ハルマゲドン戦争が終結し、サタンが底知れない穴に投げ込まれてから、大災難の地上で、もろもろの民が裁かれる。
ヨハネの黙示録二十章4.また私は,多くの座を見た.彼らはその上にすわった、そしてさばきを行なう權威が彼らに與えられた.また私は,イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと,やその像を拜まず,その額や手にの刻印を押されなかった人たちを見た.彼らは生き返って,キリストとともに,千年の間王となった.
マタイ福音書十九章27.そのとき,ペテロはイエスに答えて言った.「ご覽ください.私たちは,何もかも捨てて,あなたに從ってまいりました.私たちは何がいただけるでしょうか.」28.そこで,イエスは彼らに言われた.「まことに,あなたがたに告げます.世が改まって人の子がその榮光の座に着く時,わたしに從って來たあなたがたも十二の座に着いて,イスラエルの十二の部族をさばくのです.
ヨハネの黙示録二十章にある「多くの座を見た」というのは、少なくとも12席の座があるが、異邦の民の聖徒をも裁くので、ここにある御座が12席だけではなく、更に多いはずである。イスラエルの12部族は12人の使徒によって裁かれ、異邦の民の聖徒は恐らく少数の異邦の民の中にある勝利を得る聖徒によって裁かれる。彼らも同様に御座に着座し異邦の民の聖徒を裁く。勿論ここには一人の審判長が居る筈で、私たちの主イエス・キリストである。
なぜか救いの恵みを得た聖徒を裁かなければならない?』と聞く方もいるだろうが、「はい、そうです」ここで、勝者であるかどうかを裁き出すのです。
裁判から裁き出される勝者が即ち「第一の復活にあずかる者」。
ヨハネの黙示録二十章6.この第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である.この人に對しては、第二の死は,なんの力も持っていない.彼らは神とキリストとの祭司となり,キリストとともに,千年の間王となる.
これらの人が勝利を得るキリスト徒です。つきましてはその他のキリスト徒は、第一の復活にあずからないものは、第二次の審判を待つしかない。所謂大きな白い御座の審判である。
ヨハネの黙示録20:11また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。20:12また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
大きな白い御座の審判に当たって、いのちの書があり、死んだ人は,これらの書物に書きしるされている名前のある方こそ、救いを得られて、永世に入ることが出来る。
もし助からねければ、あの裁きの結果はすぐでも火の湖に投げ込まれ、永久であることに至るまで。事実上歴代の人々が肉体の生きる時、主イエス・キリストを信じていなければ、死んでから火の池に直ちに投げ込まれる。この真理は聖書のルカー福音書16章に基づいて、金持ちとラザロの故事によるものである。
しかし大きな白い御座の審判になると、火の池から出てきて、審判を受けなければならない。その後、再び火の池に戻って、永遠に出られない。
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異邦の民の不信者であれば、肉体の命が死んでからすぐでも火の池に投げ込まれることになる。
クリスチャンが死んでから、あの世のパラダイスに下りることです。聖書は多くの所で、この真理を言ってある。最も有名な例は、主と共に十字架に釘付けた二人の強盗の事である。
ルカ福音書23章39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに惡口を言い,「あなたはキリストではないか.自分と私たちを救え.」と言った.40ところが,もうひとりのほうが答えて,彼をたしなめて言った.「おまえは神をも恐れないのか.おまえも同じ刑罰を受けているではないか.41われわれは,自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ.だがこの方は,惡いことは何もしなかったのだ.」42そして言った.「イエスさま.あなたの御國の位にお着きになるときには,私を思い出してください.」43イエスは,彼に言われた.「まことに,あなたに告げます.あなたはきょう,わたしとともに パラダイスにいます.」
十字架に釘に付けられる強盗のことであるが、彼はただ助かっていて、勝利を得ていなかった。
但し主は彼に話した;『まことに,あなたに告げます.あなたは今日,わたしとともにパラダイスにいます.」主イエスは死後の3日目に甦った。それで、『今日』というのは、十字架に釘つけられた当日のことを指して言うのですが、主はパラダイスに下ったのである。
それでこの強盗は同様に間もなく主と共にパラダイスに下ることになる。この強盗は、一生、唯一つ正しい事をやったのである。死ぬ前に主に対し、悔い改めると宣告した。。彼は決して勝利を得る者ではないが、彼さえ洗礼を受ける機会もなかったが、信によって、救いを得られた。これこそ聖書の中に パウロが言ってある「信によって、義を得られる」というのである。
だから私たちは確定可能で、この強盗は永久に火の湖に下りることがなかった。しかし、主が再来の時期に当たって、ヨハネの黙示録の第七の封印を開く前から、ハルマゲドン戦争前にある約3年半の時期に即ち神の家の審判を指してーすべての聖徒・クリスチャン・ユダー信徒が含められる。
地上に生きる聖徒達からあの「ひとりは取られ,他のひとりは殘されます」。
ルカ福音書17章34.あなたがたに言いますが,その夜,同じ寢台で男がふたり寢ていると,ひとりは取られ,他のひとりは殘されます.35.女がふたりいっしょに臼をひいていると,ひとりは取られ,他のひとりは 殘されます.」36.ふたりが畑に一緒にいて、ひとりは取られ,他のひとりは殘されます。
つきましては既に肉体的に死んだ聖徒について、花婿を待つ10人の娘の事を見てみましょう;
マタイ福音書25章1.そこで,天の御國は, たとえて言えば,それぞれがともしびを持って,花婿を出迎える十人の娘のようです.2.そのうち五人は愚かで,五人は 賢かった.3.愚かな娘たちは,ともしびは 持っていたが,油を用意しておかなかった.4.賢い 娘たちは,自分のともしびといっしょに,入れ物に油を入れて持っていた.5.婿が來るのが遲れたので,みな,うとうとして眠り始めた.6.ところが,夜中になって,『そら,花婿だ.迎え出よ.』と叫ぶ聲がした.7.娘たちは,皆起きて,自分のともしび整えた.8.ところが 愚かな娘たちは 賢い娘たちに言った.『油を少し私たちに分けてください. 私たちのともしびは消えそうです. 』9.しかし,賢い娘たちは答えて言った.『いいえ,あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません. それよりも 店に行って,自分のをお買いなさい.』10.そこで,買いに行くと,その間に花¿が來た.用意のできていた娘たちは,彼といっしょに婚禮の祝宴に行き,?がしめられた.11.そのあとで,ほかの娘たちも來て,『ご主人さま,ご主人さま.あけてください.』と言った.12.しかし,彼は答えて,『確かなところ,私はあなたがたを知りません.』と言った.13.だから,目をさましていなさい.あなたがたは,その日,その時を知らないからです.
勝利を得るものは、すべての聖徒から出て来る。そして、聖徒たちも神の家の裁きを受けならなければならない。
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十人の娘のことであるが、死んだのは、そのうちの五人の愚かな娘であって、残りの五人が賢かった。地上に生きている聖徒は、ひとりは取られ,他のひとりは殘されます。数を合わせると12となり、完全な意味である。
主が再来の時に、ひとりは取られ,他のひとりは殘されます.きっと生きている聖徒を指して言われると思いますが、「女がふたり一緒に臼をひいていると,ひとりは取られ。」と言う意味は、生きる人間と死んだ人間を指して言うことではないはずだが、又二つの死体で、臼をひいていると言うことでもない。」パラダイスで、休むだけで、仕事をなさる訳がない。ですから;「女がふたり一緒に臼をひいていると,」「同じ寢台で男がふたり寢ていると」「ふたりが畑に一緒にいて、」指してものはきっと世間で、生きる聖徒である。
死んだクリスチャンは、あの十人の娘のうちに5人の愚かな娘たちが外にいて、5人の賢い娘達が中にいる。マタイ福音書二十四章を読めば、十人の娘と死んだ聖徒達が、肉体の命が尽きてから、火の池に投げ込まれる事ではなかったと言う。「彼らは全部主の中に休みに入ったと言うことである。即ちパラダイスに入って、休んでいることをさすのである。
主の再来になると、聖徒たちが起こされー「花婿が来た」。勝者がミレリアム(千年の国)に行き、勝利を得ていない聖徒達が暗闇の外に残されるか火の池に投げ込まれる。
ですから、聖書の言による意味は、聖徒達の肉体の命が尽きてから、天国へ行くことではないのを意味するのである。信仰の父であるアブラハムさえ天国にいっていないのに、私達がいくはずがない。金持ちとラザロのことから,アブラハムがまだ天国に行ってないことが証明出来る。金持ちがハデスで苦しみながら目を上げると,アブラハムが,はるかかなたに見えた.しかも,そのふところにラザロが見えた。
もしアブラハムとラザロが天国に居るなら、金持ちがいくら頭を挙げても、見えるわけがないあれは、ハデスから、(陽世)人間の世界を通過し、一層の天・二層の天・三層の天まで進み、それからやっと天国が見えるのですが、そう言う事は全く不可能である。
金持ちは、信仰の父であるアブラハムに『私をあわれんでください.ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように,ラザロをよこしてください.私はこの炎の中で,苦しくてたまりません.』と頼んだ。
ルカ福音書16章23その金持ちは,ハデスで苦しみながら目を上げると,アブラハムが,はるかかなたに見えた.しかも,そのふところにラザロが見えた.24彼は叫んで言った.『父 アブラハムさま.私をあわれんでください.ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように,ラザロをよこしてください.私はこの炎の中で,苦しくてたまりません.』25アブラハムは言った.『子よ.思い出してみなさい.おまえは生きている間,良い物を受け,ラザロは生きている間,惡い物を受けていました.しかし,今ここで彼は慰められ,おまえは苦しみもだえているのです.26そればかりでなく,私たちとおまえたちの間には,大きな淵があります.ここからそちらへ渡ろうとしても,渡れないし,そこからこちらへ越えて來ることもできないのです.』
その金持ちと信仰の父であるアブラハムとの場面の図はどう屋って想像し描けるだろうか?アブラハムが,はるかかなたに見えた.しかも,その懐にラザロが見えた。金持ちが次のような話をした:『父アブラハムさま.私をあわれんでください.ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように,ラザロをよこしてください.そしてアブラハムは答えた;「私たちとおまえたちの間には,大きな淵があります.ここからそちらへ渡ろうとしても,渡れないし,そこからこちらへ越えて來ることもできないのです.」ここからはっきりしているのは、金持ちがハデスに居て、アブラハムとラザロがパラダイズに居ることである。
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アブラハム・モセー・ダビデが死んでから天国に行くことではなく、あの世の楽園に下りたです。即ち聖徒たちが皆そうなる。兄弟たちよ、勝利を得る聖徒やクリスチャンなどが死んでから全部その世にある楽園に行き、そして行いが失敗した聖徒でも、主を堅く信じることであれば、本当に助かった人、同じようにその世の楽園に行く事になる。あの十字架の上で、悔い改める強盗も、あの世の楽園に入ることになる。
サウルはペリシテ人と戦争が起こる前日に、靈媒をする女にサムエルに戦争の成敗を尋ねてみた。この件につき、聖書の言葉によると「年老いた方が上って來られます.外套を着ておられます.」
サムエル記T:28章13.王は彼女に言った.「恐れることはない.何が見えるのか.」この女はサウルに言った.「こうごうしい方が地から上って來られるのが見えます.」14.サウルは彼女に尋ねた.「どんな樣子をしておられるか.」彼女は言った.「年老いた方が上って來られます.外套を着ておられます.」サウルは,その人が サムエルであることがわかって,地にひれ伏して,おじぎをした.
もう一度見てみましょう;「年老いた方が上って來られます.外套を着ておられます.」サウルは,その人がサムエルであることがわかって,地にひれ伏して,おじぎをした。
だからサムエルはあの世の楽園にいるのが間違いではない。
サムエル記T:28章「19.主は,あなたと一緒にイスラエルをペリシテ人の手に渡される.あす,あなたも,あなたの息子たちも私といっしょになろう.そして主は,イスラエルの陣營をペリシテ人の手に渡される.」
サウルと彼の息子が死んでからもあの世の楽園に行くことになる。サムエルが勝者で、言い争うことがないですが、サウルが勝者になれないだろう?彼は偶像を拝み、又主の言われることに耳を傾けなかったし、靈媒によって、伺いを立てた。聖霊は何を言われる?
歴代誌T:10章13.このように,サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ.主のことばを守らず,そのうえ,靈媒によって伺いを立て,14.主に尋ねなかった.それで,主は彼を殺し,王位をエッサイの子ダビデに回された.
サウルが死んでから、あの世の楽園に行かれた。聖書によって、今まで死去したすべての聖徒が楽園にいるのである。。
これは、クリスチャンと成られて、極めて幸いなことである。もしクリスチャンでなければ、死んでから、すぐ地獄の火の池に投げ込まれることになる。
しかしここまで終わるということではない;主の再来になると、ハドマゲドン戦争を終えて、サタンを底知れぬ穴にいれられる。そして、すべて死んだ聖徒と死んでいない聖徒を呼び出されて、神の正しい裁きをうけさせるようになる。
勝者がミレリアム(千年の国)に入り、イエス・キリストと共に千年の間、王となり、神とキリストの祭司となれ、千年が終えても王として延々と続く。
ミレリアムに入れる人に対し、主はなんと言われるでしょうか?
ヨハネの黙示録2章11.耳のある者は御靈が諸ヘ會に言われることを聞きなさい.勝利を得る者は,決して第二の死によってそこなわれることはない.』
それでは、敗者はどうなるでしょうか?並行の真理で言えば、「敗者は第二の死によってそこなわれることになる。前面はすでに解釈したことがあって:『第二の死は』火の池に入るのです。
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それで羊の婚姻の宴にある千年の間に、勝利を得たものとキリストと共に王となるが、失敗の人が火の池に入ることになる。聖書によって、この人の結末が焼かれることになる。
ヘブル6章7.土地は,その上にしばしば降る雨を吸い込んで,これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら,神の祝福にあずかります.8.しかし,いばらやあざみなどを生えさせるなら,無用なものであって,やがてのろいを受け,ついには燒かれてしまいます.
イエスを信ずるだけでもう充分だと思うと、大間違いである。本当にイエスを信じれば、救いを得られるけれど、救いを得られると得られない分別がどこにあるのか?
ヨハネの黙示録20章13.海はその中にいる死者を出し,死もハデスも,その中にいる死者を出した.そして人々はおのおの自分の行ないに應じてさばかれた.14.それから,死とハデスとは,火の池に投げ込まれた.これが第二の死である.15.いのちの書に名のしるされていない者はみな,この火の池に投げ込まれた.
いのちの書に名のしるされていない者は、救いを得ていない意味である。いのちの書に名のしるされている者は助かると言う意味である。白い御座の審判は千年国の後になり、歴代のすべての人々及びアダム以前世代の人々を裁くことになる。助かったものは永世に入ることができて、助からなかったものは永遠の火の池に投げ込まれる。白い御座の審判の前にあの千年の羊の婚姻が終える時、
ヨハネの黙示録;20章7.しかし千年の終わりに,サタンはその牢から解き放され,8.地の四方にある諸國の民,すなわち,ゴグとマゴグを惑わすために出て行き,戰いのために9.彼らを召集する.彼らの數は海べの砂のようである.彼らは,地上の廣い平地に上って來て,聖徒たちの陣營と愛された都とを取り圍んだ.すると,天から火が降って來て,彼らを燒き盡くした.10.そして,彼らを惑わした惡魔は火と硫?との池に投げ込まれた.そこはも,にせ預言者もいる所で,彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける.
兄弟たちよ、サタンの役割が何でしょうか?彼は主によって、起用され、本当のクリスチャンであるかどうかを試し、本物であるクリスチャンを選ぶのに一つの濾過の皿である。主の意に得られないものを濾過され、焼かれるためです。千年の間が終えて、サタンはその牢から解き放され,最後の仕事をやり遂げる。
千年の国の時期でも死亡があるが、永世に入れば、死がなくなる。
ヨハネの黙示録21章4.彼らの目の?をすっかりぬぐい取ってくださる.もはや 死もなく,悲しみ,叫び,苦しみもない.なぜなら,以前のものが,もはや過ぎ去ったからである.」
誰か聞いているか?サタンはなぜそんなに威張る?主は全能者であるのに、どうしてサタンにクリスチャンや人々を攻撃することを許す?その答えは極めて簡単である。主はサタンのような工具を利用し、すべての悪いやつを切り捨てるためである。サタンが地上で任される仕事をやり遂げ、神による宇宙を創造する計画の目的を達成できる途端に、サタンを火の池に投げ込まれ、そこから永遠に出られない。
では白い御座の審判はどういう裁きである?この裁きで、主の御座の前に2冊の書があり、1冊は命の書で、もう1冊は行為の書である、『人々はおのおの自分の行ないに應じてさばかれた。』この裁きでも非常に簡単で、命の書にクリスチャンの名前が記載されるのである。御座の前で助かるクリスチャンも居れば、不信の異邦の民も居る。
ここにいるクリスチャンは助かったが、勝利を得ることはできない。勝利を得るものが既に千年前に千年国に入ったのである。す。
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勝利を得る聖徒を除いて、主の御座の前にすべての人々が立って、審判を受け始める。「誰か?何年生まれ...お母さんを騙した、お父さんを欺き、嘘つき、悪事を働き、人を殴り等など。」認めなくてもしょうがない、皆の一生はビデオのように再現されるであろう。
御使がこの人一生の罪を数えて、火の池に彼を入れようとする時に、主イエスは言われた「ちょっと待って」。そうです、いのちの書に自分の名前があれば、助かるのです。これこそ「信仰によって義と認めてくださる」。白い御座の審判で、命の書に自分の名前が書かれてあれば、助かることになる。
聖書を読んで、多くの言葉に対し、おかしいと思う事もしばしばであるが、例えば;なぜ助かるクリスチャンの歯が泣いてくいしばり、又なぜ私に属しない枝が焼かれるか?
ヨハネ福音書15章2.わたしの枝で實を結ばないものはみな,父がそれを取り除き,實を結ぶものはみな,もっと多く實を結ぶために,刈り込みをなさいます.
多くの人がこの「わたしの枝で實を結ばないものは」と言う所を読んで、なぜ刈り切られるでしょうか?に対し、非常に理解できないのに、更に酷いのが火の池に投げ込まれることも到底知るはずはない。
ヨハネ福音書15章6.だれでも,もしわたしにとどまっていなければ,枝のように投げ捨てられて,枯れます.人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので,それは燃えしまいます.
聖書は一体に何を話しているのか?主に属する枝は一体助かるか?或いは助かぬのですか?もし救いの福音であれば、主に属する枝であれば、、なぜ火の池に入れられる?実に勝利を得る者と勝利を得ていない者が、大違いなのである。勝利を得ていない人であれば、千年の間に裁きを受けるとしたら、すぐでも火の池に落とされることになる。
コリント人への手紙一3章13.各人の業は明瞭になります.その日がそれを明らかにするのです.というのは,その日は火とともに現われ,この火がその力で各人の業の眞價をためすからです.14.もしだれかの建てた建物が殘れば,その人は報いを受けます.15.もしだれかの建てた建物が燒ければ,その人は損害を受けますが,自分自身は,火の中をくぐるようにして助かります.
救いを受け入れる人であれば、「自分自身が,火の中をくぐるようにして」。火の池の中で、千年間でも焼かれ続けば、似合わないわけがないでしょう?火の池より出て来る時に焦げ臭い匂いがするし、50キロ先でも匂う。
火事現場から逃げ出す人を見たことがありませんか?まさか顔色が元気で、洋服のまっすぐな気振りを奮い起こすことであり得るか?火災現場から逃げ出す人なら、皆ウエアリングシャツとパンツで、オールオアナッシングで、黒焦げる状態である。
聖書はこの『命拾い』と言うのは、それなら火の中にいるではなく、火の中をくぐるように。即ち勝利を得られない人であれば、第2の死の害を受けることになる。
と言う事で、なぜ今日はこんなに努力しなければならないのか?洗礼を受けることさえすれば、卒業できると思えば、大間違いだと知らなければいけないし、又1回助かれば、永久に助かると思うとのんびりしてしまう。
それは、只一つ確実な事ですが、千年国の後にある白い御座の裁きで、永遠に火の池に落とされることがないのです。しかし助かる人に対し、千年の火の池にも大変な苦痛で、少なくても摂氏1万度以上の高温の中に千年も焼かれることになる。想像することだけでもぞっとするであろう。
助からなかった不信者に対し、もしある日、主イエスの御使が火の池に来て、努力する人なら、無期刑から1万年の刑に切り替えると宣言すれば、減刑の宣告を聞いたら、どうなるか?元に火の池に永遠にいる人にとって、どんなに喜ぶでしょうか?恩赦があれば、後何年火の池に居ても我慢できると思うからである。しかし事実はそれが不可能なことである。命の書に名前が記載されていない人であれば、永遠に火の池に入れられる。そして、焼かれに焼かれ、昼も夜も焼かれる、永遠に焼かれることになる。
十年・百年・千年・1万年・十万年・百万年・千万年・億万年―一体いつまで焼かれるだろう?答えは永遠的である。
これは助からなかった人の結末である。イエスを信ずていない人の報いには聖書によって、永遠に焼かれることになると書いてある。新しい天と新しい地なっても、不信の人にとって、永遠に分がないのある。
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