。
ペテロは言い続けた;兄弟たちよ、部族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている;『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。
だから、イスラエルの全ての人は、この事を知っておくがよい。貴方達によって、十字架につけられたイエスを神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。下記の聖書に引き続き;
使徒行伝2:37人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。2:38すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
使徒行伝の中に「悔い改めることとは何を意味するかとはっきり言いました。ここで、いくつか重要な意味がある。第一;この五旬節の日を守る為に、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが。当時の交通が非常に不便で、片道でも数カ月がかかるだろうし、往復の場合でも1年がかかることもあると思う。しかも当時の旅は主に歩きである。当時にカナンに住んでいたユダヤ人より難しい状態にあるだろう。こういうことによって考えれば、彼らは非常に信仰心の深いユダヤ人である。では彼らに対し、悔い改めるとは何ですか?彼らは人を殺したか?詐欺や他人をごまかしたか?姦淫を犯したか?いいえ何もかも悪行をしなかったが、それでは、何を悔い改める?答えは主イエス・キリストに対する悔い改めである。
私達は主について行っても、最大の困難は神である主をよく知らない。神である主を認識するか?しないかによって、日常生活方式も異なってくる。神である主への認識につき、貴方の生活から覗かれる。私達は教会に仕え、燭台の間に人の子のような者がいたことを見たことがありませんか?それとも金の燭台の異像も見えてこない?主に二千年前に使徒ヨハネに賜った異像も私達に賜ってくださるようにお祈り求めましょう。
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今からでも間に合いますが、誠心誠意で神を追い求めるように